旅の終着点

 シレジアは今日も、凍えるような寒さだった。
 雪は降ったり止んだりを繰り返し、セイレーン城から見える景色を白銀に保ち続けていた。たまに陽が照り出したかと思うと、光が反射して直視していられないくらい眩しくなる。おまけに少しでも部屋の外に出ようものなら、身を刺すような寒さが襲ってくるのだ。まるで環境に適応できないなら外へ出るなと言われているかのようだった。
 傭兵という職業上、どんな環境にも早く慣れるのを得意としてきたベオウルフでさえ、まだこのシレジアの環境には慣れていなかった。そのため、どうしても部屋にこもりがちになってしまっていた。外で鍛錬を続けている者もいたが、よくそんなことができるものだと、ベオウルフは半ば呆れていた。
「ベオウルフ、どうしたの?」
 部屋から外の様子をぼんやり見ていると、後ろから声がかかった。ベオウルフは声のした方を向き、妻のラケシスを見つめた。
「いや、何でもない。退屈だと思っていただけだ」
「なら、外へ出てくればよろしいのに。今日は比較的穏やかな日だと、フュリーが教えてくれましたわよ」
「比較的、だろ? それはシレジアに住む奴の基準であって、俺の基準じゃない」
「まあ、そんな屁理屈を言うなんて」
 ラケシスは咎めるような口調で言ったが、その顔は笑っていた。自分を追い出そうとしているわけではないようだ。ベオウルフは少し安心しつつ、ラケシスの腕に抱かれている赤ん坊に目を向けた。
「デルムッドは、眠ったのか?」
「ええ、ぐっすり。しばらくは起きそうにないわね」
 そう答えて、ラケシスは優しい表情でデルムッドを見る。まるで天使のような、穏やかでけがれのない笑顔。それを見て微かな安心感を覚えながら、一方で後ろめたい気持ちがあったのも事実だった。ベオウルフはラケシスとその腕に抱かれた息子デルムッドの様子を、複雑な思いで見つめていた。
 自分はここにいてもいいのだろうか。ふと、そんな思いに駆られることがある。自分は家庭を築き、その中に収まっていられるような人間なのだろうか。今までのベオウルフの生活などを考えれば、今の状態は決して有り得ないものだった。
 傭兵として各地をさすらううちに身につけたのは、何も環境に適応する能力だけではない。様々な場所、そこで出会う目新しい物や人々に執着しないこと。そうすることで、ある程度の心の平安を保つことが出来た。
 今回もそうだろうと思っていた。成り行き上シアルフィ公子シグルドの軍に所属することになったが、軍そのものには大して執着を抱いているわけでもなく、ましてやこの軍に永遠の忠誠を誓う心など微塵もない。ベオウルフはあくまで傭兵だった。主君たちに絶対の忠誠を誓っている騎士たちとは、訳が違う。
 そうだ。ベオウルフが望むのならば、アグストリアからシレジアに向かうという話が出た時に、この軍と別れることもできたはずなのだ。
 だがそうさせなかったものがあった。それは、今自分の目の前にいる少女――ベオウルフにはかつてそう映っていた――ラケシスだった。何故この少女に執着を抱いたのか、ベオウルフは今でもよく分からない。以前から交流のあった男の妹。ただそれだけのはずだった。ベオウルフから話しかけることがなかったなら、一生関係らしい関係を結ぶこともないまま終わっていたに違いない。
 それでも何かに導かれるように、ベオウルフはラケシスに話しかけていた。ラケシスはベオウルフが兄エルトシャンと交流のあった男だと知ると、すぐに興味を持ったようだった。ノディオン王とその妹の仲の良さはアグストリアの街でも噂されていたが、どうやら嘘ではなかったらしい。
 やがて、その関係は徐々に変化していくことになる。ベオウルフはラケシスが、いつもと違う瞳で自分を見つめていることに気が付いた。ベオウルフはその瞳の意味を知らない無垢な子供ではない。そして彼女の混じりけのない純粋な思いに応えられるほど、綺麗な心の持ち主でもなかった。
 ベオウルフは彼女から目を逸らそうとした。目を合わせてしまえば、彼女の強い瞳に取り込まれてしまいそうな気がした。それでも、ラケシスはそれを許さなかった。目を逸らし続けていたベオウルフの顔を、強引に自分の方に向けた。私を見て。私は貴方を愛しているのよ――その強い口調に、逆らえなかった。
 ベオウルフがそれからラケシスに抱いた思いが、果たして愛であったのか。それはベオウルフにもはっきりとは分からない。ただ、この少女は護ってやらなくてはならない存在のように思えた。初めて、自分のこの剣を誰かのために使いたいと思った瞬間だった。
 そうして、ベオウルフはラケシスと契りを交わした。今ではその間に、息子も誕生している。デルムッドと名付けられたその息子は、今はラケシスの腕の中で幸せそうな寝息を立てていた。
 その無垢な顔を見るたび、ベオウルフの心は罪悪感に苛まれる。自分はこれから何をすべきなのか。すべきことがこの二人の笑顔を護ることであるならば、ベオウルフは傭兵である自分を捨てなければならない。彼女らのために、この剣を捧げる決断をせねばならない。まるで騎士のようだと、ベオウルフは思った。妻を娶り、子をもうけ、家庭を築くということは、その家庭に一生の忠誠を誓うということなのだと、この時初めて悟った。
「ラケシス」
 ベオウルフの静かな声に応えて、ラケシスは微笑んだまま顔を上げた。なあに、と問いたそうな口調だった。
 これを訊けば何かが終わるような予感はあったが、それでも訊かずにはいられなかった。
「この戦が終わったら、お前はどうするつもりだ」
