ひんやりとした空気に身震いし、ヒカリはゆっくりと重い瞼を上げた。
少しずつ周囲の状況が鮮明になるにつれ、ヒカリは更に身震いすることとなった。夜の宿屋の一室で自分が横たわっていたのは、自らのドライバーとなった男、アデルのベッドの上だったのだ。
思わず大声で叫びそうになって、すんでのところでぐっとこらえた。
不幸中の幸いは、アデルが未だ夢の中にいることだろう。これで起きて困った顔でもされていたらたまったものではない。一瞬浮かんだアデルの苦笑いする顔を脳内から追い払いながら、ヒカリはなるべく音を立てないようにして、しかし素早くベッドを離れた。
アデルは口を開けて寝息を立てていた。寝息は安らかに聞こえるけれど、彼の表情は決して安らかなものではなかった。無防備であるがゆえにさらけ出した表情とでも言おうか。僅かに寄った眉間の皺を目ざとく見つけ、ヒカリは小さく溜息を吐いた。
イーラの王子という身分。誰に対しても分け隔てなく接し、常に前向きな姿勢で人々を鼓舞する優れた人格の持ち主。そんな人柄ゆえに、民達の心を惹きつけて止まないカリスマ性――次期イーラ王として申し分のない資質を誰よりも多く持ち合わせながらも、彼の人生は順風満帆とはほど遠いものであることを、ヒカリは知っていた。自分と同調せざるを得なくなったこともそうだ。たまたま天の聖杯と同調できる適性を持っていたというだけで、彼はヒカリのドライバーとして、メツを斃す使命を背負うこととなってしまった。
彼は決して、ヒカリと同調したことを後悔しているような素振りは見せない。だが、自分の存在が、彼にとって枷になっていることを、ヒカリは十分すぎるほどに理解していた。
だからこそ、互いの使命を果たすためだけに繋いだ関係と割り切って、最初は距離を置いていたのに――ヒカリは唇を噛む。それでもアデルは天性の人の良さを発揮し、ヒカリの心をどうしようもなくここまで惹きつけてしまった。彼を慕うミルトや抵抗軍、イーラの民達と同じように。
そう意識した途端、ヒカリの胸に何かがこみ上げ、ヒカリはひゅっと息を呑んだ。言い知れぬ衝動に駆られ、ヒカリはゆっくりとベッドに膝をついていた。
苦悩すら滲むアデルの表情が誰よりも端正で整っていることを、嫌でも意識せざるを得なくなる。
彼のために、何かしてあげたい。自然とこみ上げてきた自分の思いに、ヒカリは珍しく素直に向き合った。アデルが眠っていて、無防備だったせいもあるかもしれない。
ふと――ヒカリの脳裏に、ある光景が蘇る。
以前、アデルが用を足しに行くと言って、イーラの森の木陰でこっそりと自慰行為をしていたのを、目撃したことがある。あの時は一瞬目を逸らしたものの、どうしても気になって、ヒカリはこっそりとその一部始終を見届けてしまった。
それは決して汚い欲望を吐き出す類のものではなかった。彼には故郷に残してきた妻がいる。彼は途切れ途切れに妻の名を呼びながら、苦しそうに己を慰めていた。家族との穏やかな時間すら、自分は彼から奪ってしまっている――ヒカリも徐々に息苦しさを覚え、彼の息遣いが聞こえるたび、身悶えていた。
けれど、終わった後は妙にすっきりした顔をして、いつもの笑顔でキャンプに戻ってきた彼の表情が、今でも忘れられない。あれをしたことで、彼は一時的であろうとも“発散”できたのだ。ならば――
ヒカリの手が、アデルのズボンのベルトへと伸びる。思ったよりも外すのに苦戦したが、アデルは余程疲れていたのだろうか、目を覚まさなかった。
「もう……何よ、ちょっと寝過ぎじゃないの……」
その方が好都合であるのに、いつもの悪態が口をついて出た。
ズボンと下着を下ろすと、あの時は木陰でよく見えなかった、アデルの男性の象徴が眼前に曝け出された。
ヒカリは思わず唾を呑んだ。
当然、初めて見るものである。頬がかっと熱くなるのを感じた。恥ずかしくて落ち着かなくて、今すぐここから逃げ出したくなる。だが、それでは何の意味もない。ヒカリはそろそろと手を伸ばし、彼の象徴に触れた。
「熱い……」
ヒカリは目を見開いた。人肌と変わりない温度とはいえ、もっと冷たいもののように想像をしていたヒカリにとって、それは十分すぎるほどの熱を発していた。胸の鼓動が速くなる。ヒカリは両手でやわやわと握った。アデルの温度に直接触れて、ヒカリは落ち着かなさと同時に、安堵感を覚えていることに気付いた。
「アデル……」
