冬のシレジアは、他国の者には考えられないくらいの寒さに見舞われる。雪は毎日のように降っていたし、冷たい風が何度も吹き荒れた。たまに降れば嬉しい雪も、こう毎日降られては参ってしまう。
そんなある日、セイレーン城の一室で、アレクはフュリーに話しかけていた。
「フュリーは平気そうだな。やはり、土地の者だからか」
「ええ。冬のシレジアはいつもこうだから」
答えながら、フュリーはお茶を淹れた。湯気が立ち上るティーカップをアレクに渡し、アレクは笑みながら礼を言った。フュリーは自分の分の茶を淹れてから、アレクの向かいに座った。部屋に用意されていたソファは硬めのものだったが、その硬さにもそろそろ慣れてきていた。
カップを口に近づけ、軽く傾ける。温かい茶が喉を通り抜け、冷たくなっていた全身に行き渡るような感覚がした。
「フュリー」
「え?」
突然名を呼ばれたので、フュリーは慌てたように口からカップを離す。見つめた彼の瞳は、いつもとは違い真剣な光を宿していた。フュリーはどぎまぎして、アレクに続きを促した。
「どうしたの、アレク」
アレクは至極真面目な顔で、ぽつりと言った。
「フュリーは、綺麗だな」
「な、何を……」
フュリーは驚き、動揺した。彼がこうして女性への賞賛の言葉を口にするのは珍しいことではなかったが、こうして真面目な表情で言われたのは初めてだった。賞賛の言葉を言う時には、常に微笑み、さりげなく――そんなふうにアレクが同僚のノイッシュに話しているのを、フュリーは聞いたことがある。
彼のその真面目な表情は、一体何を意味するというのだろうか。
フュリーが戸惑っていると、アレクはフュリーから視線を離し、茶に口を付けた。
「一日に一回は、綺麗だって言おうと思ってね」
茶を飲んだ後、アレクはいつもの笑みを浮かべてそう言った。フュリーがまだ何も言えずにいると、アレクは弾けたように笑った。
「そんなに困った顔をしなくてもいいじゃないか。素直に受け取ってくれればいいんだ」
「だって、急に言うから……」
「俺にとって女性に対する“綺麗”って言葉は、“好きだ”ってのと同意なんだよ」
アレクはにやりと笑う。フュリーはそこでやっと溜息を吐き、茶を口に含んだ。
「驚かせないで欲しいわ。急に真顔で言うんだもの」
「はは。でも、悪い気はしないだろう?」
フュリーはつと動きを止めて、仕方なくといった様子で頷く。
「それは、そうだけど」
「な? だったら、それでいいんだ」
アレクは満足そうな顔をして、うんうんと頷いた。フュリーはなんとなくすっきりしない感じが残ったが、彼に悪気はないのだということは分かっていたから、それ以上何も言わなかった。
そもそも、フュリーが他の男性に「綺麗だ」と言われた経験など、ほとんどない。あっても、それは冗談半分とも取られかねない口調のものが大半だったため、フュリーはさほど気にも留めていなかった。
ただ、主君の――レヴィンの言葉だけは、違った。
そう思った時、フュリーの心がちくりと痛んだ。
叶わぬ恋だということは、初めから分かりきっていた。何せ相手は一国の王子なのだ。その王子に仕える者だとはいえ、騎士という身分にあるフュリーが相手にしてもらえるはずなど、到底ない。
彼はシグルド軍に所属していたとある女性と結ばれ、式も挙げている。
その時はフュリーも心から彼らの幸せを祈ったが、やはり自分の思いを遂げられなかったことに対する心の傷は残った。
そんな傷心のフュリーに以前から声をかけてきていたのがアレクだった。アレクはああいう性格なので、最初はフュリーも相手にしていなかった。自分は彼にとって数多くの女性の中の一人でしかないのだろうと感じていたからだ。
しかし彼が自分だけを特別に見ていると告げた時、フュリーは驚くと同時に嬉しくなった。自分を見ていてくれた人がいる。そのことが、どんなに嬉しかったか。すぐさまというわけにはいかなかったが、フュリーは彼の思いを受け入れた。
レヴィンのことは、確かに今でも思い出すと心が痛む。しかしなるべくそれを過去のことにできるよう、努力しているつもりだった。
しばらくの後、アレクが立ち上がって、窓の外を見た。
「おっ、雪が止んだぞ。フュリー、市場まで買い物にでも行かないか?」
フュリーはカップの中に残っていた茶を飲み干し、アレクにええ、と返した。
「いいわね。行きましょう」
「よし、じゃあ決まりだな」
アレクは上機嫌になり、フュリーも楽しそうに支度を始めた。
