笑顔の呪縛

 屍、屍、屍。
 噎せるような血の臭いの中で、アズールは吐き気を堪え剣を振るった。その一薙ぎで倒された最後の屍兵が、目の前でがくりと膝を折る。
 犠牲になった生身の人間たちの血の臭いもそうだが、屍兵のそれは少し嗅ぐだけで、数倍も強い吐き気を催した。一瞬口角が下がりそうになって、アズールはきり、と口元を締め直した。
 背で庇う人々の間から、安堵の溜息、希望の歓声が上がった。
「アズール様!」
「さすがはイーリス王子、皆の希望!」
 アズールは人々の方を振り返り、剣を振り上げ、笑う。この数年間、幼い頃から貼り付け続けた笑顔は、そうそう簡単には崩れなかった。アズールは歓声を受けながら、その歓声をどこか遠いもののように感じていた。
 アズールは覚えている。目の前にいる彼らが、かつての自分に浴びせた罵声を。謂われのない、軽蔑の眼差しを。その時に自分が何を感じたか、何を思ったか、アズールは全て覚えている――――


 イーリス王子という肩書きは、アズールにとって重荷でしかなかった。今も昔もそうだ。
 イーリスの聖痕をその瞳に宿しながら、姉のルキナのように、ファルシオンを振るう資格を持たない王子を、皆軽視した。言葉を交わしたこともない亡き父に憧れ、その父の血を脈々と受け継ぐ姉に憧れ始めた剣術は、血と涙をいくら流して練習しようとも、アズールにファルシオンを振るわせてはくれなかった。公式の場で脚光を浴びるのは常に姉の方で、アズールはただの添え物に過ぎなかった。
 幼い頃、王宮で廊下を歩いていると、会議を終えて部屋から出てきた重臣達のひそひそ話が聞こえてきたことがある。
「あれか。聖痕を宿しながら、ファルシオンも振るえぬ王子というのは」
「亡きクロム様も、さぞかし悲しんでおられることだろう」
「汚らわしいあの、踊り子の母の血を色濃く継いだのではないか?」
 母オリヴィエを侮辱された時は、さすがのアズールも怒りで身体が震えた。だが、そこで暴れたところで、力を持たぬアズールには何もできないし、向こうに更なる批判のタネを与えてしまうだけだ。賢いアズール少年にはそれが分かっていたから、拳を力一杯握り締め、その場から早く離れることしかできなかった。
 母の部屋に行くと、母はいつものように朗らかな笑顔で迎えてくれた。その笑顔を見るのが、アズールは好きだった。その笑顔を見ると、アズールまで温かな気持ちになれ、自然と笑顔が浮かんだ。しかしその日は違った。母の笑顔を見ると同時に、アズールの赤い頬を、熱い雫が伝い落ちた。
 オリヴィエはまあ、と驚いたように駆け寄ってきた。
「アズール、一体どうしたのですか? 突然泣き出したりして……何があったんですか?」
「母さん……ぼく、ぼくは……」
 たくさんの言葉がアズールの心から溢れたが、それらが口から発せられることはなかった。僕はイーリスに必要のない子だ。僕がいても、母さんや姉さん、父さんを苦しめるだけだ。それならいっそ、僕は――
 けれどそれを言ったところで、更に母を苦しめるだけだと知っていたから、言えなかった。アズールはただ、受け止めてくれる母の胸の中で泣いた。悔しくて悲しくてならなかった。
 泣いて、泣いて、ようやく泣き止んだところで、オリヴィエは優しくアズールの背を撫でながら言った。
「アズール。笑いましょう」
「え……? 笑、う……?」
 アズールは泣きはらした真っ赤な目で、オリヴィエを見上げた。オリヴィエはええ、とにっこりと笑って頷いた。
「そうですよ。悲しいことがあった時こそ、いっぱい笑うんです。笑うと元気になれませんか? 悲しくても、前に進もうという気持ちになれませんか? アズール、あなたにはまだ話していなかったかもしれませんが……あなたのお父様、クロム様と私は、結婚の時、みんなが笑顔になれる未来を作ろうって約束したのですよ」
「みんなが……笑顔になれる、未来……」
 アズールは一言一言を噛み締めるように、反芻した。
「ええ。私はクロム様が見せる笑顔が大好きでした。クロム様も、私の笑顔がとても素敵だと言ってくださった……自分たちが笑顔でいれば、きっと周りのみんなも笑顔になってくれるだろうって。だから、私たち夫婦は、できるだけ笑っていようって決めたんです。子どもにこんな話をするのは、ちょっぴり恥ずかしいですけど……」
