外から響く蝉の音と、パソコンから聞こえるファンの音が耳を支配していた。
日本の八月はうだるような暑さだ。何故か日本は涼しいイメージがあったのだが、どうやらそうでもないらしい。千晴は座ったままデスクの端に置かれているリモコンを手に取り、斜め後ろに取り付けられているエアコンに向かってボタンを押した。小さな音の後、やや風が強くなる。リモコンに表示されている温度設定は、25℃になっていた。
クーラーの温度は28℃以下にしないようにしましょう、なんて世間では言われているが、暑くて耐えられないのだから仕方がない。
千晴の視線は先程からディスプレイに向かっていた。開いているのはメールの受信トレイだ。八月十八日の今日、零時ぴったりに送信されたメールが表示されている。
差出人は、彼女。
『千晴くん、お誕生日おめでとう――』
文章を眼で追う千晴の顔に微笑みが浮かぶ。彼女は日本で出来た初めての友人であり、今は恋人でもある。
誕生日を祝うメールは他にも来ているが、彼女が一番最初だ。自分の誕生日を覚えていてくれた上、前々から文面を考え、零時ぴったりに送信してくれたのだと思うと顔がほころぶ。千晴は彼女専用のメールボックスにそれを移動させ、削除しないようにロックを掛けた。
無意識にマウスを動かそうとして、デスクに置かれた携帯電話に手が当たる。微妙な震えを感じて反射的に携帯電話を見ると、ちょうど光を発し、着信を告げているところだった。
慌てて手に取ると、画面にはMariの文字。アメリカにいる妹からだ。
「も……Hallo?」
もしもし、と日本語で言いそうになって、慌てて言い直す。すぐに電話の向こうから、明るい声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん、お誕生日おめでとう!」
「ああ、ありがとう」
千晴の頬が緩む。今、日本は昼の一時半。アメリカでは十八日になったばかりの時間だ。妹も彼女と同じことを意識して電話をかけてきてくれたのだろうか、そう考えて微笑ましく思った。
「お兄ちゃん、起きてた?」
「うん。今こっちは昼の一時だからね」
「あ、そっか。時差があるんだもんね、忘れてた」
笑い合いながらふと、妹の英語を懐かしく思った。故郷の言葉など、もう久しく聞いていない。家族とのやりとりもほぼメールばかりで、話す機会が少なくなる一方だったから、先程も咄嗟に英語が出てこなかった。
「どう、お兄ちゃん。元気にしてる?」
「うん。マリは? 父さんと母さんも元気かい?」
「みんな元気よ。暑さでへばっちゃってるけどね」
「僕もそうだな。日本の夏は本当に暑いよ」
苦笑しながら、千晴は部屋が冷えてきたのを感じてエアコンの設定温度を上げた。唸るような音を立てていたエアコンが、しゅんと静かになる。
操作する音が電話越しに聞こえたのか、マリもくすくすと笑った。
「そんなに暑いんだ。大変だね、お兄ちゃんも」
「でも、もう慣れたよ。四年もこっちにいるから」
「そっか、四年になるんだ。すごく時間経っちゃったのね」
「そうだね」
千晴はふと、壁にかけられたカレンダーを見上げる。日本に来たばかりの時、不安げにカレンダーを見上げたことを思い出す。右も左も分からなくて、ただ頼りになるのは、買ってもらったパソコンだけだった。
メールの向こうに家族がいると思うと心強く、高校生活が始まってすぐに家族にメールを送信した。そのはずだったが、そのメールは何の間違いか、彼女のもとへ飛んでいった。
思えば、それが全ての幸福の始まりだった。千晴の顔に、再び微笑みが浮かぶ。
「あ、そうだ、お兄ちゃん。ガールフレンドと仲良くしてる?」
このタイミングでのマリの質問に、千晴の心臓が跳ねる。メールの中で何度か彼女の話題を出したことがあったから、マリはそれを覚えていたのだろう。電話越しに、興味津々と言った様子が伝わってくる。
千晴は落ち着いて、穏やかな気持ちで返した。
「うん、もちろん」
「そうなんだ。すごくいい人なのね、その人。私も会ってみたいわ」
「マリも会えば、きっと彼女を気に入るよ」
「いいなあ。私はお兄ちゃんみたいにうまくいってないの。この間だって、喧嘩しちゃって――」
マリは自分のボーイフレンドの話をし始めた。思うように関係がうまくいっていない、自分が悪いこともあると分かっているけれど――そんなふうに話す妹の悩みを、千晴は相槌を打ちながら聞いていた。