雪が止んだと思ったも束の間、すぐにまた降り出したが、市場は人で賑わっていた。このくらいの雪はシレジア人にとって“少々”になるらしく、この程度なら人の日常の動きが止まることはないと、フュリーはアレクに説明した。アレクは信じられないと言いつつも、楽しそうに聞いていた。
日用品や食べ物を売っているお店の中に、アクセサリーばかりを取り扱っている店が出ていた。アレクはそこで立ち止まり、フュリーも彼につられて立ち止まった。
「フュリー、何か買わないか?」
えっ、とフュリーは思わず聞き返した。
騎士として幼い頃から訓練を受けてきたフュリーは、女性らしく着飾ったりするということとは無縁の生活をしてきた。主君であるレヴィンやラーナはその点にも気遣ってくれることは多かったが、フュリーは自分にとって装飾品は必要ないものと考えていたため、戸惑ったのだ。
「でも、私は別に……」
「いいじゃないか。フュリーは一つも持っていないだろ? 一人前の女性がアクセサリーも持たないで、どうするんだ」
「必要ないと思うの。私は、騎士だから」
フュリーがためらいがちにそう言うと、アレクはとんでもないといったように首を横に振った。
「騎士だからとか、そんなのどうでもいいじゃないか。それに俺は、美しく着飾ったフュリーの姿も一度見てみたいんだ。いいだろ?」
そこまで言うならと、フュリーは承諾した。
店内には様々な色の宝石をあしらったアクセサリーがあった。まばゆいほどの輝きを放つ宝石たちに、フュリーは気後れした。こんな素晴らしいものたちが、本当に自分に合うのだろうか。
アレクはアクセサリー選びに慣れているのか、色々なものを手にとってはフュリーに合わせてくる。これは合わない、これはなかなかいいんじゃないか、と、彼はフュリーにとってはめまぐるしいほどのスピードでアクセサリーを合わせていた。
「よし、フュリー、これなんかどうだ?」
アレクが最終的に選び出したのは、フュリーやアレクの髪の色と同じ、緑色の宝石をあしらったブレスレット。
アレクに勧められるまま身につけてみて、鏡に自分の姿を映した。似合っているのかどうか、自分ではよく分からない。アレクはしきりに、似合っていると言ってくれるのだが。
「でも、本当にいいのかしら……」
フュリーはまだ、迷っていた。
するとアレクは、煮え切らないフュリーに向かって、自分が指差した方向を見るように促した。フュリーがそこに目をやると、一人の貴婦人の姿が見えた。彼女のような人こそ、まさにこの宝石たちに囲まれる資格があるのではないかと思わせるほどの女性だった。
「ああいう綺麗な女性になるためには、やっぱり装飾品の一つや二つは身につけないといけない。見た目より中身が重要だと逃げる奴もいるが、それはただの話のすり替えだ。女性は綺麗なのがいいに決まっている。だろう?」
そうかもしれない、と思って頷こうとして、フュリーはアレクの言葉に引っかかりを感じた。すぐにその引っかかりの原因に思い当たったフュリーは、おそるおそるアレクに尋ね返した。
「ねえアレク、アレクは本当に、あの女性が“綺麗”だと思うの?」
アレクは何気なしにああ、と頷いて、言った。
「もちろんだ。女性を褒めるのが男の務め。あの女性が綺麗だと言わずに何という?」
フュリーは恐れていた答えが返ってきて、思わずあっ、と小さな声をもらしてしまった。
ここに来る前に言ってくれたアレクの言葉。それをまだ、フュリーは鮮明に覚えていた。
――俺にとって女性に対する“綺麗”って言葉は、“好きだ”ってのと同意なんだよ。
つまりアレクは、あの女性を好きと告白していることになる。
無論、そんなに細かいことは考えていないかもしれない。しかし大事な言葉だと言ってくれたばかりなのに、それをフュリー以外の女性に使ったことがショックだったのだ。フュリーを自分にとっての唯一の者と認め、求愛してくれたアレク。それを信じてついてきたというのに、その言葉は今更嘘だったというのだろうか。
フュリーは急に気持ちがしぼんだ。戸惑いながらも楽しんでいたショッピングも、急に楽しくなくなってしまった。
「ごめんなさい。私、気分が悪くなったみたい。セイレーン城に帰っているわ」
アレクから目を逸らすようにしてそう言うと、アレクは目を丸くした。
「どうしたんだ、フュリー? さっきまで元気そうにしていたのに」
「ごめんなさい。ちょっと疲れたみたい」
アレクの顔を見ることができなかった。嘘をついている後ろめたさもあったが、アレクが自分を唯一と思ってくれていないなら、もう顔を見たくもないと思ったのも事実だった。
