恋を繋ぐハンカチ

 雲行きが怪しくなってきたと思ったら、案の定雨が降り出した。
 雨粒は容赦なく叩き付け、すぐさま地面を濃い色へと変えていく。買い物帰りだったゆかりは突然のことに動揺しながら、雨宿りできる場所を探した。
「確か、公園のあそこに……」
 ゆかりが紙袋を持ったまま目的の場所へ走ると、公園の木々に囲まれた東屋が見えた。
 素早くその下に潜り込み、はあ、とため息をつく。紙袋を置いて、服についた雨粒を払った。だが雨粒は素早く服の中に染みこみ、ゆかりの体を冷やした。
「どうしよう……」
 雨粒を落とす灰色の空を見上げ、ゆかりは呟いた。確か今日、天気予報では晴れだと言っていたはずだ。それを信じて、傘などの雨具は何も持ってこなかった。
 果たして嘘をついた天気予報が悪いのか、それともそれを信じた自分が悪いのか。何かのせいにすれば気が紛れるかと思ったが、状況が好転しないことに変わりはないので、それ以上考えるのはやめた。
 森林公園の中ではあるが、ここはいつも人気のない場所だ。そのため、周りには人の姿が見えなかった。その場にいる誰かに助けを求めるということもできそうにない。
 ゆかりはバッグの中から携帯電話を出し、それをきゅっと握りしめた。すぐに止むならいいが、もう少し待っても止まなかったら、尽に迎えに来てもらおう――。
 そう思った、その時だった。


 公園の向こうから、人が走ってくるのが見えた。もしかして尽だろうか。一瞬淡い期待を抱いたゆかりだったが、その人物が近づいてくるにつれ、それが尽ではないことが分かった。
 背の高い男の子だった。彼も傘を持っていないらしく、手で雨を避けるようにしながら東屋に向かって走ってくる。彼は走るのに一生懸命で顔を伏せていたが、東屋にたどり着いたところで、ふと顔を上げた。
 端正な顔立ちの、優しげな雰囲気を纏った男の子だった。目が合ってしまい、お互い同時に、あ、と声を洩らした。
「ええっと……ここ、いてもいいですか?」
 ためらうようにそう言った男の子に、拒む理由のないゆかりは頷いた。
「うん。……雨、止まないね」
「はい。あの、急に降ってきたので、驚きました」
 男の子は東屋の中に入ると、ゆかりの隣に並んで空を見上げた。空からは相変わらず、雨がざあざあと降り続けている。止む気配は、全くない。
 ふと彼に視線をやって、ゆかりは彼の肩が随分濡れていることに気が付いた。ゆかりはまだ降り出した頃にここに来て雨宿りできたから良かったが、彼は今までずっと雨宿りできる場所を探していたのだろう。
 ゆかりはバッグからピンク色のハンカチを出すと、彼に差し出した。
「あの、良かったらこれ、使って。肩とかすごく濡れてるから……風邪、ひくよ?」
 男の子は驚いたように目を丸くした。
「いいん、ですか?」
「うん。小さいハンカチだけど、それでも良かったら」
「あ……ありがとうございます!」
 男の子は嬉しそうに笑って、ハンカチを受け取ってくれた。
 濡れた部分をハンカチでぽんぽんと軽く叩くようにした後、丁寧にたたんで、男の子はもう一度礼を言った。
「ありがとうございました。これ、洗って返します」
「そんなの、いいよ。気にしないで」
「いえ、悪いです」
 男の子はそう言って、しわくちゃにならないように慎重に、ズボンのポケットにハンカチを入れた。初対面であるにもかかわらずそこまでしてくれた彼に対して、ゆかりは自然と好感を覚えていた。
 それよりも、先程から男の子の言葉を聞いていて、ゆかりは微かな引っかかりを覚えていた。彼の話す言葉が、まるで外国人の話す日本語のようだったのだ。言葉の意味は通じるが、決して滑らかな発音ではない。
 ゆかりは隣に並ぶ男の子を見つめた。男の子の容姿は日本人とほとんど変わりなく、ゆかりは不思議な感覚を抱いた。
 しばらくして、男の子がその視線に気付いたらしい。ゆかりの方を見て、首を傾げた。
「あのう、どうか、しましたか?」
「あっ、ううん、なんでもないの! じろじろ見たりしてごめんなさい」
 ゆかりは謝ってから、ややためらいがちに尋ねた。
「あ、その、はばたき市に住んでるの?」
「はい。この春、来たばかりなんです」
「じゃあ、引っ越してきたとか……」
 男の子は首を振って、ゆかりの心の中の疑問に答えてくれた。
「僕、アメリカから来た留学生なんです。だから日本語、あまり上手じゃないです」
 ゆかりは驚きと感動の入り混じった声を上げた。
「そうなんだ! でも、すごく上手いよ。日本語」
 そう言うと、男の子は謙遜することなく、素直に微笑んで礼を言った。
「ありがとうございます」
 その笑顔があまりに爽やかで、とくん、とゆかりの心臓が跳ねた。
 一度視線を逸らした後、そっと彼を盗み見る。彼は空を見上げて、小さくため息をついていた。自分とは同い年くらいだろうか。横顔を見ていても、整った顔立ちであることが窺える。きっと学校では人気者なのだろうな、とゆかりは思った。
 同い年くらいだとして、彼はどこの高校に通っているのだろうか。はばたき学園で、彼のような男子生徒を見かけた覚えはない。同じ市にある羽ヶ崎学園だろうか、それとも他の地域の高校だろうか。ゆかりは今隣にいる彼に、興味津々だった。
 学校について尋ねようとした時、ふと、雨音が優しくなってきたことに気付いた。これなら、走ればなんとか帰れそうだ。彼もそれに気付いたらしく、あ、と声を上げて、手のひらを天に向けた。
「雨、止みそうですね」
「うん。これくらい小降りなら、走って帰ろうかな」
 ゆかりがそう言うと、彼も同意したように頷いた。
「じゃあ、僕、帰ります。それじゃ」
「あっ、うん。またね」
 彼は軽く手を振った後、公園の入り口に向かって走っていた。彼の姿は徐々に小さくなっていって、最後には、雨で霞んでいる風景に溶け込んでしまった。
 その後で、ゆかりはあっ、と声を上げた。
「名前、聞いておくんだったな……」
 うっかりしていたことに思わずため息をついたが、仕方がない、と思い直す。同じはばたき市に住んでいれば、また出会うこともあるだろう。その偶然にかけるしかない、とゆかりは思った。
 もう少し待って、雨がほぼ止んでから、ゆかりは東屋を出て家に向かった。


