とある昼下がり、ラケシスはとある村の家の中でお茶を入れ、一休みしていた。
傍では、まだ幼いナンナとリーフが遊んでいる。きゃあきゃあと無邪気な声を上げる彼らを見て、ラケシスは自然と微笑みが浮かぶのだった。
ナンナの母親であるラケシス、そしてリーフの保護者となったフィンは、グランベル帝国の目をかいくぐり、子供たちを育てなければならなかった。それは並大抵の労力で叶うものではなかったが、今こうして子供たちが楽しそうに遊んでいる姿を見ると、その疲れもどこかへ吹き飛ぶというものだった。
「ラ、ラケシス様」
その時、突然部屋にフィンが駆け込んできた。
呼ばれたラケシスはゆっくりとカップを皿の上に置き、フィンに目を向ける。
「フィン、一体どうしたのです。そんなに慌てて」
「ベオウルフ殿が、ここにおいでになりました」
ラケシスは思わず立ち上がっていた。テーブルが揺れ、少々カップから液体がこぼれ出たが、気にするどころではなかった。
部屋を出て、家の扉のところまで必死に走った。そうして外に出、ベオウルフの姿が見えた時、ラケシスは立ち止まり、思わず涙を流していた。
「ベオウルフ!」
ベオウルフは数年前と変わらぬ様子でそこに立っており、にっと笑みを浮かべて手を振った。
「ラケシス、久しぶりだな」
彼の声も、その笑みも、全く変わっていなかった。ベオウルフは静かに歩いていき、ラケシスの前までやって来た。
ラケシスは言葉が出ないながらも、必死にベオウルフの身体を手繰り寄せようとした。久しぶりに感じる、ベオウルフの体温。それは変わらず温かく、ラケシスを迎え入れてくれるかのようだった。ベオウルフもそうっと、ラケシスの背中に手を回した。
「ベオウルフ、ベオウルフ……」
どうしてここまで来たの、など、訊きたいことはたくさんあった。しかし口がそれらの言葉を紡いでくれなかった。ただベオウルフが幻でないことを確認したくて、彼の名を呼び続けた。ベオウルフは口から笑い声をもらして、ラケシスに言った。
「ラケシス、泣くな。もうお前は子供じゃないだろう」
そう言われた瞬間、ラケシスはぱっと涙に濡れた顔を上げて、ベオウルフの顔を見つめた。
「ベオウルフ、よく無事で……」
「ああ。なんとかな」
「今までどこに……いえ、どうして、ここへ?」
「お前とナンナに会いに来た」
そう言って笑ったベオウルフは、数年前よりどこかやつれているようにも感じた。無理もない。バーハラの戦いの後、ラケシスも同じような状態になっていたからだ。夫であるベオウルフの助言通りレンスターに逃れはしたが、ここにも帝国の魔の手が忍び寄っていた。
ベオウルフはきっと、それ以上辛い思いをしたのだろう。
それがラケシスには想像できて、ますます涙を誘われてしまった。
「ラケシス」
涙を流していたラケシスははっとなって、ベオウルフを見つめた。
「ナンナに会わせてくれるか」
「ええ、ええ……もちろんだわ」
ラケシスは涙をぬぐい、ベオウルフを家の中に引き入れた。
先程いた部屋まで戻ると、ナンナとリーフはなおも中で遊んでいた。時折楽しそうな声がもれてくる。ラケシスは少し扉を開け、部屋に顔を出した。
「ナンナ――」
ナンナを呼ぼうとしたラケシスの口を、とっさに大きな手がふさいだ。ラケシスは驚き、ベオウルフの方を見つめる。その大きい手はベオウルフのもので、ベオウルフはラケシスを鋭い、しかし少し悲しそうな視線で見つめていた。
「呼ばなくてもいい。ここで見ているだけで、十分だ」
ベオウルフの手をほどき、ラケシスは言い返した。
「でも、あなた、先程ナンナに会わせて欲しいって――」
「いや、気が変わった。俺はナンナに会わない方がいい」
「どういうことなのです?」
ラケシスが鋭さを含んだ声で尋ねると、ベオウルフは首を横に振った。
「俺は今までナンナやお前の傍にいてやれなかった。そんな男が、父親を名乗る資格などないだろう」
「そんなことを気にするなんて!」
ラケシスは怒ったように言った。全くベオウルフらしくない発言だった。彼の意図が掴めず、ラケシスは本当は何故なの、と視線で尋ねた。