 恥ずかしがり屋の母はそう言って、ほんのりと頬を赤らめた。
 父の記憶がないアズールにとって、それは意外な話だった。アズールは父の姿を、肖像画の中でしか見たことがない。肖像画の中の父は表情をきりと引き締め、威厳たっぷりに描かれていた。それを頼もしく思いながらも、一方では恐ろしい存在のように、幼いアズールの目には映っていた。けれどもまさか、父と母を結婚に結びつけたのが、互いの笑顔であったとは――
「だから、ね。笑いましょう、アズール。笑っていれば、あなただけではなくて、私も、ルキナも、みんなも、希望が湧いて、嬉しくて楽しい気分になれるんですから。あなたの笑顔は、誰にも敵わないくらい、とびっきり素敵な笑顔なんですから!」
 アズールは目の中に残った涙を拭った。そしてオリヴィエに向かって、思い切り口角を上げ、満面の笑みを浮かべた。
「うん!」


 あの時の母の笑顔を、アズールは今でも忘れることができない。
 あの笑顔は、今でもアズールの心を支え続けていた。こうして大地が荒れ、戦乱に巻き込まれ、毎日剣を振るい血を被る日々を送らねばならない身になってからも、母オリヴィエの笑顔は、アズールの傷ついた心を癒してくれた。
 アズール自身も、母、そして亡き父の教えに従い笑い続けた。初めはあの重臣達のように、ひそひそと良くない噂話をしていた者達も、アズールの笑顔に笑顔で返してくれるようになった。アズールはそれが嬉しくて、いつしか、四六時中笑顔で過ごすようになっていった。
 この戦いのさなかでも、それは同じだった。時にはそれを、戦に真摯に向き合っていない証拠と批判する者もいた。それでもアズールは笑い続けた。その笑顔が人を癒すと信じて。こうすることで、父と母が望んだ未来が、いつか訪れると信じて。
「危ない!」
 目の前の敵がいなくなったことで油断したアズールの背後で、一際高い声が飛ぶ。アズールが振り向いた瞬間、それはファルシオンの光によって一刀両断されていた。
 無論、それを振るうは姉ルキナ。アズールははは、と笑って、ルキナと向き合った。
「ごめんごめん。もういなくなったと思ってた。ありがと、ルキナ」
「全く……アズール、戦の中で気を抜いてはならないと、何度言ったと思っているんです。いつもそんな風にへらへらと笑ってばかり――」
「あー、ごめんごめん。次から気を付けるよ。じゃ、僕は物資を補給してくるから!」
 ルキナの説教を聞きたくなくて、アズールはその場から逃げるようにして立ち去った。「アズール!」とルキナの呼ぶ声が飛んできたが、アズールは聞こえないふりをした。
 姉には分かるまい。何より、悟られたくなかった。笑顔の仮面の下で、アズールがどんな思いを重ねてきたか。
 あの真面目で厳しくも心優しき姉が知れば、たちまち自分に負い目を感じるようになるだろう。そのことが彼女の心で引っかかって、ファルシオンを振るえなくなる可能性もある。この絶望の状況の中、ルキナという戦力が奪われることは、絶対にあってはならなかった。ルキナはまさに、ファルシオンという光を背負った希望そのものなのだ。アズールのように、笑顔という諸刃の剣で戦うことしかできない、ちっぽけな人間とは違う。
「希望……か……」
 母曰く、希望を作り出す笑顔。けれどもそれを貼り付けたところで、アズールに希望は作れない。
 足りなくなった傷薬を鞄の中に入れながら、アズールはその日、少しだけ泣いた。



 ナーガの力で過去へと戻り、若き頃の父の率いる軍隊と合流したアズールは、それでも笑顔を貼り付けた日々を送っていた。笑顔のことや、女性に対する態度のことであれこれ言われるのはもう慣れていた。他人からそれを指摘されたところで、特に堪えもしなかった。
 若き頃の父と母は美しかった。そして、凛々しかった。アズールは素直に、それを誇りに思った。この二人の血を継いでいるのだ、自分が人々から期待されるのは当然のことだったろうと、受け入れることもできた。
 そして更に、二人に会えて、姉が喜んでいるということも嬉しかった。なかなか笑顔を見せぬあの姉が、二人の前では素直に笑っている。幼い頃聞いた希望の笑顔の話が、アズールの中ですんなりと心に落ちた。だからこそ、自分はこれからも笑っていようと決意を固めた、ある日のことだった。