 それから二年経った、卒業式の日。伝説の教会で、蒼樹に告白された後のことだった。
「ゆかり。これ、覚えていますか?」
 帰り道、蒼樹はポケットから小さなハンカチを出して、ゆかりに差し出した。ピンク色の、綺麗なハンカチだった。
 ゆかりは思わずあっ、と声を出していた。間違いなかった。これは自分のハンカチだったものだ。一年生の春に森林公園で、目の前にいる男の子――蒼樹千晴に渡したことを、ゆかりは思い出していた。
「これ、あの時の……」
「はい。ずっと、返したいと思ってました。でも、返す機会がなくて……」
 蒼樹から渡されたハンカチを広げ、ゆかりは手にとって見る。
 ハンカチは少しも汚れておらず、一目で洗い立てだと分かった。彼はずっと、このハンカチを大切に持っていてくれたのだろうか。そう思うと、心が温かくなった。
 偶然間違いメールが届いたことも、その後何度も彼と街で遭遇したこともそうだったが、このハンカチも、彼と自分を巡り合わせてくれた運命の鍵の一つであるように、ゆかりは感じた。
 あの雨の日。お互いに名前も知らないまま出会って別れてしまったけれど、一度抱いた温かい感情は、今でも心の中に残っていた。
 使ったハンカチを、洗って返すと言ってくれた彼。しわくちゃにならないように、丁寧にハンカチをたたんでくれた彼。その小さな一つ一つの動作に抱いた好感は、少しずつ積み重なって今、蒼樹への大きな思いへと変化していた。
「ありがとう。持っててくれたんだね、ずっと」
「はい。ゆかりに会えない日は、これを見てゆかりのことを思い出していました。これを見ると、ゆかりが近くにいてくれるような気がしたから」
 蒼樹はやや頬を赤らめて、そう言った。
「嬉しい。ありがとう」
 ゆかりはそのハンカチを丁寧にたたんで、鞄の中に入れた。
 その後、隣にいる蒼樹の手にそっと触れ、そのまま彼の手を握った。
 蒼樹は驚いたように目を丸くし、ゆかりの顔をまじまじと見つめてきた。ゆかりは恥ずかしさを隠しながら、満面の笑みを見せた。
「好きだよ、千晴くん」
 その直後、蒼樹の手が、ゆかりの手をすっぽりと包んだ。
「僕も、ゆかりのことが好きです」
 数秒見つめ合った後、二人は手を繋いだまま歩き出す。
 オレンジ色の夕日が二人を照らし、道路に長い影を落としていた。
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