先行く覚悟

 グロンダーズでの戦いを前に、イングリットの心は揺れていた。
 今自分が属するクロード率いる同盟軍、メリセウス要塞から来たるエーデルガルト率いる帝国軍に加え、ブレーダッドの軍旗を掲げた第三の勢力が進軍してきているというのである。元々王国の人間だった者として、その情報は聞き捨てならないものだった。
 今のイングリットにとって、指揮を執る先生やクロードの命令は絶対だ。軍から離れて、一人で勝手にその第三勢力の様子を見に行くというわけにはいかない。だがきちんと確かめるまでは、戦う覚悟を決めきれないというのもまた事実だった。
 そんなイングリットの様子を、とっくに察していたのだろう。グロンダーズに向かう前夜、クロードがイングリットの部屋を訪ねてきた。
「お前は東へ行かない方がいい。そう、先生には伝えるつもりだ」
 いつもとは違い、クロードの声音は重々しかった。イングリットはクロードの言わんとすることを瞬時に理解した。第三勢力はグロンダーズの東から迫っているという情報が、偵察の兵から流れてきていた。
「クロード。それは、命令ですか?」
 イングリットが尋ねると、クロードの表情が曇った。
「……いや。命令じゃない。お前の気持ち次第、だ」
 クロードは珍しく目を伏せながらそう言った。睫毛の下に隠れた翠玉の瞳には、微かに悲しみの色が宿っている。
 クロードの気持ちは痛いほどに伝わった。どのような策においても、犠牲を出さない、を第一信条とする彼らしい思考だろう。イングリットが第三勢力の偵察に行ったとして、それが本当に旧王国軍なら。率いているのが、ディミトリだったら。きっとイングリットは平常心ではいられまい。槍の動きが鈍る可能性は十分にある。そうなれば、敵を倒すどころか、自分の身さえ守れなくなる。
 そんなことは、自分でも十二分に理解していた。イングリットはクロードに若干の罪悪感を抱きながらも、首を横に振った。
「なら、行かせてください。私は……確かめなくては」
「イングリット……」
 クロードはなおも何か言いたそうにしていたが、「先生に伝えておく」とだけ言い残し、部屋から出て行った。
 ごめんなさい、クロード。イングリットは心の中で謝った。
 彼が自分の身を一番に案じてくれたのは、心の底から嬉しかった。けれどもこればかりは譲れなかった。東へ行った誰かから報告だけを聞いて全てを終わらせるなんて、とてもできない。本当にディミトリが生きているのなら、彼が何を思ってグロンダーズへ来たのか、確かめなければならない。彼を幼い頃から見てきて、彼の騎士になりたかった者として。
「殿下……あなたなのですか? 本当に……」
 イングリットは窓から闇色の空を見上げ、呟いた。
 覚悟はまだ、決まらないまま。


