最後の一言

 扉を叩く音が聞こえて、ベオウルフはおもむろに顔を上げた。漆黒の闇の中に白い雪の舞い降りる夜。こんな時間に一体誰だろうと、ベオウルフはベッドから立ち上がる。
 扉を開けるとそこには意外な人物が立っていて、ベオウルフは思わず目を見開いた。
「……ラケシス?」
 金糸の髪の間から覗く目が、ベオウルフを真っ直ぐに見据えていた。その強い意志を宿した瞳は、彼女の兄エルトシャンに酷似していると、ふと思った。
 ラケシスは口を開いた。
「入ってもいいかしら」
「何か用か?」
「いいえ。ただ、あなたとお話がしたいだけよ」
 言葉とは裏腹に、どこかよそよそしさを感じる口調だった。彼女の意図が全く掴めず、ベオウルフは怪訝な表情になった。
「こんな男と、何を話したいことがあるんだ?」
「話したいというだけでは、理由にならないの?」
 ラケシスの口調に、若干刺々しさが混ざった。押し問答する気はないと言いたいのだろう。
 それは自分も同じだが、と思った時、ベオウルフはふと気が付いた。ラケシスが腕をさすっている。雪国シレジアの、まして夜のこの寒さにもかかわらず、彼女はまるで下着のような薄い服を羽織っているだけだ。見ているだけで、こちらまで震えてきてしまう。ラケシスは決して何も言わなかったが、寒がっていることなど一目瞭然だ。
「とにかく、中に入れ。そんな格好じゃ寒いだろう」
「ええ」
 ベオウルフは扉に背をもたせかけて大きく開くと、彼女を中へ引き入れた。ラケシスは小さく返事をしたきり何も言わず、ゆっくりと歩いて部屋の中へ入ってきた。
 扉を閉め、ベオウルフは部屋の暖炉に薪を放った。ぱちんと中で爆ぜる音が聞こえ、火が大きく燃え上がった。
 ラケシスは部屋の真ん中で立ち止まり、暖炉の火をぼうっと見つめていた。彼女の鋭く、しかしどこか思い詰めたような表情が、赤々と燃える炎に照らされて浮かび上がっていた。
 彼女を部屋に引き入れたはいいものの、さて、とベオウルフは困った。男同士のように夜通し酒を飲み交わすでもなし、そこらで引っかけた女と夜を楽しむのでもなし、正直なところこの少女――少なくともベオウルフにはそう見えていた――と二人きりでどう過ごせばよいのか、全く見当がつかなかった。自分と話したいと言っていた肝心のラケシスは、暖炉の炎を見つめたまま動かない。
「ラケシス」
 耐えかねたベオウルフが名を呼んでも、反応は返ってこない。
「ラケシス?」
 今度はやや強めに呼ぶと、ラケシスはやっと我に返ったように顔を上げた。そして今し方ベオウルフを見つけたばかりであるかのように、目を見開いて驚いたような表情を見せた。
「あら、ベオウルフ……」
「『あら』、じゃないだろう。俺と話したいことがあったんじゃないのか」
「ええ、そうね……」
「まあ、座れよ」
 ベオウルフはベッドに腰を下ろすと、話題を探すように視線を彷徨わせているラケシスに向かって手招きをした。ラケシスは少し戸惑った様子だったが、大人しくベオウルフの隣に腰を下ろした。