あの時アデルがしていたことを、自分の手で再現する。ヒカリは両手でアデルの陰茎を包み、ゆっくりと上下に動かし始めた。すると、驚くことに、手を動かすたびにそれが硬くなっていくのを感じた。そればかりか、
「っ、ん……あぁっ……」
アデルの口から小さな声が漏れ始めたものだから、ヒカリはぎょっとして思わず手を止めた。それでもまだ、アデルは目を覚まさない。ほっとしたような、そうでないような複雑な気持ちになって、深い溜息をついた。
一呼吸の後、ヒカリはもう一度、手を動かし始めた。
アデルの息が小刻みに聞こえてくる。いつもは聞けないような艶っぽい声が上がるたび、ヒカリの胸の鼓動が加速する。彼と同じ部分が熱くなったような気がして、ヒカリは思わず太ももを擦り合わせた。
どうしてこんな気持ちになるのか、わからなかった。それでも、ヒカリの手は止まらなかった。
気付くと自分の手が濡れていて、彼の先端から透明の液が滲み出ていた。他の男のものなら、即座に汚い、と切り捨てていただろう。だが、アデルのそれは違った。ヒカリは思わず、先端に口付けていた。彼のものを余すところなく自分のものにするかのように。
自分は狂ってしまった、と頭の隅で自覚した。けれども自覚をしただけで、動きまでは止まらなかった。
透明の液は次々としみ出してくる。ヒカリが夢中になって啜っていると、ふと、雷に打たれたかのように、腰が急に浮いた。
「っ、ヒカリ! 何をして……!」
ヒカリはおもむろに視線を上げ、アデルが驚いた目でこちらを見ていることに気付いた。ヒカリはゆっくりと口を離し、彼と向き合った。見られてしまった、けれども、逃げようとは思わなかった。驚愕に見開かれた彼の瞳を、どうしようもなく、愛おしいと思った。
「悪い? あなたを気持ちよくさせてあげてるの」
感情を押し殺した目で見据えながら、ヒカリは抑揚のない声でそう告げた。アデルが息を呑むのが分かった。
ヒカリはもう一度アデルの先端に口づけようとして、しかしアデルが腰を引いて避けたので、彼をじっとりと睨み付けた。自分は彼のためにしているのだ。逃げられる筋合いなど、ない。
アデルは動揺を隠せずにいたが、努めて冷静な表情を装おうとしているようだった。
「ヒカリ……、君の中で何があったのかは知らないが、こんなことは、良くない。何を思ってこうなったのかは分からないが……」
「うるさいわね。気持ちいいんでしょう? だったら、私にされるがままでいればいい」
「いや、それだけは断固として受け入れられない」
「どうしてよ!」
ヒカリは思わず声を荒げた。
いつもなら自分のわがままを、仕方ないと言って流してくれることの方が多いのに。ヒカリはどうしようもなく悲しくなって、その場で泣き出しそうになるのをぐっと堪えた。彼の体液にまみれた手が、外から差し込む月光に反射して、てらてらと光っていた。
対するアデルはすっかりいつもの冷静さを取り戻し、真っ直ぐな瞳でヒカリと相対していた。
「君は天の聖杯だ。僕の性欲処理をするための道具なんかじゃない、そうだろう? 頼むから、こんなことは止めてくれ。僕は君のそんな姿は見たくない」
冷静に諭すような口調が、ヒカリの逆鱗に触れた。
「うるさいわねっ、バカアデル!」
金色の髪が一斉に逆立つ。
ヒカリは再び、両手をアデルに向かって伸ばしていた。アデルが慌てたように腰を引いて逃げようとするのが“見え”、ヒカリは彼以上に素早い動きでそれを制止した。アデルの瞳が驚愕に見開かれた。ヒカリのドライバーとなってもうある程度経つのに、彼は未だにこんなことで驚いているのかと、ヒカリはますます悲しくなった。
彼の顔にぎりぎりまで近づいて、上目遣いに睨み付けてやる。
「知ってる? 因果律予測。
懇切丁寧に説明してやると、アデルはああ、と腑に落ちたような、半ば諦めたような表情になった。ヒカリはそのまま、アデルに向かって顔を埋めた。
こんな状況でも、ヒカリを諭しながらも、アデルの陰茎は硬く反り返ったままだった。その光景がなんとも滑稽で、ヒカリの溜飲が下がった。流れ落ちた透明の体液を啜り、両手で何度も擦りつけてやると、アデルの熱い息がヒカリの髪の上に落ちてくるのを感じた。
「っ、く、ぅん……ヒカリ……」
そうだ。そうやって気持ちよさそうに啼いていればいい。ヒカリはますます、両手の動きを加速させた。アデルの腰が何度も何度も浮いて、彼の苦悶にも似た喘ぎ声が部屋に充満する。
