魔法の呪文

 カスパルとヒルダがフェルディアの西にある小さな村に到着したのは、まだ雪の残る孤月の節の下旬のことであった。
 戦争が終わり、二人で放浪の旅を始めてから、もうすぐ一年が経つ。ヒルダの故郷であるゴネリル領を出発し、旧同盟領を回った後、西へ向かって旧帝国領、ブリギットやダグザへも足を伸ばし、その後更に北へ向かい旧王国領を横断し、かつてファーガス神聖王国の王都であったフェルディアの近くまで、ようやく辿り着いたのである。
 その日はからりと晴れてはいたが、海から吹き付ける北風がヒルダを身震いさせた。少し先を歩いていたカスパルが、振り返って気遣う。
「大丈夫か、ヒルダ?」
「うん、平気。だいぶ慣れたしー。でも、やっぱりこの時期にここに来るのは正解じゃなかったかもー……」
 ヒルダがそう言って溜息をつくと、まあな、とカスパルも困ったような表情になった。
 ヒルダは同盟領出身、カスパルも帝国領出身とあって、寒さにはそれほど強くない。それなのに王国領に着いたのがよりにもよって守護の節。一番寒い時期をフォドラの北で過ごすことになり、元々あてのない旅ではあったが、完全に来る時期を間違えたと後悔したものだ。
 とはいえ旧帝国領で冬が過ぎるのを待つのも、敢えて引き返すのもカスパルの性分ではなく、ヒルダもカスパルが決めたならと文句は言わず、ここまで来たというわけだ。
 何はともあれ、無事村に着いた。まずは今日の宿を確保するため、カスパルとヒルダはこの村に一軒しかないという小さな宿屋に立ち寄った。
 宿の女将は二人を歓迎してくれたが、今日はあいにく一部屋しか空いていない、と申し訳なさそうに言った。その上、空いているその部屋は二人用の大きなベッドが一つ設置してあるだけなのだという。ヒルダは唖然とした。
「えっ、その一部屋しかないんですかー?」
「そうなんだよ。他は全部埋まっててねえ。でも、あんたら恋人か夫婦なんだろ?」
 なら大丈夫だと思うけど、と続ける女将の言葉を聞きながら、カスパルとヒルダは思わず顔を見合わせた。
「いやあ、オレたち、そういうんじゃないからなぁ……」
 頭を掻きながらカスパルがそう言うと、そうなのかい、と女将が驚いた顔をする。
 ヒルダはカスパルに気付かれないように、そっと小さく溜息をついた。
 確かに、自分とカスパルはまだ恋愛関係ではない。少なくともこれまで、カスパルの側から、ヒルダに対する恋愛感情を表すような発言は一度もなかった。ヒルダが一方的に彼を好ましく思っているだけだ。それとなく彼の気持ちを探ろうとしたり、自分から誘いをかけてみたりはしたが、全て不発に終わっている。
 この旅の間、関係を誤解されることは何度もあった。だがその度、カスパルは即座にそれを否定してきた。この一年、毎日一緒にいるというのに、こうもはっきりと脈なしということを突きつけられると悲しくなってくる。
 たまにくらい、恋人だと嘘をついてくれてもいいのに――ヒルダの心に浮かぶ思いは、しかしすぐ打ち消されることになる。嘘はカスパルの一番嫌いなものだ。嘘をつくカスパルくんなんてカスパルくんじゃない、と。
 結局のところ、彼のそういう真っ直ぐなところが好きだから、というところに話は収まって、それ以上の不満はいつの間にか消えてしまうのだった。
 カスパルがヒルダの方を振り返る。
「ヒルダ、どうする? つっても、この寒いのに野宿、ってのは考えられねえしな……」
「そうよねー。あたしもそれはちょっと……」
 ヒルダはうんうんと頷いた。まだ外には雪が残っているし、冷たい北風も吹いているというのに、外で寝るなんて考えただけでも恐ろしい。
「あたしは別にその部屋でもいいけどー? カスパルくんがイヤじゃなければ、だけど」
 ヒルダがそう言うと、カスパルは力強く頷いた。
「ああ、オレも異論はないぜ。お前がいいってんなら、それで」
 カスパルは再び女将の方に向き直った。
「じゃ、その部屋、頼めるか?」
「こちらとしては大歓迎さ。はい、これ、部屋の鍵ね」