大人げないとは思う。だが、そうすることしか、フュリーにはできなかった。
真実の愛がそこに存在しないのなら、もうこの男性といても意味がない――そんな気がした。
なおも気遣うようにして質問を重ねるアレクを振り切って、フュリーは逃げるようにして店内を出た。途端に涙が目から溢れてきた。アレクの顔なんてもう見たくもないと逃げてきたのに、何故か心の中でアレクを欲する声が聞こえる。彼と共にいたい。彼と愛し合っていたい。
フュリーは知らず知らずのうちに、アレクを愛するようになっていたのだ。その途端、レヴィンを思い出しても、以前ほど強く自分の心がレヴィンを欲しなくなっているのを感じた。
フュリーは雪の中立ち止まり、涙をぬぐった。今、気付くなんて。アレクに申し訳ないという気持ちが心の中に湧いた。先程のことだって、ほんのささいなことだ。笑って流せば良かったものを、大人げない行動をとってしまった。
フュリーは少しためらっていたが、元来た道を引き返そうとした。そうして後ろを振り返った時、緑の髪を振って走ってくるアレクの姿が見えた。フュリーは驚き、その場に立ちすくむ。アレクはすぐにフュリーのところにやってきて、荒く息をついた。
「ア、アレク……」
アレクは息を整えつつフュリーを見つめ、真剣な表情で問うてきた。
「俺の話が気に障ったのか?」
いいえ、とフュリーは首を振った。その時に気に障ったのは、彼の使った言葉であって彼の話そのものではない。フュリーはなんと言えばいいのか分からず、とにかく謝ることにした。
「ごめんなさい。急に出て行ったりして……」
「そんなことはいいんだ。それより、どうして出て行ったのか、それが知りたい」
フュリーは首を横に振った。
「いいの。ささいなことだから、気にしないで」
「俺が駄目なんだ。女性を傷つけたままにすることは、俺のプライドに反する」
強く言ってきたので、フュリーはためらいながらぽつぽつと話した。
「あなたが、あの貴婦人を“綺麗”と表現したのが、気になったのよ」
アレクはそれだけで、理由に思い至ったらしい。はっとした後、髪を掻きながら謝った。
「そうか、すまない。軽い気持ちで、その言葉を使っていたから」
「いいえ、もういいの。私だって、気にしすぎたんだわ」
アレクが本当にすまなそうにするのを、フュリーは慌てて遮った。だが、アレクはいいやと首を振った。
「約束する。今後一切、お前以外の女性に対してその言葉は使わないと」
「そんな、いいのに」
「いや、これは俺の騎士としての誇りにかけて約束する。頼む、受け入れてくれないか?」
騎士としての誇りだなんて、大げさすぎるように思った。だが彼の真摯な気持ちは伝わってきたので、フュリーは頷いた。途端に、アレクの表情が輝いた。これ以上にないくらいの満面の笑顔を見せ、胸の前でフュリーの両手をぎゅっと握りしめてきた。
「そうか! じゃあ、いいんだな! 俺と一緒になってくれるんだな!」
いきなり早口でまくし立てられ、訳が分からなかった。俺と一緒になる。その言葉が世間一般に使われる意味で合っているなら、自分はアレクと結婚するということなのだろうか。まさか、しかし、プロポーズの言葉なんてどこにもなかったのに――。
フュリーがそれを伝えると、アレクは大声で笑った。
「俺が誓いごとをするのは、主君に対してか愛する女性にプロポーズをする時だけなんだよ」
「そんなこと、聞いていないわ」
戸惑うフュリーに、アレクは真顔に戻って言った。
「分かった、ちゃんと言う。フュリー、俺と結婚してくれ」
フュリーは改めて言われ、どぎまぎした。こんな言葉を言われたのは当然ながら初めてのことで、どう答えれば上手く返せるのだろうかと戸惑いつつ、しかし自分の中で既に答えは決まっていた。フュリーはゆっくりと頷いた。
「ええ、私もあなたと一緒にいたい」
心からの言葉だった。先程感じた、アレクを心から欲する想い。それは偽のものではなかったと、今ひしひしと感じる。自分は彼がどうしようもなく好きなのだと、気付かされた。
アレクは再び笑顔になり、ガッツポーズをした。それを見て、フュリーはくすくすと笑った。嬉しそうなアレクを見ると、こちらまで嬉しい気分になる。
風が吹き、二人の間をすり抜けていった。それが心なしか温かく感じられ、フュリーは思わず空を見上げた。
雲が晴れ、太陽が照り、雪が解けたら――もうすぐ、春。
先程の風は、自分たちの間に少しばかり早い春が来たのを知らせてくれたのかもしれないと、フュリーは思った。