だがベオウルフは再び首を横に振り、ラケシスに言った。
「ナンナのためにも、この方がいい。すぐにいなくなってしまうような父親を紹介しても、あいつのためにはならねえからな」
「何ですって?」
ラケシスはその言葉を聞き逃さなかった。必死の形相で、ラケシスは尋ねた。
「すぐいなくなるって、どういうこと? ずっと、ここにいてくれるのでは――」
「悪いが、元々そのつもりはなかった。俺はイザークへ行くつもりだ」
「イザークへ……」
言いかけて、ラケシスははっとした。ベオウルフの目的が分かったからだ。
「まさか、あなた、デルムッドのところへ……」
「そうだ。イード砂漠をまた越えることになるが、まあ、なんとかなるだろう」
「無茶だわ。そんな身体で!」
言いながら、ラケシスはいたわるように柔らかな指でベオウルフの首筋を撫でる。血管の少し浮き出たベオウルフの首。数年前、ラケシスはこの首筋を何度も撫でたことを思い出す。
ベオウルフの肌はざらついていて、汗が手にまとわりついてきた。しかしそれを、少しも嫌だとは思わなかった。今まで兄や兄のような男性――そんな男は一人として存在しなかったけれども――以外の男性には、触れるのも、触れられるのも汚らわしい行為だと嫌悪してきたラケシスにとって、それは驚くべき事だった。
初めて彼の首筋に触れた時、まるでベオウルフの肌がラケシスを欲しているように感じた。同時に、ラケシスの手がベオウルフの肌に触れたがっていることも感じた。そうしてラケシスはベオウルフを愛した。同時に彼も、ラケシスのことを愛してくれていた。
二人は子を成し、そしてあのバーハラの戦いでちりぢりになり――ようやく今日、再会できたというわけだ。
そんな夫が、もう行ってしまうのだという。娘にも会わずに。
ラケシスは手をベオウルフの首筋から離し、彼の汗ばんだ手を握った。彼は何も言わず、ラケシスの小さな手を握り返してきた。
「お願い、ここにいて。せめて少しの間だけでも」
ラケシスは哀願した。切実な思いだった。だが冷酷にも、ベオウルフは頷かなかった。
「駄目だ。そんなことをすれば、俺はここに未練が残るかもしれねえ。それに早く行ってやらなきゃ、デルムッドが可哀想だ。そうは思わないか」
「なら、私も一緒に行きます」
ラケシスは決意を持って、きっぱりと言い切った。瞬間、ベオウルフの瞳が大きく見開かれたが、すぐに鋭い視線を向けてきた。
「馬鹿なことを言うな。ナンナはどうするつもりだ。まさか連れて行くと言う気じゃないだろうな。子供連れであの砂漠を渡れないことくらい、お前はよく承知しているだろう」
「でも、あなた一人でも無茶ですわ! しかもそんな、傷だらけの身体で!」
ラケシスが訴えるように叫ぶと、ベオウルフは悲しそうに笑った。
「生憎だが、俺が傷だらけなのはいつものことだ。大したことじゃない」
「でも!」
「何を言われようとも、俺は考えを変える気はない」
ベオウルフはきっぱりと言い切った。そこで、ラケシスは自分の説得が意味をなさないことを悟った。脱力し、手をぶらりと下ろす。ベオウルフは口元に笑みをにじませながら、ラケシスの肩を軽く叩いた。
「俺がデルムッドに会えたら、あいつと一緒にまたレンスターへ来る。もうデルムッドは大きくなっているだろうし、俺について砂漠越えもできるはずだ。それなら問題はないだろう」
「なら」
ラケシスは言い、再びベオウルフの手を強く握った。ベオウルフは微かに戸惑いを見せていたが、何も言わずラケシスの言葉を待っていた。
「必ず帰ってくると、約束してください。約束を違えることは、決して許しません」
「必ずという、保証はできねえが」
「約束しなさい! 必ず、ですわ!」
ラケシスは激しい口調でそう言い、煮え切らないベオウルフを睨み付けた。ベオウルフは困ったように首筋を掻いていたが、やがて頷いた。
「分かった。約束する」
ラケシスはほっとし、思わず溜息を吐いた。