 女将は快く鍵を渡してくれ、二人は部屋に続く階段を上った。


 その日の夜。
 互いに湯浴みを済ませた後、二人はベッドに入った。
 最初はカスパルが、オレはどこでも寝られるから、と横のソファで寝ることを提案した。だがさすがに布団なしで寝るのは凍え死ぬ可能性がある、という話になり、結局は同じベッドの中で寝ることになった。
 ヒルダとしても特に異論はないのだが、同じベッドの中でとなると、どうしてもいつも以上に密着する形となる。そう意識するだけで心臓の鼓動が高鳴っていくのを感じて、思わず溜息をついた。普段のように眠れる自信が全くない。
 対するカスパルはというと、自分のことはまるで意識していないように見えた。表情も仕草もいつもと全く変わりがない。枕に頭を預けて、じっと天井を見つめている。
「なあ、ヒルダ」
 突然話しかけられて、ヒルダの心臓が勢いよく跳ね上がった。
「な、なあに? カスパルくん」
「ヒルダはこれからどうしたいとか、将来のこと、考えたことあるか?」
 至極真面目な質問に、ヒルダは俯いて考え込んだ。戦後、カスパルの誘いに乗って放浪の旅に出て、それ自体はとても楽しいのだが、その先までは考えたことがなかった。
 いつかは旅を止めて、ゴネリル家に帰ることになるのだろうか。その時、カスパルはどうするのだろうか。もしかしたらそれきり別れることになるかもしれない、と思った途端、ヒルダの胸の奥がずきんと痛んだ。
 だが、有り得ない話ではない。カスパルの側は自分のことをどうとも思っていないようだし、ヒルダも彼を引き留める理由がない。自分が好きだというだけで彼を引き留めるのは、彼の自由を制限してしまうようで嫌だった。
「……うーん。そうねー。あんまり考えたことなかった、かな……そういうカスパルくんは?」
 聞き返すと、うーん、とカスパルも考えるように唸った。
「実はさ、オレも、まだあんまり考えられてなくて。もうすぐフォドラを一周して、旧同盟領に戻ることになるだろ? その後どうすっかなってふと思ってよ。まあ、旅は楽しいし、このまま続けててもいいんだろうけど……」
 カスパルは言葉を濁した。カスパルが旅の続きを望むなら、自分もそれについて行きたい――そう言おうとして、ヒルダはその言葉を呑み込んだ。
 しばし沈黙がおりる。カスパルは珍しく考え込んでいる様子だった。そんな雰囲気に耐えられず、ヒルダは口を開いた。
「カスパルくんは、何かしたいこととかないのー?」
「ん? したいこと、か……したいことっていやあ、この旅だし、もう達成できてるな」
 一瞬で話が終わってしまった。ヒルダはなんとか話を繋ぐ。
「じゃあ、例えば小さい頃の夢とか。そういうの、なかったのー?」
「夢なあ……」
 カスパルはぽりぽりと頭を掻いた。
「ほら、オレって次男だったろ? 家を継ぐ立場になかったからさ。いずれは腕一本で生計立てていかなきゃなんねえし、っつうのは思ってたけど。それって夢とはまた違う気もするしな……」
「そっかー。あたしと一緒ね。あたしも家を継ぐ必要はないから、気ままに自由に生きていけたらそれでいっかと思ってたしー。でも、まさかこんなふうに、カスパルくんとフォドラを一周することになるなんて、思ってもみなかったけど」
 ヒルダがくすくすと笑うと、それまで眉間に皺を寄せていたカスパルもようやく笑顔を見せた。
「オレもそうだな。クロードや先生と一緒に戦ううちに、もっと世界を見て回りてえって思うようになってさ。せっかく生きてんだから、狭い世界の中だけで終わるのは勿体ねえって」
「そうねー。あたしも知らなかったこと、色々知れたし。カスパルくんと一緒に旅して良かったって思ってるよー」
 ヒルダがそう言うと、カスパルはヒルダの方に身体を向けた。
「ほんと、お前がいなかったら、もっとつまんねえ旅になってたかもしれねえ。あの時、よくついてきてくれたよな、オレに。ありがとな、ヒルダ」
