微睡む君に

 授業が終わり、食堂で夕食を食べ終えた後も、クロードは書庫にこもりきりになっていた。
 ガルグ=マクの書庫には、セイロス教の教義や成り立ちについて書かれた本はもちろんのこと、フォドラ中の歴史書、各国の風俗や文化について書かれた資料、騎士道物語などが多数置かれている。だが、クロードが真に欲する歴史の真実について書かれた本に関しては、なかなかお目にかかることができなかった。セイロス教の教義に反する本や、語り継がれる伝説とは違う内容の学説が書かれている本などは、見つけ次第セテスが処分しているという噂もある。
「これも、特に目新しい話はなし……か」
 一冊一冊棚の本を手にとって調べながら、クロードは書庫の本のあまりの膨大さに溜息をついた。
 ふと気付いて壁の掛け時計を見ると、門限が迫っていた。今日はここまでか、と棚に本を戻す。そのまま書庫を去りかけたその時、クロードは自分の他にもう一人、書庫に残っていた生徒がいることに気付いた。先日、ここで先生に学びたいことがある、と言って金鹿の学級ヒルシュクラッセに移ってきた女生徒だ。木の椅子に腰掛け、熱心に分厚い本を読みふけっている。
 クロードは彼女に近づき声を掛けた。
「よう、イングリット。随分熱心だな」
 イングリットは驚いたように肩を震わせ、はっとしてクロードを見上げた。よ、ともう一度手を上げながら挨拶をすると、彼女はようやくクロードを認識したらしく、肩の力を抜いた。
「ああ、クロード……あなたでしたか」
「驚かせちまったか? 悪いな。お前もこんな時間まで残ってるとは思わなかった」
 えっ、とイングリットは驚いた様子で掛け時計を見た。寮に戻る門限が迫っているのにようやく気付いたらしく、慌てたように立ち上がる。
 その時、テーブルが揺れた勢いで、重ねてあった本がばさばさと床に落ちた。急いで拾おうとしゃがむイングリットと一緒に、クロードもしゃがんで本を拾ってやった。
「すみません、クロード」
「そんなに慌てなくてもいいって。今から出たら十分間に合うしな」
 笑って本を返してやると、イングリットは安堵したように幾分か表情を和らげた。
「何を読んでたんだ?」
 棚に本を戻すイングリットを見ながら尋ねる。ええと、と珍しくイングリットが言いよどんだ。
「その、レスター諸侯同盟の風俗や文化、などを」
「へえ。興味があるのか?」
「興味……といいますか。金鹿の学級ヒルシュクラッセに移ったからには、ある程度勉強しておかないと失礼かと思って」
 なるほどね、とクロードは微笑んだ。
 実に勤勉で真面目な彼女らしい思考だと思う。郷に入っては郷に従え、ということだ。クロードも含め、この学級の生徒達が特にそういうことを気にする質とは思えないが、彼女の気が済むか済まないかという問題なのだろう。
 イングリットが本を返し終えるのを確認してから、二人は書庫を出た。


 一階へ下り、大広間を出て士官学校の北の道を通りながら、クロードはふと夜空を見上げた。日中爽やかな晴れ模様だった空は、夜になっても雲一つなく、鮮やかな黄色の三日月と、満天の星が広がっていた。
「クロード?」
 星空に夢中になるあまり、足を止めていたらしい。少し先を歩いていたイングリットが、怪訝そうな顔で振り返っていた。
「見てみろよ、空」
 クロードが天を指すと、イングリットもつられるように見上げる。直後、イングリットの口から感嘆の溜息が洩れた。少し口を開けたまま、濃紺の空に広がる星達を食い入るように見つめている。
 そんなイングリットを微笑ましい目で見つめながら、クロードは首の後ろで手を組んだ。
「ちょっと見て行かないか? せっかくなんだしさ」
「でも、門限が……」
 我に返って躊躇いを見せるイングリットの背を、いいから、とクロードは軽く押す。
「敷地内から出るわけじゃなし。見つかったらすみませんでしたって戻ればいいだけだ」
「そんな、あなたはそうやっていつも……」
 真面目な彼女は微かに抵抗の素振りを見せたが、クロードは有無を言わせず勢いで押し切って、近くにあったベンチに座るよう促し、自身も隣に座った。
 日中とは打って変わって、門限前のガルグ=マクは静まり返っていた。見張りの兵や夜の礼拝を終えた修道士の姿もなくはないが、彼らはほぼ無言のまま自分の目的を果たすのみで、生徒達のように無駄に騒ぎ立てたりはしない。そのおかげで、二人は思う存分星空を堪能することができた。
「綺麗ですね……こんな綺麗な星空を見たのは久しぶりです」
 先程の抵抗の色はどこへやら、イングリットの瞳は少女のように煌めいていた。
「確かにな。俺もこんなにゆっくり空を見上げるのは久しぶりだ」
 ベンチの背もたれに身体を預けて、クロードは濃紺の空を見つめた。
 幼い頃、クロードは星空を見るのが好きだった。強い人間になれと、父親に馬で引き回されて泣いた時も、同年代の子ども達に異物扱いされて悲しみに暮れた時も、美しい星空を見ると徐々に心が癒された。
 無限に広がる星空を見ていると、母の故郷フォドラに思いを馳せることもできた。自分の身体には二つの血が流れている。母親の出身地フォドラは、幼いクロード少年にとってはまだ未知の場所だった。異物扱いを受けることはあっても、その血を誇りに思い続けることができたのは、この星空を通じて、フォドラに憧れに似た気持ちを持つことができていたせいかもしれない。
