開花

 さらりと揺れる、緑色の髪。きゅっと結んだ唇に、やや厳しめの光を放っている瞳。
 初めて見た時、なんて美しい女性だろうと思った。
 最も、そう思うのはこの女性が初めてではなかったのだが、アレクはそんなことは全く気にしていなかった。目に映るものが美しいかそうでないか、それだけが重要だったからだ。
「君、新入りかな?」
 気軽に声をかけた時に見た驚きの色に染められた瞳を、どんなに愛しいと思ったか知れない。
「あ、貴方はどなたですか?」
「俺はアレク。シアルフィ家に仕える騎士だ。よろしく頼む」
 いつもの笑顔を添え、アレクは目の前の女性――フュリーに手を差し伸べる。フュリーはまだ驚いた色を隠さぬまま、突然出された手をちらと見、こちらこそ、とだけ返してきた。その様子でさえ、アレクは奥ゆかしいと表現する。
「シアルフィということは、シグルド様の?」
「ああ。君は……天馬騎士ということは、シレジアの人かな」
「ええ、そう」
 短く返し、フュリーは人々が集まっている方へ行こうとした。アレクは慌てて、その腕を握った。フュリーはびくりと体を震わせ、アレクの方に少々怒りを含んだ視線を向けた。
「何をするのですか!」
「い、いや、そんなに怒らないでくれ。少し話がしたいだけなんだ」
 そう言ったアレクに、フュリーはますます強い非難の目を向けた。
「戦場で話なんて、貴方は一体何を考えておられるのですか。貴方も仕えるべき主君がおありなら、どうしてその主君のお側に控えておられないのです。主君の助けとなるのが、貴方の一番の役目でしょう」
「反論はできないが……少しでも駄目なのか?」
 すがるような目つきになったアレクに、フュリーは冷たく切り返した。
「当たり前です。それでは、私はこれで」
 そう言うが早いか、フュリーはさっさと天馬を飛ばして向こうへ行ってしまった。残されたアレクはしばらく呆然となっていたが、次第に顔に笑みを広めていった。
 あれほど冷たく突き放されたにも関わらず、アレクの頭に「嫌い」の文字は全く現れなかった。むしろ、とアレクは思った。冷たくされたら、追いかけたくなるのが人の常。こうなれば自分に振り向かせる他ないだろう、と。
 ――待っていてくれ、天馬騎士殿!
 その時、アレクはまだフュリーの名前も知らなかった。


 シグルド軍はアグスティ城を占領し、グランベル王国からのアグスティ解放に対する回答を待ち続けていた。
 一旦戦が終わり、兵士たちは城で体を休めている。アレクはその時間を利用して、フュリーのところへ向かった。城の間取りは全て頭に叩き込んであるし、フュリーの名前もとっくに知っていた。後は彼女の部屋を訪ねるだけだ。
 フュリーの部屋の前までたどり着いたアレクは、深呼吸をした。息を整え終わってから、コンコンと扉を叩く。中からはい、という澄んだ声が聞こえ、アレクの興奮は倍に膨れあがった。
 しばらくして、その扉が開いた。二人が顔を合わせた途端、アレクは満面の笑みを浮かべ、フュリーは眉をひそめた。アレクはそんなことは意にも介さず、フュリーに言った。
「フュリー! 会いたかったんだ」
「……何故私の名前を?」
「そりゃもちろん、シグルド様に聞いたさ」
 アレクが答えると、フュリーは溜息をついた。
「それで、何か用ですか?」
「ただ話に来たってんじゃ、用にならないか?」
「時間を無駄にしたくありません。何も用がないなら、帰ってください」
 フュリーはまた冷たく言った。
 しかし、ここで引き下がるようなアレクではない。それに、今日はとっておきの切り札を用意していた。アレクはまだにやりと笑いながら、そのとっておきの切り札を出すことにした。
「用はちゃんとあるんだよ」
「何ですか? 早く言って――」
「レヴィン様に、フュリーの話し相手を務めるよう頼まれたんだ」
 レヴィン、という名前が出た途端、フュリーの表情が変わった。先程までに張りつめていた彼女の雰囲気に動揺が走ったのを、アレクは見逃さなかった。
「レ、レヴィン様が、どうしてそんな」
「レヴィン様に聞いたところによると、君はとても真面目な人らしいな。それにこの軍には来たばかりで、まだ慣れていない。だから最初からこの軍に加わっている俺に、話し相手になってやってほしいって依頼が来たんだよ」
 実のところ、これは嘘の話ではなかった。戦いが一段落して、シグルドとレヴィンが話しているところに、アレクも同席していたのだ。その話の中に偶然にもフュリーの話題が出、レヴィンが先程アレクの言った話をした。そうしてレヴィンから依頼を受けたアレクは喜び勇んで、こうしてフュリーの部屋にやって来たというわけだ。
 フュリーはまだ動揺の色を隠しきれていなかったが、やっと口を開いた。
「申し訳ありませんが、お断りします。話し相手になっていただくのは結構です」
「悪いけど、断ってもらっちゃ困るんだ。俺としても主君との約束というものがあるんでね。それに君も、主君にあたるレヴィン様の依頼とあっては断れないんじゃないか?」
「そ、それは……」
 冷静を保とうとしていたフュリーの表情が揺らいだ。アレクは笑みを深めつつ、フュリーに言った。
「とりあえず二言三言話して、俺が気に入らないなら追い出せばいい。それならちゃんと話し相手になったことになるじゃないか。な?」
「分かりました……」
 フュリーはまだ納得していない様子だったが、扉を大きく開いて外に出てきた。アレクはにっと笑って、城の外へ行くよう促した。フュリーはきゅっと唇を結び、しぶしぶといった様子でそれについてきた。
 アレクは、この上なく上機嫌だった。