 ――ブレーダッドの軍旗を掲げた軍勢の先頭に立っていたのは、果たしてディミトリその人だった。
 行かない方がいい、と先生には告げられたが、イングリットは頑として首を縦に振らなかった。天馬を飛ばし、イングリットは誰よりも早く東へと進軍した。途中、馴染みの顔をいくつか見つけたが、イングリットはなるべく視界に入れないようにしながら、真っ直ぐにディミトリの所へ向かった。
 遠目からようやくその姿を見つけたイングリットは、あまりの惨状に言葉を失った。
 今のディミトリは、イングリットの知るディミトリではなかった。右目は眼帯で隠され、左目にはただ闇ばかりが沈殿していた。残虐極まりない言葉を放ちながらアラドヴァルを操り、人々を容赦なく刺し殺していく姿は、さながら修羅のようであった。
「殿下!」
 イングリットが声を上げると、ディミトリは気付いたらしく空を見上げた。だが、イングリットを見つめる瞳に、かつての優しい光はなかった。
 イングリットはその場に降り立つと、ディミトリと正面から相対した。
「殿下……あなたは、何故……」
 問いかけたその時、ディミトリの冷酷な声がイングリットを貫いた。
「イングリット、お前は祖国を捨ててクロードの下にくだったのか」
 イングリットは硬直した。呼吸ができなくなる。
 ディミトリはアラドヴァルの切っ先をイングリットに向けた。
「ここに来たのは何故だ。俺の邪魔をするのか。俺の前に立ち塞がるのか」
「殿下、っ、聞いてください、私は!」
 喉に絡みつく何かを振り払うように、必死に声を上げる。だが、その声も、ディミトリには届いていないようだった。
「邪魔をするなら、殺す!」
 アラドヴァルが宙を舞う。ディミトリが突進してくる。
 大地に折り重なった血塗れの兵士達と同じように、自分もディミトリに貫かれて死ぬ――その予感は確かにあったというのに、イングリットは動けなかった。イングリットのまなじりに一粒の涙が浮かぶ。戦う覚悟もなければ、死ぬ覚悟もなかったことに気付いた。死にたくない。だが身体が動かない。
 ディミトリの咆哮が聞こえる。刹那、アラドヴァルを振りかぶる姿が見えた。
「イングリット!!」
 誰かが自分を呼ぶ声がした。
 一瞬目を伏せ、再び視線を上げたイングリットの目の前に飛び込んできたのは、自分を庇って前に出たクロードの姿だった。
「あ……クロー、ド……?」
 しばらく呆然としていたイングリットは、彼の右肩にかけられた黒いマントに朱色が滲んでいるのを見て、一瞬で我に返った。
「クロード! どうして……」
 なおもアラドヴァルを振り回そうとするディミトリに対し、クロードは怯むことなく動いた。即座に飛竜を操り距離を取ると、フェイルノートの一撃を放つ。その矢はディミトリの手を掠め、ディミトリはくっ、と小さく吐き捨てて動きを止めた。
「イングリット!」
 鋭い声に呼応して、イングリットも天馬の手綱を引いた。ディミトリからある程度の距離を取った後、クロードはディミトリに向かって声を荒げた。
「ディミトリ、イングリットはお前の幼なじみだろう、その相手にまで槍を向けるのか! お前の敵は誰だ、正気に戻れ、ディミトリ!」
 だが、ディミトリは全く意に介さない様子だった。先程までの勢いはないまでも、ゆっくりと歩を進め、じりじりと距離を詰めてくる。
「俺の邪魔をするなら……何であろうと殺す。エーデルガルトの首を斬るまで、俺は……」
「くっ、言葉は通じない、か……」
 クロードは肩の傷を少し庇うような仕草を見せた後、イングリットの方を振り返り、短く告げた。
「イングリット、お前は退け」
「そんな……あなたを残しては退けません!」
 クロードの強さは知っているが、手負いの状態で勝つのは厳しいに決まっている。だが、昨夜と違い、クロードの瞳の色が揺らぐことはなかった。ゆっくりと首を横に振る。
「お前にはまだ覚悟がない。だから、退け。このままじゃ足手まといだ」
「あ……」
 イングリットは今の自分が、どうしようもなく役立たずなことをようやく自覚した。
 クロードや先生の再三の忠告もきかず、一人で突っ走った挙げ句、ディミトリの攻撃から身を守ることもできず、クロードに庇ってもらってようやく命を繋いでいる。グロンダーズに来てから、自分は何もしていない。他の者たちは覚悟を決めて戦っているにもかかわらず、だ。
 謝罪の言葉を紡ごうとしたその時、クロードの瞳が僅かに陰った。昨夜見せた、あの悲しみの表情と同じものだった。
「本当は、お前に覚悟なんて、決めさせたくなかった」
 悲しみの色は、しかし一瞬にして消え去る。クロードは真摯な瞳でもって、イングリットと向かい合った。
「お前は、確かに王国の人間だ。だが、あの時、ガルグ=マクに来てくれた時点で、俺は仲間だと思っている。お前を殺そうとする奴がいるなら、相手が誰であろうと、俺は容赦なく刃を向ける。俺にはその覚悟がある」
 イングリットは思わず息を呑んだ。
 彼の覚悟がどれほど重いものであるか、今のイングリットには痛いほどに分かる。仲間の犠牲を厭い、常に全員が生きる道を考えるクロード。彼が犠牲を厭うのは、何も同盟軍の仲間ばかりではない。かつて同じ時を過ごした学友たちを手に掛ける時、密かに顔を歪めていることを、イングリットは知っていた。その彼が、仲間のためならば、人殺しも厭わないと言っているのだ。イングリットなどとは比べものにならない覚悟が、そこにはあった。変わり果てたディミトリを見ても、彼に殺される寸前になっても、なお覚悟を決めきれなかった自分がどれほど情けない人間かなど、考えたくもない。
「あああああ!!」
 ディミトリの咆哮が響き渡る。アラドヴァルの一薙ぎを躱しながら、クロードは二度、三度と容赦なくフェイルノートの矢を放った。一つはアラドヴァルを握る右手の甲を。もう一つは左肩を。――そしてもう一つは、脇腹を。
「ぐ、っぁああ……!!」
 断末魔の声が大地を揺るがす。ディミトリは脇腹を庇いながら数歩歩いた後、血を吐きながら、自分が刺し殺した兵士の上へと倒れ込んだ。


 クロードがその場所へと降り立ち、イングリットもその傍らに並ぶ。ディミトリは血の海に沈んで動かなくなっていた。だが僅かに肩が上下している。息はあるらしい。
 クロードは振り返らないまま、イングリットに向けて声を上げた。
「……行くぞ、イングリット。それとも、ディミトリに寄り添ってやるか。かつての同胞として」
 数秒の沈黙の後、イングリットははっきりと答えた。
「いいえ」
 重い覚悟を決めたクロードの背を見つめている間に、イングリットの覚悟も決まっていた。クロードがそれを確かめるかのように振り返る。彼の瞳から逃げることなく、イングリットは真っ直ぐに見つめ返した。
「私の思いは決まりました。私の命は、あなたに助けられた。あなたは、こんな私を仲間だと言ってくれた。それが、全てです」
「イングリット」
 クロードがそれでいいのか、と視線で問うてくる。イングリットは一切の迷いなく頷いた。
 彼がいなければ、今頃自分は血の海に沈んでいた。たとえ死ななかったとしても、無傷でここに立っていることは不可能だっただろう。彼の“覚悟”に、自分は救われたのだ。
 ならば、自分のすべきことは決まっている。自分の命を救ってくれた、クロードの恩に報いる。自分を仲間と言ってくれた、クロードの思いに応える。たとえ祖国の人間を敵に回しても、かつての学友と戦うことになっても。
 それが、イングリットの“覚悟”だった。
 しばらくお互いに見つめ合った後――クロードは帝国軍のいる西の方角を向くと、再びイングリットに声をかけた。
「行くぞ、イングリット。絶対に、死ぬなよ」
 クロードの思いが詰まった言葉に、改めて嬉しさが込み上げる。彼の思いに応えねば、と思う気持ちが、一層強くなった。
「はい。生きて戻りましょう、必ず」
 自分なりの覚悟を込めた口調で答えながら、イングリットも彼と同じ方角を見つめる。
 ふっ、とクロードの口から安堵の溜息が洩れた。
(2019.10.5)
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