どこか寂しいような、でも嬉しいような、奇妙な感情が湧いてきた。
アメリカを発った時、妹はこんなにも大人だったろうか。以前アメリカにいる家族から手紙が送られてきたとき、妹の成長ぶりに驚いた記憶がある。彼女は自分のように夢を持ち、その夢に向かって一歩一歩進んでいる。その中で恋愛も経験して、もう立派な大人になっていたのだ。
「あっ、ごめん。お兄ちゃんの誕生日なのに、私の話ばっかりして」
「いや、いいんだ。マリが話してくれて嬉しかったよ」
「うん。私もお兄ちゃんの声が聞けてよかった。じゃあまたね、お兄ちゃん」
「うん、また」
通話を終えて、千晴は携帯電話をデスクの上に置く。
一息ついて、千晴は壁時計を見上げた。一時四十分。約束の時間まで、あと二十分だ。千晴は支度を始めることにして、パソコンの電源を落とした。
彼女のメールに書かれていたのは、誕生日を祝う言葉だけではなかった。二時に森林公園で待ち合わせしましょう、という誘いの言葉。幸いにも暇を持て余していた千晴は、喜んでその誘いを受けることにした。
汗で濡れていたシャツをベッドに脱ぎ捨て、着替えを済ませる。持ち物を確認し、最後にエアコンの電源を切った。風が急に遮断され、熱気がこもってきたが、千晴はそれを避けるようにしてすぐに外へ出た。
森林公園に着いたとき、彼女の姿はまだなかった。暑さのしのげそうな木陰へ行き、幹にもたれて息を吐く。地面で不規則に揺れる木漏れ日は、もうすっかり夏の色をしていた。
先程のマリとの会話を思い出す。彼女は千晴の知らないところで大人になっていた。今日誕生日を迎えて、自分は一つ大人に近づけたのだろうか。
あまり変わっていないような気もするけれど、と千晴は少しばかり苦笑する。変わったことといえば、彼女がいつも隣にいてくれるようになったことだろうか。彼女といることで、自分の心は以前より穏やかになったし、幸せを感じることも多くなったような気がする。
――僕の成長というより、彼女がいてくれたからこその変化……かな。
彼女に思いを馳せ、千晴が優しく揺れる木々を見上げた、その時。
「千晴くん!」
公園の入り口から彼女が手を振りながら走ってきた。腕時計に目をやると、二時ちょうど。彼女は一度も、自分との約束に遅刻したことがない。
「ごめんね。待たせちゃったかな?」
「ううん。僕が早く来たんだよ」
いつも通りの会話。千晴は待ち合わせより早く来て、彼女を待つのが好きなのだ。
良かった、と彼女は微笑んだ。
「暑いね。汗、すごくかいちゃったよ」
「うん、僕も。でも、ここは涼しいよ、ほら」
千晴は彼女の手を引いて、木陰へ引き込む。彼女はそっと千晴の隣に立って、頷いた。
「ほんとだね。風、気持ちいい」
「そうでしょう?」
一度強い日差しの中へ飛び込めば、風が吹いても熱風にしか感じられない。それなのに、木陰にいると不思議とそれが涼しく感じられるのだ。
しばらく心地よい風に当たった後、彼女は千晴の顔を見上げ、柔らかな笑みを浮かべた。
「お誕生日、おめでとう。千晴くん」
「ありがとう」
メールの上で行ったやりとりを、目を合わせてもう一度繰り返す。涼しい風が吹いて、二人の髪を優しく撫でた。
千晴は幹にもたれかかると、小さく息を吐く。
「ねえ、ゆかり。僕は……大人になれているのかな」
えっ、という小さな疑問の声。千晴は木々を見上げ、木漏れ日の眩しさに目を細める。
それは、自分への問いでもあった。マリと話をしたことで、その疑問は一層膨れあがった。自分が成長していなかったら、という焦りもあった。
彼女は一体どう思っているのだろう。それを訊きたくて尋ねたのだが、すぐに沈黙が下りてきて、千晴は少しばかり彼女に質問したことを後悔した。
早々に前言を撤回して、二人でどこかへ行こう。そう思って彼女を見たとき、彼女は微笑みながら千晴の手を握った。絡められる細い指に、千晴の心が跳ねた。
「千晴くんは、もう大人だよ」
そう言って、千晴の頭のてっぺんへもう片方の手を伸ばす。
「ほら。わたしより、こんなに大きいんだもん」
千晴は目を見開いた。
千晴の心にかかっていたもやが、あっという間に晴れていく。それは本当に、単純な答えだったのだ。
「ありがとう」
伸ばされた手首を掴まえて、千晴は彼女の唇へ口づけを落とす。
幸せそうに広がった彼女の唇が自分のところへ収まるのを、千晴は最後まで見ていた。