「ぁっ、ヒカリ、駄目だ、このままではっ、君が――!」
アデルの手がヒカリの頭に乱暴に押しつけられる。アデルの手がこんな粗暴な動きをするのは初めてだった。一瞬驚きはしたものの、それ以上に彼への反抗心が勝り、ヒカリは自分を押しのけようとする彼の手を振り払うようにして、陰茎にかぶりついた。
「っ、やめ、ヒカリっ、ぁあっ――!」
一瞬、何が起こったか分からなかった。
どろっとしたあたたかいものが、先端に口付けていたヒカリの口の中に流れ込んできた。ヒカリは突然のことに受け止めきれず、ゴボッとむせて口の中のものを吐き出した。
口から出てきたのは、先程まで溢れていた透明なものではなく、乳白色の粘ついた液体だった。妙な匂いと味がして、ヒカリは顔をしかめた。
それが何なのかすら、ヒカリは知らない。アデルは教えてくれるのだろうか。そう思って視線を移すと、アデルは肩で息をしていて、呼吸を整えるので精一杯のようだった。彼の横顔が何故だか罪悪感に満ちているような気がして、ヒカリの胸がざわめいた。
数秒の後、アデルの息が少し落ち着いてきたのと同時に、アデルはヒカリと再び向き合った。ヒカリは気まずくなって目を逸らした。
そのままアデルの手が伸びてくるのに気付いて、思わず目を瞑ると、アデルはヒカリの口元に付着したままの白い液体を、その太い指で丁寧に拭ってくれた。
「ヒカリ……すまない。君をこんなふうに汚してしまった。そんなつもりはなかったのに」
「な……んなの、これは、一体」
目を逸らしたままヒカリが尋ねると、アデルは小さく溜息をついた。
「僕の……精液。僕たち男は、さっきみたいに陰茎を擦られると、気持ちがよくなって、こういうものを出す。簡単に言えば、それは、赤ん坊の素のようなものだ」
これを女性の持つ卵と掛け合わせて、新しい命が育まれる――そんな性知識を今更ながらアデルに教えられて、ヒカリは全身が熱くなるのを感じた。
もしかしたら、ブレイドには不要の知識だったのかもしれない。こんなことがなければ、一生知り得なかったであろう知識。それを他でもないアデルに教えられて、ヒカリは複雑な思いにとらわれた。
そういえば、とふと思い出す。彼には最愛の妻がいる。その妻のお腹には、新しい生命が宿っているのだという。ならば、彼は、妻に、これを――ヒカリはそこまで想像して、思わず身震いした。
先程までは不完全な性知識しか持っていなかったとはいえ、これがいけないことだという自覚はあった。彼が喜ばないであろうことも。彼の気持ちが、これでこちらに向くわけではないことも――それでも、ヒカリは、自分の気持ちを慰めることを優先した。結果、途方もない虚しさを抱えて、呆然とするしかできない。
「……ヒカリ、」
アデルの手が、ヒカリの頬を優しく包み込む。その動きにしたがって顔を上げ、アデルの瞳と相対したとき、ヒカリの目から熱い雫がこぼれ落ちた。彼の前で泣きたくなかった。けれども涙を止める術がわからなくなって、ヒカリの頬には幾筋も雫が伝い落ちていった。アデルが手を差し伸べてくる。ヒカリはその手を振り切るようにして、彼に覆い被さるように抱きついていた。今更、恥も、プライドも何もなかった。
「ぅ、あ、ぁああ……!」
彼の温かな腕の中で、ヒカリは幾度も嗚咽を洩らし、泣き続けた。
アデルの手が、ヒカリの背を何度も優しくさする。バカアデル。ヒカリは心の中で思い切り叫んだ。今更自分に優しくしたところで、何の意味もない。むしろ、彼がヒカリに優しくする義理なんて、何もない。それなのに。
自分と彼は、ただのブレイドとドライバー。それも、シンとラウラのような、何があっても離れぬというような固い絆で結ばれた関係ではない。メツを斃すために、自分という武器が選ばれて、彼という使い手が選ばれた、ただそれだけのことだ。それなのに、どうしてその事実がこんなにも辛く悲しいのだろう。どうして彼の優しさが、こんなにも胸に突き刺さるのだろう。
アデルはきっと、ヒカリの気持ちに気付いている。その気持ちに、どういう名前をつけるべきなのかも。だからこそ、こんなにも優しい。それが辛くて悔しくて悲しくてたまらない。
ヒカリは声を上げて泣きながら、すっかり冷たくなってしまった、彼の体液の残滓を握り締めた。
あの時感じた温かさはもう二度と、未来永劫手に入れることは叶わない――そう、悟って。