 そのフォドラも憧れそのものの土地とは言い難かったが、だからこそ、クロードは自分の野望を何としても達成しなければならない、との決意を強く固めた。
 そうしてクロードが幼い頃に思いを馳せていると、ふと、左肩に何かがもたれかかってくる感触があった。
 ん、傍らを見るとすぐ、イングリットのブロンドの髪が目に入った。驚いたことに、彼女の口からは感嘆の溜息ではなく、安らかな寝息が洩れ聞こえていた。
 星空を見ているうちに、気が緩んでしまったのだろうか。彼女が人前で寝る姿など一度も見たことがなかったクロードにとって、その光景は新鮮そのものだった。
「……疲れてたんだな」
 今日のイングリットは、昼間の授業も当然真面目に受け、夕食後も門限ぎりぎりまで書庫の本を熱心に読んでいた。更にクロードは、授業後から夕食までの間、彼女が訓練場で鍛錬に励む姿を見かけたことを思い出した。一体いつ休んでいるのかと、心配になるほどだったのだ。先程レスター諸侯同盟の風俗や文化を学ぼうとしていたように、この学級に移ってからというもの、彼女なりに馴染まなければと気が張っていたのかもしれない。
 真正面から見ることはかなわなかったが、彼女の寝顔はとても安らかなものだった。クロードと話をする時は大概皺が寄っている眉間も、引き締められた頬も、真一文字に結ばれた唇も、全てが柔らかく緩んでいた。顔は可愛いのに、と評した自分の見立てが間違っていなかったことを確信する。
「いつもこんな可愛い顔してりゃ、そこら中の男が放っておかないだろうにな」
 そう呟いた後で、『クロード!』と怒鳴る彼女の声が聞こえた気がして、クロードは思わず苦笑した。
「……ほんと、こんな可愛いのに、な」
 無意識に彼女の前髪を払おうと手を伸ばしかけ、いやいや、と我に返る。いつもは彼女に素行を改めるよう怒鳴られる立場だが、さすがにその分別はあった。
 とはいえこのままで朝を迎えるわけにもいかず、クロードは軽く彼女の肩を叩いた。
「イングリット、おい、イングリット。気持ちは分かるが、こんなところで寝たら風邪引くぞ」
「……ぅう、ん……」
 微睡みから覚める彼女の声の、あまりの無防備さに、心奪われてしまいそうになる。
 イングリットはゆっくりと瞼を上げ、寝ぼけ眼でクロードを見――その瞬間、余韻を引き裂くような鋭い叫び声が上がった。
 目を大きく見開いて、身体を思い切り引いた彼女は、真っ赤になってクロードを見つめている。
「おはようさん。いい夢、見られたか?」
 クロードが笑いながら言うと、イングリットは顔を真っ赤にしたまま何度も首を横に振った。
「い、今のは、違います、忘れてください!」
「まあ、そう慌てんなよ。すごく気持ち良さそうに寝てたし、起こすか迷ったんだけどな。お前の寝顔、なかなか可愛かったし」
「ク、クロード! それ以上言ったら……!」
「はは。ま、それはともかく」
 羞恥のあまり必死に抗議するイングリットを右手で制し、クロードは少し表情を引き締めた。
「あんまり無理するなよ。俺たちはもう、お前のこと、同じ学級の仲間って思ってんだからさ」
「え……」
 イングリットの口から間の抜けた声が出る。クロードは唇の端に笑みを浮かべた。
「お前が勉強熱心なのはいいことだし、イングリットらしいとも思うけどな。知らないことはこれから少しずつ知っていけばいいし、そんなに根を詰めなくてもいい。心配しなくても、俺も、他の皆も、お前のことはとっくに認めてるんだから」
 強張っていたイングリットの肩の力が、ゆっくりと抜けていったように見えた。はあ、と深い溜息を吐く。それは何かに呆れたり悲しんでいるというより、どちらかというと安堵の溜息のように、クロードの目には映った。
「ありがとうございます、クロード。私、無意識のうちに気を張っていたみたいで……」
「だろうと思った。ま、これからもし何かあったら俺に言えよ。一応級長だから、さ」
 首後ろで手を組みながらクロードがそう言うと、イングリットはようやく表情を緩めた。
「ふふ……そうですね。あなたは普段の言動こそいい加減ですが、人のことはよく見ていますし。きっとあなたのような人こそ、人の上に立つにふさわしい人間なのでしょうね」
「褒められてるのか貶されてるのかわからんが、一応褒められてるって解釈しとくぞ?」
 クロードが尋ねると、イングリットはくすくすと笑いながら頷いた。
 さて帰るか、とベンチから立ち上がり、二人は再び寮への道を歩き出した。訓練場の前を通り、寮の一階を通り過ぎ、二階へ上がったところで、クロードは口を開いた。
「いいか、イングリット。今日はもう何もせずにゆっくり休めよ。明日のためにもな」
「ええ、そのつもりです。お気遣いありがとうございます、クロード」
「それでよし。じゃ、おやすみ」
「はい。おやすみなさい」
 イングリットの部屋の前で手を振って別れ、クロードは廊下を更に奥へ歩いて行く。
 首にかかった彼女のブロンドの髪の感触を、今更のように思い返していた。無意識に首筋を指でなぞる。彼女の柔らかな表情も、安らかな寝息も、微睡みから覚める無防備な声も、はっきりと思い出されてしまって、クロードはやれやれと首を振った。
「眠れないのは俺の方だったりして、な」
 皮肉めかして笑う。
 クロードの長い夜が、今まさに始まろうとしていた。
(2019.10.7)
Page Top