 太陽のように明るく笑いながらそう言われて、ヒルダは照れくさくなって布団の中でもじもじした。急にそんなふうにお礼を言われるなんて、心の準備ができていない。でも、当然、悪い気はしない。むしろ幸福な気持ちで胸がいっぱいになる。
「うふふ。だってあたし、カスパルくんが自由にしてるのを見るの、好きだから」
 淡い期待を込めながら、ヒルダはそう言った。大概、その期待は打ち砕かれるものだというのは重々承知している。それでも、その言葉はヒルダの本心からの言葉だった。彼に届いてくれれば、それでいい。言葉通りの意味に取られたとしても。
「オレも、お前のそういうとこ、好きだぜ。人の人生に口出ししねえで、見守ってくれるとこ。お前が見守ってくれてるって思うとさ、なんか安心感あんだよな」
 カスパルの明るく真っ直ぐな言葉は、ヒルダの心を十分すぎるくらいに揺さぶった。
 恋人同士が交わすような、甘やかな言葉はない。それでも、カスパルは笑ってくれた。ヒルダの好きなところまで言葉にして言ってくれた。それだけで、ヒルダの心は十分に満たされた。
 その時、カタカタと窓枠が音を立てた。外は北風が強く吹いているらしい。窓はぴっちりと閉めているはずだが、すきま風が入ってきたような気がして、ヒルダは思わず身震いした。それに気付いたカスパルが、昼間のようにヒルダを気遣ってくれる。
「ヒルダ、大丈夫か? 寒いか?」
「そうねー、ちょっと寒いけど、平気よ。今日はしっかり布団被って寝なきゃ、ね」
 そう返すと、カスパルが突然がばりと布団を手で押し上げて、空間を作った。何事かと思う間もなく、カスパルの口から飛び出た言葉にヒルダは仰天した。
「ヒルダ、もっとこっち来いよ。オレ、人より体温高いらしいから。くっついて寝たら、ちっとは寒くなくなるんじゃねえ?」
 恋人同士でもないのに。その言葉が意味するところは、つまりなんなのだろうか。
 思わず考え込もうとしてしまって、ヒルダは首を振ってそれを打ち消した。
 きっと、カスパルの言葉に言葉以上の意味はない。ただ本当に、お互いに密着すれば今以上に暖かいはずだと言いたいだけなのだ。そしてそれは理にかなっている。
 ヒルダは少しばかり躊躇ったが、数秒後には迎え入れられるままにカスパルの左脇に密着していた。カスパルが左腕を背に回し、ぐっと引き寄せてくれる。
 ヒルダの心臓が早鐘を打つ。同時に、頭がふわふわし始めた。視線を上げるとすぐ、カスパルの顔が見えた。あらゆる物事を真っ直ぐに見つめる空色の瞳。引き締まった鋭い輪郭。贔屓目なしに見ても、端正な顔立ちだと思う。こんな近くでカスパルの顔を見る特権を得たのは自分だけだと思うと、この上なく幸福な感情で満たされた。
「ヒルダ、どうだ? ちっとはマシか?」
「なんだろー。寒いかどうか、もうわかんなくなっちゃった」
 ヒルダは比喩でもなんでもなく、感じたままを口にした。どうやら幸福という感情に、全ての感覚を奪われてしまったらしい。とにかくふわふわしていて、カスパルに触れている自分の手の感覚が本物なのかそうでないのか、それすらもよくわからなくなっていた。だが、それでいいとヒルダは思った。
 カスパルに何の下心もないことは分かっている。こんなに浮き立っているのが自分だけだということも。一抹の寂しさは覚えるが、カスパルくんらしい、という魔法の呪文を唱えれば、あっという間に寂しさも不満も消えていく。残るのは、自分に触れている彼の温もりと、心に溢れる幸福感だけだ。
 ヒルダが嬉しそうに微笑むのを確認した後、睦言を交わすでもなく、それ以上何かをするでもなく、傍らのカスパルは寝息を立て始めた。ヒルダは思わず苦笑する。
 ――ほんっと、カスパルくんってずるいよねー。
 自分は興奮で眠れないかもしれないのに、先に寝てしまうなんて。
 でも、それもカスパルくんらしい。
 魔法の呪文をもう一度唱えてから、ヒルダは彼の逞しい身体に頬を寄せた。
(2019.10.8)
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