恋わずらい

「うおおおお!!」
 勇ましい男の雄叫びが、辺りに響き渡る。
 同時に、斧を構えたその男は地面を蹴っていた。鬼気迫る表情で、相手の方へと駆けてゆく。相手は一見華奢な恰好の女だったが、男に手加減する気配は見られなかった。
 女は静かに剣を構えると、振り下ろされた斧を素早く防いだ。キィンと刃と刃のぶつかる音が響き、男と女の視線が交差する。
 細い腕ながら、女の力は強い。男の全力をもってしても、それを振り払うことができないほどだ。男は頬を上げ、顔を歪めた。じりじりと、斧と剣とが震える。
「むっ。また腕を上げたな、カアラ!?」
「バアトル、おぬしもな。以前は、この私に完敗していたというのに」
 なるべくなら思い出したくない、悔しい事実を指摘され、バアトルはますます顔を歪める。カアラはというと、バアトルの斧を受け止めたまま、微かに笑みすら浮かべている。
 バアトルは斧を振り払い、再びカアラと対峙した。負けるわけにはいかないと、バアトルはもう一度気を引き締めた。
 バアトルの本能は常に戦いを求めていた。更に言うなら、戦いの中で己の力を磨くことを求めていた。ひたすら斧を振り回し、己を高める。勝利や敗北などというものは、その後からついてくるものだ――それがバアトルの持論だった。
「うおおおおおっ!!」
 再び、斧をカアラに向けて振り下ろす。だがカアラの反応は速く、するりと避けられてしまった。再びがむしゃらに斧を振り回す。だが気合いのこもらぬ斧など、カアラには避けられて当然である。
 バアトルはますます悔しい思いを噛みしめた。
 カアラは笑みの形だった唇を引き締め、バアトルに問うた。
「バアトル、おぬし――いったい何があった?」
 突然、そのようなことを問われて、バアトルは戸惑った。
「何、とは、何のことだ!?」
「迷いが見える。以前のおぬしは、迷いなど塵ほども持っていなかったというのに」
 む、と言葉に詰まり、バアトルは思わず斧を構えたまま静止した。
 迷いと言えば、バアトルには気になることがあった。カアラを見ていると心の奥に沸き起こる、もやもやとした気持ちのことだ。この気持ちはどうにも処理できるものではなく、決して落ち着くこともない。バアトルはそのたびにいらいらを募らせた。
 これが噂の"こい"という感情なのだろうかと考えたこともあったが、その感情を持ったところで、その先どうすればよいのか、修行一筋に生きてきたバアトルには見当もつかない。
「バアトル、ではこちらから行くぞ」
 再び湧き出したややこしい感情のことを考えているうちに、カアラは剣を構え動いていた。
 バアトルは反応に一瞬遅れ、カアラの剣を避けきれない。バアトルの肩に、赤い血がにじんだ。
「ぐ……おおおおっ!」
 反撃と言わんばかりに、バアトルは斧を振る。
 だが、その時、ふいにカアラの顔が視界いっぱいに広がった。バアトルの心臓は戦いの高まりからか大きく跳ね上がり、バアトルの動きを再び静止させていた。
 その刹那。
 バアトルの顔は、空を見上げていた。――土の匂いを、いっぱいに漂わせながら。


 西方三島は、荒削りな山々と、濃い色の土で覆われた島々だ。ネルガルとの戦いを終え、バアトルとカアラは己を更に高めるため、共にここへやって来ていた。
 西方三島はバアトルの故郷であると同時に、二人が出会った最初の地でもあった。
「カアラ、貴様は"こい"というものを知っているか!」
 地面に尻をついたまま尋ねるバアトルを見つめて、カアラはきょとんとした表情になった。
「"こい"? はて。それはわざと、という意味か」
 その"故意"ではないということはバアトルにも分かったので、立ち上がり、勢いよく首を振った。
「そうではない! あれだ、よく噂になっていた"こい"というやつだ!」
 曖昧なバアトルの問いではあったが、カアラはしばし考えるような仕草をした。
 やがて、ああ、と合点のいった表情になった。その後で、カアラはくすくすと笑いだした。
「なっ、何がおかしい!?」
「いいや。ただ……おぬしの気の迷いはそれだったのか、と思ってな。なるほど、恋わずらいか」
 バアトルに生じた気の迷い。それがカアラとの修行中にまで影響を及ぼした。バアトルは思わず悔しくなり、ぐっと拳を握り締める。
 バアトルはこの感情の正体を、いまいちよく分かっていなかった。ただ、"こい"をしている人間は、相手と対面すると頬を染め、バアトルからしてみればこっ恥ずかしい言葉を交わし合い、体を触れ合うものだということだけは、理解していた。そんな状態になっている男女の姿を、バアトルは先の戦いで何人も目撃していたからだ。
 自分とカアラがそうなったらと考えると、何か得体の知れない恐ろしさが心の中に湧いてくる。体中が拒否している。バアトルはそれを本能で感じ取った。
「それで、カアラ、この感情をなくす方法は知らんのか!?」
 バアトルは思わず尋ねていた。