「よし、この辺りでいいかな」
 アレクはあらかじめ目星をつけておいた中庭のある一角に案内した。その近くに置いてあった適当な石を見つけ、その上に散らばっていた草を払った。そして、フュリーにその石を示し、座るよう促した。
「いえ、私はこのままで」
「そう言わずに。ほら」
 アレクは半ば強引に、フュリーを座らせた。フュリーはまだあまりいい表情をしてはいなかった。
「今日はいい天気だよな」
「ええ、そうですね」
 当たり障りのない会話から始める。フュリーはまだ、硬い表情を崩してはいない。アレクは強く照りつける日差しを手をかざしながら見て、その後でフュリーに視線を戻した。
「君のいたシレジアは、どんなところなんだ? 俺、実は一度も行ったことがないんだ」
「シレジアは、美しい国です。夏は緑が一面に広がり、冬は雪が大地を覆い尽くします」
 まるで詩の一節を諳んじるかのように、フュリーは言った。
 アレクはその抑揚のない声にさえも、惹かれていた。何故彼女の言葉がこんなにはっきりと聞こえるのに、彼女の言葉は頭に残らず、声だけがじわりと耳の中で響くのだろう。アレクは相づちを打つのも忘れて、フュリーに見入っていた。
「どうされたのですか?」
 フュリーの静かな声で、アレクは我に返った。いや、と苦笑してから、続けた。
「素晴らしい国なんだな。俺たちのいたシアルフィも、田舎だけど美しい国だったよ」
「シアルフィも?」
「ああ。春には花々が咲き乱れ、蝶が踊り、暖かな風が吹いていた。きっと、シレジアとはまた違う美しさなんだろうと思うよ」
「そうですか」
 フュリーは先程より幾分か優しくなった声で、そう言った。アレクは小さな手応えを感じ、笑みを浮かべながら知らず知らずのうちに頷いていた。
「貴方は、シアルフィが好きなんですね」
 一点の曇りもない空が、アレクたちを見下ろしている。風が野を渡り、アレクとフュリーの間をすり抜けていく。アレクはそれを五感の全てで感じながら、ああ、とフュリーに答えた。
「もちろん。故郷が好きなのは、当然だろう?」
「ええ……」
 フュリーも風でなびく髪を押さえながら、小さく言った。
 アグスティ城から見下ろす景色は、思わず溜息をついてしまうほど美しかった。アグストリアは、二人にとってさほど縁の深い土地ではない。しかしそこには、人を引き込んでしまう魅力が存在していた。たとえこの場所が故郷でなくとも、故郷に帰ってきたのではと思わせられるくらいだ。不思議なものだとアレクは思った。
 傍らのフュリーを見ると、彼女も目を細めてその景色を眺めていた。その唇は微かに笑みの形に歪んでいるようにも思えて、アレクは嬉しくなった。
「やっぱり、君は笑っている方がいいな」
「え?」
 フュリーは驚いたように目を丸くし、きゅっと口をつぐんだ。まるでアレクに笑みを見せまいとしているかのようだった。
 そんなところもまたいじらしい。素っ気なくされれば素っ気なくされるほど、惹かれていってしまうのはどうしてだろうと思う。アレクはどうしようもなくフュリーに惹かれていた。他の女性とは違う何かを、フュリーは確かに持っている――そんな気がした。
 その時、なんとタイミングの悪いことだろう、ノイッシュがアレクを呼ぶ声が向こうから聞こえてきた。アレクは少し顔をしかめ、フュリーは立ち上がって言った。
「呼んでおられるのではありませんか?」
「あ、ああ。そうみたいだな」
「それでは、私はこれで。ありがとうございました」
 フュリーは律儀にも礼をし、すぐにその場を去っていこうとした。アレクは慌てて、彼女の背中に声をかけた。
「フュリー!」
 フュリーは振り返って、アレクを見つめた。
「また明日も、話し相手になってもいいかな?」
 フュリーは少し考えるような仕草をした後、ゆっくりと頷いた。
「私は構いません」
「そうか、良かった! じゃ、また明日!」
 アレクは上機嫌のまま、フュリーに手を振ってその場を去った。
 アレクはノイッシュに文句の一つでも垂れてやろうかと思っていたが、そんな気は微塵も起こらなくなっていた。むしろ、自分の今の状況を精一杯祝福したいような気分になっていた。
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