近くに感じて

 森林公園の入り口に着いた時、蒼樹は腕時計を見て溜息をついた。約束の十時まで、まだ三十分もある。遅れてはいけないということばかりを考えて、家を早く出すぎてしまったためだ。
 蒼樹は近くにあった木にもたれかかり、ぼんやりと公園の風景を見て過ごすことにした。
 今日は初めてのデートだ。相手はこの間、初めて会ったと言っても良いような女の子。
 メールでのやりとりと、街での偶然の出会いが育んだ恋だった。顔も知らなかったメール友達と、街でたびたび出会う素敵な女の子の姿が一致した時、蒼樹の恋愛感情ははっきりとした形になった。
 高校の卒業式の日、蒼樹は溢れる想いを抑えきれず、彼女に心の内を告白した。彼女は蒼樹の思いを受け入れてくれたばかりか、自分も好きだったとまで言ってくれた。二人は早速、次の休日に会う約束を取り付け、こうして今、ここにいるというわけだ。
 休日ということもあり、公園にはたくさんの人々が訪れていた。幸せそうな家族連れやカップルの姿。友人同士と思われるグループの姿もある。一人で思いにふけっている人もいた。名も知らぬ他人たちが、同じ場所で違う時間を過ごしている。その姿を、蒼樹は、この間までの自分たちに重ねずにはいられなかった。
 蒼樹はふと、空を仰いだ。透き通るような青い空。木の葉の間から零れ落ちた光が眩しかった。さやさやと揺れる木の葉の間から空を見ながら、蒼樹の顔は自然とほころんでいた。
 蒼樹は空を見るのが好きだった。空はどこまでも無限に広がっていて、アメリカにいる両親や妹、そして恋する彼女にも繋がっているのだと思うと、寂しさが紛れた。今この瞬間、自分の愛する人たちが、同じ空を見ていればいいのにと願わずにはいられなかった。
「千晴くん!」
 その時、突然自分を呼ぶ声が聞こえ、蒼樹は驚いて声のした方を見た。そこには走って自分の方に駆け寄ってくる、彼女の姿があった。蒼樹は腕時計を見て、待ち合わせの十分前であることを確認した後、木から離れ、微笑みながら彼女へ近づいていった。
 彼女は息を吐き出しながら、申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんね、待たせちゃって……」
「そんなこと、ないです。僕がとても早く来たんです。ほら」
 そう言って、蒼樹は自分の腕時計を見せた。彼女はそれを見て、安心したようにほっと息をついた。
「十分前か、良かった……でも、待ったでしょ?」
「いいんです。僕はあなたを待っているのが好きなんです」
「千晴くん……ありがとう」
 彼女はようやく安堵の微笑みを浮かべた。やはり、彼女には笑顔が似合う。蒼樹はそう思って、微笑み返した。
 この微笑みが、あの日から自分のものになった。今はまだその実感が湧かないけれど、彼女の笑顔を見ていると、じわじわと喜びが溢れ出し、蒼樹の心を満たしてくれる。それだけで、蒼樹は十分すぎるほど幸せだった。
「行きましょう。僕、ここの並木道、好きなんです」
「うん!」
 彼女は笑顔で頷いて、蒼樹の隣に肩を並べる。
 ほぼ同時に歩き出して、ふと、手が触れ合う。あっ、と声を洩らすのまで同時で、二人の顔に赤みが差した。
「ご、ごめんね」
「いえ、僕こそ」
 言葉を交わした後、見つめあったまま、沈黙が訪れる。ややあって、ためらいがちに、彼女が口を開いた。
「あの。もし、千晴くんが嫌じゃないなら……手を繋いでも、いいかな」
 彼女の申し出に、蒼樹は目を丸くする。驚きはしたが、蒼樹の心は最初から決まっていた。蒼樹は照れながら微笑み、彼女がそっと出してきた手を握った。
「はい。僕は構いません。嬉しいです」
「うん、ありがとう」
 彼女も手を握り返してくれた。
 幸せいっぱいの気分のまま、彼女と並木道を歩く。木々の枝の先で、蕾が膨らんでいる。もうすぐその蕾から桜の花が咲き、この辺り一帯が桜吹雪に見舞われることだろう。
 そうなったら、またここに彼女と一緒に来たい。蒼樹はそう思った。この、日本を象徴する桜という花が、蒼樹は大好きだった。森林公園に来てそれを眺めるのが、高校時代の休日の楽しみだった。
 その時の蒼樹は、一人だった。だが、今は違う。隣に彼女がいて、そっと寄り添ってくれる。手を繋いで、温もりを確かめることだってできる。
「もうすぐ、桜が咲きそうですね」
「あっ。本当だね……咲いたら、すごく綺麗だよね」
「ええ、とても。ゆかり、桜が咲いたら、また一緒にここへ来ませんか」
「うん。桜、千晴くんと一緒に見たいよ」
「良かった」
 蒼樹はほっと、安心と喜びの入り混じった息をつく。
 並木道をゆっくりと歩きながら、蒼樹はもう、次の彼女との約束のことで頭がいっぱいになっていた。
Page Top