「そういえば」
 ラケシスはやっと話題を見つけたのか、口を開いた。
「もうすぐ式を挙げるそうよ。エーディンが」
「へえ、そうなのか」
 特に興味をそそられる話題でもない。多くの男女が集うこのシグルド軍で、カップルが誕生することは珍しい話ではなかった。反逆者として追われる身であっても、否、追われる身であるからこそ、安心を求め、繋がりを求めるのだろうと、ベオウルフはぼんやり考えた。
「とても幸せそうだったわ。白いウェディングドレスまで用意してもらって……」
 何気なさを装いながら、その口調の中に羨望が込められていることにベオウルフは気が付いた。
「お前は、結婚しないのか」
 途端に、ラケシスが目を見開いてベオウルフを見つめた。驚きにも非難にもとれる視線がベオウルフに突き刺さった。
「失礼なことを訊くのね、貴方は」
 ラケシスの声のトーンが落ちたので、彼女の怒りに触れてしまったかと思ったが、ラケシスはそれ以上怒ることもなく、視線を戻した。
「でも……そうね。私もアグストリアにいた頃は、結婚なんて考えもしなかったわ。私にとっての最高の殿方はお兄様で、お兄様以外の男性なんて眼中になかったんだもの」
「エルトシャン、な」
 その名を口にすると、ラケシスの肩がぴくりと震えた。
 彼女の兄のことはよく知っていた。彼女と同じ、眩い金の髪。その合間から覗く、研ぎ澄まされた刃の如き鋭い瞳。端正な顔立ちの、聡明な男だった。アグストリア王家に最後まで忠誠を誓い、それ故に首を刎ねられ命を失った。
 兄を敬愛してやまなかったラケシスが立ち直るのに、どれほどの時間がかかったことか――ベオウルフはまるで何年も昔のことのように懐かしく思い出していた。彼女がこうして泣き崩れることなく兄の話題を出せるようになるまで、どれほどの想いを重ねてきたのか、ベオウルフには想像もつかない。それほどまでに、ラケシスにとってエルトシャンという男は大きな存在だったのだ。
 だが、今のラケシスは冷静だった。一つも取り乱すことなく、言葉を続けたのがその証拠だった。
「でも、私はただの幼い子供だったと、最近気付いたの。何も知らなかったからただ、お兄様に憧れていただけなのだと」
「……好きな男がいるのか」
 ラケシスの回りくどい言い回しを厭い、ベオウルフは単刀直入に尋ねた。するとラケシスははっと目を見開いた後、素直に頷いた。
「そうね。きっと、そうだと思う」
「だったら、その男と結婚すればいいだろう」
 ラケシスは首を横に振った。
「それは無理だわ」
「何故だ?」
「だって、向こうがその気でないんですもの」
 まるで他人事のようなラケシスの口調に、ベオウルフは何故か苛々した。
 ラケシスが恋に浮かれた村娘のように、顔を真っ赤にしたまま男の前で話もできないのであればともかく、彼女はそのような性格ではないとはっきり断言できる。思ったことは率直に口に出す女だし、周りの人間が背を押さなければ行動できないほど引っ込み思案なわけでもない。その女が先程から、何故こんな回りくどい口調で自分のことを話すのか――ベオウルフはますます、苛々した。
「お前がその気にさせればいい」
 我慢ができず、出た言葉がこれだった。ラケシスははしばみ色の瞳を大きく見開いた。
「私が、その気に?」
「そうだ。お前はもう、子供じゃないんだろ?」
 投げやりな口調だった。ラケシスを取り巻くその状況が早く動けばいい――ベオウルフはそう思っていたが、その思いには僅かに嫉妬も含まれていたのかもしれなかった。
 ラケシスはやや俯いて、ベオウルフの言葉を反芻しているようだった。やがて、彼女は確認するように口を開いた。
「本当に、そう思うの?」
「違うのか?」
「だったら……」
 ラケシスは突然、ベオウルフの方に寄りかかってきた。
 彼女はいくら華奢とはいえ一人の人間だ、それなりに重みはある。唐突だったということもあり、ベオウルフはその重みに耐えきれずベッドの上に寝転がった。ラケシスはベオウルフの太股の間に足を滑り込ませ、左足に体重を載せてきた。
「何の真似だ?」
「貴方をその気にさせているのよ」
 ラケシスの声に震えが混じった。それに気付いたベオウルフはなんだかおかしくなり、思わず笑いそうになって、慌てて頬の筋肉に力を入れた。
 明らかに慣れていない様子だった。それも当然だろう、何しろ彼女は男女の駆け引きも知らない、深窓の姫君だったのだから。ベオウルフにはまるで、小さな子供が大人ぶっているようにしか見えなかった。
「そいつは無理な話だな」
「まあ、どうして?」
「お前には覚悟がないからだ。もし俺が欲を持て余した野蛮な男だったら、無事ではいられなかったぞ」
 俺もさほど変わらないがな、とベオウルフが苦笑すると、途端にラケシスは顔を真っ赤にした。みっともないことをしている自分が恥ずかしいのか、それとも小馬鹿にしたようなベオウルフの言葉に怒ったのか。どうやら後者の感情が勝ったらしく、ラケシスは唇を震わせて、一段と低い声を出した。
「馬鹿にしないで。私だって、考えなしにこんなことをする女じゃないわ」
「ほう。そうなのか?」
 ベオウルフはにやりと笑った。
 刹那、腹に力を入れて起き上がると、今度は逆にラケシスをベッドの上に押し倒した。小さな抵抗の声が聞こえたが、ベオウルフは聞こえなかったふりをした。
 自分を見上げる彼女の瞳が明らかに動揺しているのを見て、ベオウルフは釘を刺すように言った。
「決めたのはラケシス、お前だぞ」
「……ええ。後悔なんてしていない」
 強い語調ながら、やはり震えは隠せない。ベオウルフは再び苦笑し、シーツの上に乱れる金の髪に手を伸ばした。手を開いて髪を梳くと、彼女の全身の震えが伝わってきた。まるで怖くてたまらないと叫ぶかのように。
「ベオウルフ……」
 縋るような声で、呼ばれる。
「怖いなら、やめるか」
「いやよ! 絶対に、いや」
 ラケシスは激しく首を振り、細い指を伸ばしてベオウルフの服を掴んだ。頑固な姫さんだと心の中で呟いて、ベオウルフはその頼りない指を自分の手で握った。すっかり冷えた指先から、少しずつラケシスの温かみが伝わってきた。
 ほんの少し前までは、ただの少女だと思っていたのに――ベオウルフは急激に、ラケシスを愛おしく思い始めている自分に気が付いた。このまま手を離したくない、自分がそう強く願っていることを悟って、ベオウルフはため息をついた。
 傭兵であるベオウルフは、今まで守るべきものを持たなかった。傭兵は一時期、雇われることで金という鎖で繋がれるだけであって、守るのとは違う。だがラケシスのことは、自分の身から決して離したくないと初めて思った。彼女にこれから降りかかるであろうあらゆる災難や不幸から守ってやりたいと素直に思えた。不思議な感覚だった。春の陽気のように温かで、緑多き野に流れる清水のように穏やかな気持ち。今まで無縁だった感情と出会い、ベオウルフは戸惑いすら覚えていた。
「後悔、しないんだな?」
「何度も言っているわ」
 ラケシスは待ちわびたとでも言うように、ますます強い力でベオウルフの服を掴んだ。
 そうして、口を開ける。小さな喉が震えて、ベオウルフの鼓膜を心地よく撫でる。


「――好きよ、ベオウルフ」
 それが、ベオウルフの理性が失われる前の、最後の一言だった。
(2009.11.25)
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