 もはや、今のバアトルに、"こい"は邪魔なものとして映っていた。最初は確かに心躍った、だがしかし、よくよく考えてみれば短所しか見つからない。先程も、全く修行に集中できなかったではないか。
 カアラはバアトルの問いにまたしても怪訝な顔をした。
「なくす? 何故だ?」
「不要なものだからだ! 貴様と修行をするのに、これほど不要な感情はない!」
 力いっぱいにそう訴えた。カアラはそれで納得したのか、また、顎に手を当てて考える仕草をした。バアトルはもどかしい思いでいっぱいになりながら、カアラが答えを出してくれるのを待った。
 しばらくして、カアラが顔を上げた。その視線と思わずぶつかってしまったバアトルは、何故かどぎまぎした。
 カアラは美しい女だ。背を滑る漆黒の髪、整った顔立ち、服の切れ目から見え隠れする、すらりと伸びた白い足。惚れぬ男がいるわけがない。バアトルも彼女を初めて目にした時、なんと綺麗なおなごかと見惚れた。同時に、このような美しく細い女が何故闘技場という荒々しい場所にいるのかと、疑問に思った。
 だがその疑問は一瞬で解消された。カアラは女ということを全く感じさせぬほど、器用に剣を操って男たちを圧倒していた。かくいうバアトルも、その男の一人だった。
「おぬしが、その女のことを忘れれば良いのではないか?」
 予想もしなかった言葉が、カアラの口から飛び出した。それは実に合理的で、しかし現実味のない答えだった。
 バアトルはぽかんと口を開けた後、いかんいかん、と首を勢いよく振った。
「それはできん! 何故なら……」
「何故なら?」
「貴様を忘れるわけにはいかんからだ!!」
 それが率直な告白となっていることにも気付かず、バアトルは勢いよく答えていた。カアラは目を見開き、その後で、徐々に顔を緩めて笑い声を洩らし始めた。
 カアラが何故、突然笑い出したのか、バアトルには全く解せなかった。
「な、何故笑っているのだ!?」
「いいや、ただ……改めて、思ったのだ。おぬしはいい男だと」
 初めて胸の高まりを感じた時に言われた台詞。バアトルの心臓は、一層強く跳ね上がる。
「その男に想われていた私は、余程の幸せ者なのだろう」
 カアラは微笑みを浮かべていた。バアトルの認識が正しいなら、その頬は紅を塗ったように、微かに赤らんでいた。
「バアトル、私は男に対して初めて、この身を全て預けてもよいと、そう思った」
 バアトルの頭が一層熱くなった。夢でも見ているのではないかと思った。カアラの言った意味が、興奮したバアトルにもよく理解できた。それがまた、バアトルの興奮を促進させた。
 カアラは言葉を続けた。
「私がこの地の闘技場にいた頃、剣の相手をしようという男はいくらでもいた。だが、その男たちの目的は、お前のように、私と純粋に手合せするというものではなかった」
 バアトルはぴんときた。その男たちの目的だ。このような美しい女が、大勢の男の中にいるとして、男たちが望むことはただ一つ。女を自分のものにしたい、ただそれだけだろう。
 闘技場には野蛮な男も多くいる。力ずくでカアラをものにしようとしたのだろう。
「私は初め、お前もその男の一人かと思った。だが、それは違うということが分かった。おぬしは、私を女として扱わなかった。一人の好敵手として扱ってくれた」
 バアトルは確かに、最初はカアラを女として見ていた。だが一度手合せして、完敗した後は違った。彼女を、生涯をかけて渡り合える相手と定めたのだ。そこに男と女という認識など、全く存在しなかった。
「私はそれが嬉しかったのだ。だから、おぬしをいい男だと言った」
 カアラは微笑んだままそう言った。
「バアトル、私を、おぬしの好きにするがよい。もう思い煩うことは何もない」
 バアトルは興奮のせいでうまく頭が回らなかったが、カアラの言わんとすることは理解できた。野蛮な男たちの表現を借りて言うとするなら、カアラはバアトルのものになったのだ。カアラは自分の身を、バアトルに預けると言ってきたのだから。
「よ、良いのか、カアラ!?」
「ああ。女に二言はない」
 バアトルの心にかかっていたもやもやとした霧が、さあっと晴れていくような気がした。
 同時に斧を持ち上げ、構えていた。バアトルの唇が、笑みの形に広がる。
 余計なものは全て取り払われた。そうなれば、次にバアトルが取る行動は一つだ。
「よし!! カアラ、もう一勝負だ! 俺の心に迷いはなくなったのだからな!!」
 カアラは驚いたように目を見開いたあと、すぐに穏やかな微笑を取り戻した。
「ふ……ああ、よかろう」
「今度は絶対に、貴様を倒す!」
「その言葉、そっくりそのままおぬしに返すとしよう」
 バアトルの好戦的な笑みと、カアラの涼しげな微笑が交差する。
 互いの武器を構えた後、二人は同時に、地面を蹴りつけていた。
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