「お前、こんな時まで女の話か!? ふざけるのも大概にしろ! ルキナが必死に戦っているのに、お前という奴は――!」
 父親との話の中でそれを叱られた時、アズールはついに爆発してしまった。守り続けてきた何かが、一気に崩壊した。
「知った風な口きかないでよ……分かってないのは父さんの方だよ!」
 声を荒げると、クロムは驚いたような顔をした。今まで彼の前でこんな態度を取ったことはなかったのだ、当然の反応だったろう。それがアズールには、ただただ悲しかった。
「ファルシオンを扱える父さんには分からない……ルキナにも、一生! 僕にとってイーリス王子という肩書きが、どれほど重く辛いものだったか……!! 勝手に期待されて、勝手に落胆されて、勝手に罵られて軽蔑されて!」
「アズール……!」
 クロムの表情が変わっていた。アズールは泣きそうになりながら、拳を握り締めてぐっとこらえた。
「でも、そんなことはどうでもいいんだ。もう慣れたから。僕はそれを、大切な人達に、父さんや母さんやルキナに知られたくなかった! だから笑い続けてきた! そうすればみんな僕の苦しみや悲しみを知らないで済むし、それ以上に希望が与えられるからって! そう信じてたから!」
 アズールは言い放った後、ぷるぷると拳を振るわせながら俯いた。クロムが詰め寄ってくるのが分かった。
「アズール、お前は……」
「何があったんですか、クロム様……アズール!」
 その騒ぎを聞きつけて、母オリヴィエまでやって来た。アズールはその場に留まったまま動けなかった。二人の影が、アズールの視界を覆い尽くす。まるで自分の目の前に広がった、絶望の闇のようだった。
 その時だった。
「お父様! お母様、それ以上は……やめてください、お願いです」
 その影を遮るもう一つの影ができ、アズールはおそるおそる顔を上げた。姉ルキナが、両親から庇うようにして、自分の前で手を広げていた。
「ルキナ……どうして」
 アズールが放心した声でそう尋ねると、ルキナは振り返った。いつもは見せない、悲しげな表情だった。
「知っていました……アズール。全てとは言いませんが……ある程度のことは」
 えっ、と、アズールの口から呆けたような声が洩れる。ルキナは改めて、怪訝そうな表情のクロムとオリヴィエの方に向き直った。
「アズールは、お父様とお母様の理想の世界を作るため、誰よりも努力していました。お父様とお母様の教えを守って、いつでも笑顔を貫いてきた。辛い時も、苦しい時も。私はいつも、その笑顔に支えられてきました。私が苦しくても、隣で弟が……アズールが笑ってくれる。その笑顔に、何度助けられたことか分かりません」
 初めて聞く、姉の言葉だった。
「だからこそ、私は心配だったんです。唯一の家族である私の前でさえ、笑顔以外の表情を見せないアズールが。辛いこと、苦しいことを発散できずに溜め込んでしまっているのではないかと。でも、アズールの笑顔の話をしたら、アズールはすぐに逃げてしまうから……言えなかったんです」
 アズールはいつだったか、自分たちの時代にいた頃、自分の笑顔のことについて説教をしようとしていたルキナを思い出した。あの時は自分の信念を否定される気がして逃げていたが、そうではなかったのだ。自分は自分のことばかり考えていたのだと、アズールは改めて気付いた。
「だから……お父様、お母様。アズールの姉として、お願いします」
 ルキナはそこで、深々と頭を下げた。その時、彼女の目から光るものが落ちていったのを、アズールは確かに見た。
「アズールを……笑顔の呪縛から解き放ってあげてください。もう笑い続けなくていいんだと、悲しい時は泣いてもいいんだと、腹が立ったときは怒ってもいいんだと、教えてあげてください。お願いします」
 オリヴィエは目に涙をいっぱいに溜めていた。クロムは一瞬厳しい表情を見せ、ルキナを見下ろした。
「ルキナ、もういい。頭を上げろ」
「お父様……!」
 ルキナが頭を上げ、何か言おうとしたのを遮るようにして、クロムはアズールに視線を向けた。その視線を受け止めきれる自信がなく、アズールはさっと顔を逸らしてしまった。