 ラケシスははっとなって、微かに目を伏せた。沈黙が舞い降りる。ベオウルフは彼女の口が開くのを恐れながら、一方で彼女の答えを待ちこがれていた。ラケシスの一言で、自分のその後が決まる。そんな気がした。
 ラケシスは何度か口を開きかけて閉じ、ベオウルフを冷や冷やとさせた。だが何回目かの後ついに、彼女ははっきりと口を開いた。
「私は、故郷のアグストリアに帰りますわ。この子と、貴方と一緒に」
 今度はベオウルフがはっとなる番だった。
 彼女は家庭を築くことを選択した。そうして、暗にベオウルフにもそれを求めている。ベオウルフはしばし返答に迷った。軽々しく答えてはいけない気がした。たとえその答えが、どちらに転ぶことになったとしても。
「貴方も、一緒に来てくださいますわね」
 ラケシスはじっとベオウルフを見上げた。ベオウルフは顔をしかめた。軽々しく答えてはいけないが、それでも答えない訳にはいかない。ベオウルフはしばし考えるつもりでいたのだが、何故かその途中で口から言葉が飛び出していた。
「ああ、そうだな」
 途端に、ラケシスの顔が輝いた。ゆっくりと笑みを取り戻していくラケシスを見て、ベオウルフは嬉しいと思う反面、罪悪感がじわじわと押し寄せるのを感じていた。
「良かった。必ずよ、ベオウルフ」
「ああ……」
 ベオウルフは答え、ラケシスから視線を逸らした。
 正直なところ、ラケシスやデルムッド、そして今ラケシスのお腹にいる子と一緒に暮らしている自分の姿がまるで想像できなかった。若い頃から傭兵を生業としてきたベオウルフにとって、家族というのは縁遠いものだった。
 自分が世間で言われているような良き夫、良き父になれる自信は全くなかった。気まぐれが起こって、ある日突然家族を捨てて出て行ってしまうことになるかもしれない。だが、その後で残されたラケシスや子供たちの悲しむ顔を考えると、心に痛みが走るのだった。
「ベオウルフ、一体どうしたの? さっきから難しい顔をして」
 ラケシスが軽く首を傾げて尋ねてきた。ベオウルフは我に返り、首を横に振る。
「何でもない」
「そう、ならいいのだけれど。とても深刻そうな顔をしていたわ」
「気にするな。大したことじゃない」
 そう言ってしまったのが間違いだった。ラケシスは急に不安そうな顔になり、ベオウルフの顔をじっと見つめてきた。
「何か悩み事があるの? 私に話して。夫婦の間での隠し事はなしでしょう」
「いや、だから、大したことじゃないと言っているだろう」
「あんなに深刻そうな顔をしていたのに、大したことじゃないとはどうしても思えませんわ」
 ラケシスはどこまでも食い下がってきた。ベオウルフは思わずふっと笑みをもらす。
 そういえば、ラケシスは頑固な女だった。一度こうと決めれば、自分が納得するまで動こうとしない、そんな女性だった。
「分かった、話す。だが、大したことじゃないぞ?」
「ええ、構いませんわ。話して」
 ベオウルフは息を吸い、それを吐くと同時に言葉を発した。
「俺は、いや、お前のお腹にいる子供の名前を考えていたんだよ」
 さすがにそのまま悩みを言うことはできなくて、嘘を吐いた。子供の名前をあれこれ考えるほど、ベオウルフは名前に執着する男ではない。デルムッドの名前も、デルムッドが生まれてから二人で決めたくらいだ。二人で、というのは適切でないかもしれない。ラケシスが考え、ベオウルフはそれに同意しただけだった。
 ラケシスは驚いたような顔をしたが、すぐに嬉しそうな表情に戻った。
「まあ。それで、何か候補は浮かんだの?」
「いや。お前は何か考えているのか」
 聞き返されて、ラケシスは考えるような仕草をした。
「そうね。ナンナなんてどうかしら」
「ナンナ? 女なのか?」
「まだ分からないけれど、最初の子が男の子だったから、次は女の子がいいと思っているの。それでもし女の子だったら、ナンナなんてどうかしら、って」
「ナンナか……」
 ベオウルフは考え、あまり違和感がなかったのでそれに同意した。ラケシスはにこりと微笑んで、いいでしょう、と頷いた。
「本当に、楽しみだわ。早く生まれてきて欲しいって、毎日そればかり考えているのよ」
「ああ」
「この戦争がどうなるかは分からないけれど、私はいつも、家族で幸せに暮らせることばかり考えているの。絶対に離れたくないと、そればかりを」
 離れたくない。それはベオウルフも同じだった。気まぐれ心がどうなるかは分からないが、少なくとも自分からラケシスや子供たちのもとを離れることはない。それはやはりある種の執着であった。何かに執着心を抱くことで自分が変わってきていることを、ベオウルフは認めざるを得なくなった。
 それを認めた時、ベオウルフは急に心が軽くなった気がした。今まで悩んでいたことが馬鹿らしく思えてきた。自分の悩みなど、はなから問題ではなかったのだ。
 ベオウルフが声を立てて笑うと、ラケシスは再び怪訝そうな顔になった。
「どうしたの? 急に笑ったりなんかして」
「いや。俺はもう、昔の俺じゃないんだと思ってな」
「どういうこと?」
「いや、あまり気にするな」
 ベオウルフは笑い、なおも怪訝そうな顔をするラケシスを見つめた。急にラケシスが、とてつもなく愛おしい存在に思えてきた。幸い、その愛おしい女は自分の傍にいる。これからの人生を共に歩む誓いも立てている。
「ラケシス、愛している」
「えっ? 何か、言った?」
「いいや。空耳だろう」
 ベオウルフは微かに呟いた本心の言葉をごまかし、外の景色に目を移した。
 相変わらず、外は雪が降り続いていた。
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