その時、ラケシスの叫び声が聞こえたのだろう、部屋の扉の前までナンナがやって来た。後ろにはリーフもおり、二人とも不安そうな瞳でラケシスのことを見つめている。ラケシスは我に返って、ナンナに笑みを見せた。
「ナンナ、どうしたの? リーフと遊んでいたのでしょう」
「おかあさまが、おおきなこえでさけんでおられたから、しんぱいになったの」
ナンナは小さな声でゆっくりとそう言った。ラケシスはしゃがみ、ナンナと同じ目線になって言った。
「大丈夫よ。何でもないの。さあ、遊んでいらっしゃい」
こくり、と頷こうとしたナンナは、ラケシスの後ろにいる人影に気付いたようだった。母より背が高く、みすぼらしい格好をした、いかめしい顔の男――それが幼いナンナに、恐怖の対象として映ったことは間違いなかった。そして母が泣いていたことにも気付いていたのだろう、ナンナはベオウルフを睨んで、叫んだ。
「おかあさまをいじめないで! でていきなさいっ!」
ベオウルフは目を丸くし、対処に困ったようだった。ラケシスは慌ててナンナをきつく叱った。
「ナンナ、なんてことを言うのです! この人は、貴方の――」
「もういい、ラケシス。どうやら俺は、邪魔な人物のようだ」
「そんな、ベオウルフ……」
「いいんだ」
ベオウルフはそう言って、先程のラケシスのようにしゃがみこみ、ナンナの頭を撫でた。ナンナはびくりと体を震わせ、ラケシスにしがみついた。
「嬢ちゃん、俺はもう出て行く。だから母さんのこと、大切にしてやるんだぞ」
ナンナはびっくりしたように目を丸くし、ベオウルフを見つめていた。その後、こくり、と小さく頷いた。
ラケシスはそんな二人の様子を見て、悲しくなった。仕方がないとはいえ、ナンナは目の前にいる男が自分の父親だと知らない。そしてベオウルフも、自分が彼女の父親だと告げずにここを発とうとしている。
家族四人、幸せに暮らせる日は、いつか訪れるのだろうか――。
ベオウルフはナンナの頭をわしわしと撫でた後、立ち上がって外へ向かった。ラケシスも慌ててそれについて行った。ベオウルフは外に待たせておいた愛馬に乗ると、ラケシスに笑みを見せた。
「じゃあな。いつになるかはわからんが、また会おう」
「必ず、必ずデルムッドを連れて、帰ってきてください」
「ああ」
ベオウルフは軽く手を振り、そのままラケシスのもとを去っていった。
彼の姿が見えなくなるまで、ラケシスは切なげな瞳のまま見送っていた。
「イザークへ行かれると!?」
驚いたフィンの声が部屋中にこだまし、ラケシスはええ、と頷いた。
「デルムッドを迎えに行きます。ナンナも大きくなったし、これならもう、私がいなくても安心ですわ」
「そんな、無茶です。あの砂漠を一人で越えることがどれだけ困難であるか、よくご存知でしょう」
「わかっています。でも、もう待っていられないのです。あの方も、もしかしたらイザークに留まっているのかもしれない……」
ふいに、ラケシスは遠くを見る目つきになる。そんな彼女に、フィンは厳しい目を向けていた。
「それでも、私は賛成できません」
「フィンが賛成してくれなくとも、私は行きます。もう、決めたのです」
ラケシスはそう言って、フィンの部屋を出て行こうとした。するとフィンが、後ろから声を上げた。
「ラケシス様!」
ラケシスが振り向くと、フィンは静かに言った。
「必ず帰ると、約束してください。ナンナを置いたまま逝くことは、許されることではありません」
「もちろんです。必ずデルムッドと、あの方を連れて戻ります」
言いながら、ラケシスは数年前、ベオウルフがレンスターに訪れた時のことを思い出していた。あの時のラケシスは、今のフィンの立場にいた。そしてベオウルフは今のラケシスの立場にいた。今なら分かる。ベオウルフがどうしてもイザークに行くと言った訳が。そして、その決意を変えられなかった訳が。
「それでは、ナンナを頼みます」
フィンは重々しく頷いた。
そうして、ラケシスはレンスターを旅立っていった。
その後のベオウルフとラケシスの消息を、誰も知るものはいなかった。