 だが、そんなアズールの顔は、すぐさま黒く太い腕に覆われ、鎧の上からでも逞しいと分かる胸に、押しつけられた。アズールの肩が一瞬、大きく震えた。
「……すまなかった。事情を知らなかったとはいえ、お前に最低のことを言ってしまった。俺は父親を名乗る資格など、ないのかもしれん……」
 言葉尻がしぼむと同時に一瞬離されるかと思ったが、その腕はますます強い力で、アズールを抱き寄せた。
「だが……それを聞いて、俺はますますお前を守りたいと思った。俺たち夫婦の理想を、そしてそれを受け継いでくれたお前の理想を、早く実現させたいと思った」
「父さん……」
「けれどな、アズール。ルキナもそうだが俺も、お前が偽の笑顔にとらわれて、苦しむことなど望んでいない。泣きたいときは泣いていいんだ。怒りたい時は怒っていいんだ。辛い時は、俺たちを頼っていいんだ」
「そうです……そうですよ、アズール」
 オリヴィエは涙を拭って、クロムと同じようにアズールを抱き締めた。
「未来の私があなたに何を言ったのかは分かりませんが……今の私も、未来の私も、きっと思いは一緒。無理をしないで、のびのびと笑って、生きていて欲しい。そういう意味で、笑顔の話をしたんだと思います」
「母さん……」
「クロム様も仰いましたけど、無理に感情を押し殺すことなんてないんです。アズールが私たちに見せてくれる表情は、喜怒哀楽のどれであっても、大切な宝物なんですから」
「アズール」
 ルキナも一歩進み出て、放心しているアズールの背を優しくさすった。
「私も、お二人と……お父様とお母様と同じ気持ちです。せめて私たち家族の前では、素直なあなたの表情を見せてください」
 三人の言葉を聞き終わった瞬間、アズールの中で、何かのたがが外れる音がした。
「う……う、うぁああああ……!!」
 アズールは声を上げて泣いた。笑顔を崩して泣いたのは久しぶりのことだった。ずっと笑顔を保ってきたせいで、最初は頬の筋肉がうまく動いてくれなかった。それでも必死に動かして、ぽた、ぽたと涙が零れ始めた頃には、アズールは言葉にならない叫びを発していた。
 それを、三人は、何も言わずにただ、受け止めてくれた。アズールの素直な表情を受け入れてくれた。笑顔にならなければ自分を軽視し続けていた者達とは違う。ありのままの自分を受け入れてくれる者がいるという喜びを、ただただ、噛み締めていた。


 ひとしきり泣き終わった後で、アズールは涙を拭い、三人に笑顔を見せた。今度は偽物の、貼り付けた笑顔ではなくて、心からの笑顔だった。
「ありがとう、父さん、母さん、ルキナ。僕、一人で頑張りすぎてたみたいだね。僕のことをこんなに愛してくれる人達がいたのにさ……気付かないまま、ずっと頑張り続けるところだった」
「ああ、そうだ。改めて口にするのは恥ずかしいが……間違いない、俺はお前を愛しているぞ、アズール」
「そうですよ。私も大好きです、アズール。あなたがいてくれることが、私の希望です」
「私もです。未来でも私をずっと支えてくれたアズール、あなたがいなければ、今の私はなかった……」
 三人から名を呼んでもらえることが、こんなに嬉しいことだとは思わなかった。アズールは心に溜まった嬉しさを発散するように、青空に向かって思い切り笑い声を上げた。
 その後、改めて三人に向き直る。
「ありのままでいていい、って言ってもらえたのは嬉しいけどさ。僕には笑顔以外、やっぱり似合わないと思うから……これからもずっと、笑ってるよ。父さんや母さんが目指した世界を、できるだけ早く実現させたいからね。これは強がりでもなんでもない、僕の本心だ」
「ああ。お前なら……俺たちとお前なら、きっとできる!」
「作りましょうね。みんなが本当の笑顔で、楽しく過ごせる未来を……」
「私はあの絶望を希望に変えられるのなら、どんなことでもするつもりです。アズール、手伝わせてください。あなたやお父様とお母様が掲げる、理想の未来造りを」
「うん!」
 四人で笑い合い、そして抱き合う。
 アズールは今初めて、幸せというものを、そして生きる希望というものを、空想の中の虚像ではなく実体として、はっきりと感じられた気がした。
(2012.11.5)
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