制圧したばかりのグルニア城には、重苦しい雰囲気が満ちていた。これからの戦いの厳しさを予感し憂慮する者が大勢だったが、愛する者を喪ったニーナ姫の悲しみを自分のことのように受け止め、自然と無口になってしまう者もいた。
チェイニーはこのような雰囲気が苦手だった。性に合わないのだ。そのうえ、この夜の闇というものは、ますますその雰囲気を増大させる。
ふう、とため息をついて、チェイニーは部屋の窓から外を眺めた。この部屋にはチェイニーの他にも人が割り当てられていたはずなのだが、皆出払っていて、残っているのはチェイニーしかいなかった。
外は暗くて何も見えない。闇の向こうで、グルニアの森がざわめいているのを感じるのみだ。
そろそろ寝るか、と、チェイニーはベッドへ体を移動させようとした。
その時、部屋の扉の向こうに人の気配がした。その気配だけで、チェイニーはそれが何者なのか気づいた。よく知っている者だったからだ。チェイニーは急いで、扉を開けた。
「チキか?」
思ったとおり、そこには今にも泣きそうな顔のチキがいた。チェイニーの顔をじっと見上げている。
「どうしたんだ? こんな夜中に」
「ゆめをみたの。すごく、こわいゆめ……」
チキの体が小刻みに震えていた。チェイニーは事情を悟り、チキを部屋に迎え入れた。チキは歩きながら、チェイニーの服の端を、ぎゅっと握りしめてきた。よほど怖かったのだろう。
チェイニーはチキをベッドに座らせ、自分もその隣に座った。
「怖い夢、見たのか」
「うん」
「いつもと同じ夢か?」
「うん。ずうっと、おんなじゆめ」
チキの体はなおも震えている。チェイニーはチキの肩を抱いた。手から小刻みに伝わってくるその揺れが、痛々しかった。
「ねえ、チェイニー、どうしてなの」
チキがチェイニーの服の端を握ったまま、呟くように言う。
「どうして、こんなにこわいゆめ、みなくちゃいけないの?」
「チキ……」
それがチェイニーのせいでないと分かっていても、何故か責められているような気がして、チェイニーの心には小さな罪悪感が生まれるのだった。
チキは竜族の王女。同じ竜族であるはずのチェイニーさえも持たない大きな力を有している。それだけに、負の予兆を誰よりも強く感じ取るのだろう。それにチキはずっと封印されていて、まだ幼いものだから、負の力を自分の全てで受け止めざるを得なくなるのだ。もう少し大人になれば、それを制御する力も身につくのだろうが。
チェイニーはただ、この幼い少女を抱き寄せてやることしかできなかった。少しでも震えが止まるようにと。
しばらくすると、チキの心もだいぶ平安を取り戻してきたらしい。呼吸音が安定してきた。チェイニーはチキの頭を撫でた。
「もう大丈夫か? チキ」
「うん」
チキは微かながら笑顔を見せて、こくりと頷いた。チェイニーは安心して、撫でていた手を止めた。
するとチキが、物欲しそうにチェイニーを見上げた。
「チェイニー、もっとなでて。そうしてもらうの、好きだから」
「こうか?」
チェイニーが再び手を動かす。チキの緑髪がチェイニーの手の上をさらさらと落ちていく。チキは満足そうに、ふふふ、と笑い声をもらした。
「チェイニー、いっつもそうしてくれてた」
「そうだったっけか? 忘れちゃったな」
「そうだよ。わたしが、こわいゆめみた、って泣いたとき、いつも」
そうだったかなあと、チェイニーはぼんやり思い出す。
チェイニーは竜の力を捨てた。そしてガトーに、チキを守るよう命ぜられた。守ると言っても、具体的にどうしろと言われたわけではない。竜の力を捨てたチェイニーに、他人を守る術はない。できることといえば、せいぜいチキに化けて、囮になることくらいだろう。それでもチキの中に眠る強大な力までは、真似ることはできないのだけれども。
そんなチェイニーがこの少女の近くにいてできることといえば、彼女の体調と精神状態を気遣うことだった。
最初は戸惑った。長年の眠りについていた少女と、どう接すれば良いのか分からなかった。だが、迷う必要はなかった。チキはすぐにチェイニーに懐いた。チェイニーのすることを、いつも楽しそうな目で見た。そしてチェイニーの悪ふざけにも、笑ったり怒ったりして対応できるようになったのだ。
チェイニーに、そしてバヌトゥに見守られ、成長していった少女を、チェイニーは愛しく思う。まるで妹のように。
「チキ、力、使いすぎてないか? 辛くないか?」
「うん、だいじょうぶ。いたいところはぜんぶ、レナのおねえちゃんがなおしてくれるもの」
「そうか、そうだな」
「チェイニーは? またいつも、ひとのまねばっかりしてるの?」
「まあな。だってそうじゃないと、おれ、まともに戦えないし」
「でも、こんど、わたしのまねしたら、おこるからね」
「ははは、分かってるって。もうしないよ」
口ではそう言いながら、何度もいたずらを重ねてきたチェイニーだから、もう信頼されないだろうかと思ったが、そうではなかったらしい。チキはその言葉で心底満足したような表情になり、ふふふと笑った。チキは純粋な心の持ち主なのだ。
手から伝わるチキの髪の感触が心地よかったが、しばらくすると、チェイニーの手が疲れてきた。もうどれくらいチキの頭を撫でていたのだろう。
チェイニーはふう、と息を吐いて、チキに尋ねた。
「チキ、もうそろそろいいか? 手が疲れてきた」
だが、返事はなかった。
「チキ?」
驚いて少女の方を見ると、チキの頭がチェイニーの膝に乗った。息が足にかかってくすぐったい。
すう、すう、と、チキは心地よさそうな寝息を立てていた。
「なんだ、寝ちゃったのか」
チェイニーは手を止め、チキの垂れ下った髪を上げる。目を閉じて安らかな寝息を立てているチキは、可愛いという以外に表現しようのないものだった。
彼女はチェイニーにとって守るべき対象なのだ。たとえその身に強大な力を有していたとしても。
「くすぐったいな」
チェイニーは膝の重みを優しく受け止めた。
人間と竜――その狭間で生きてきたチェイニーに、チキという少女は最高の癒しを与えてくれる。
チキといると、荒んだ心が晴れていく気がした。
「ありがとな、チキ」
眠ってしまった少女に向かって、チェイニーはそっとお礼の言葉を口にした。