朝の気配に誘われて、クロードは微かに瞼を上げた。
窓から差し込む太陽の光に、一瞬目を細める。半開きの眼にぼんやりと映ったのは、太陽の光と同じ黄金色の髪だった。
次第に目が慣れてきて、クロードは瞼を完全に押し上げる。ぼんやりとしていた輪郭が徐々にはっきりしてきて、クロードの眼前には昨日結婚式を挙げたばかりの愛おしい妻の寝顔が現れた。
イングリットはクロードの方を向いて、安らかな寝息を立てて眠っていた。いつもは引き締まったままの唇も、白い頬も、軽くつり上げられた眉も、全てが柔らかく緩んでいた。
見ているだけで、自然と笑みがこぼれてしまう。同時に昨夜の、普段の彼女からは考えられぬほど乱れた姿が脳裏によぎり、クロードの口から思わずふっ、と笑い声が洩れた。
「やっぱり、俺の見立ては間違ってなかったな」
出会った頃から、可愛い、と思っていた。一度気になってしまえば、眩いブロンドの髪も、若草色の瞳も、訓練場で髪を振り乱して鍛錬に励む姿も、時折見せる明るい笑顔も、全てがクロードの目を惹いた。あの厳しい物言いさえなければ、きっと数多の男から声を掛けられる存在だったろうに、と何度思ったか知れない。
とはいえ、クロードの現在の認識はそれとは少し異なっている。彼女はあの物言いも含めて、全てが可愛いのだ。
かつて彼女の幼なじみから、お前は物好きな奴だな、と言われたことを思い出した。戦時中もガルグ=マクの中で顔を合わせる度に、自分に何かと説教をする彼女の姿を見ていたのだろう。それでも彼女を選んだクロードに、半分意外そうな、半分呆れたような顔をしていた。
「あんなに口うるさく言われて、それでもイングリットがいいってのか」
「ああそうだ。ま、あんまりそればっかりは気が滅入るけどな。ほどほどに説教されてるくらいが、ちょうどいいんだよ」
「ほどほども何も、説教は説教だろ?」
「説教してる間は、俺のことをずっと考えてくれてる、ってことだしな。そう思うと可愛く見えてこないか?」
ついていけない、とばかりに肩を竦める彼を見ながら、クロードは唇の端を歪めて得意げに笑ったのだった。
「ぅ、ん……」
イングリットが微かに身体を動かした。起きるのかと思ったが、彼女はなおも眠ったままだ。はらり、と彼女の顔にかかった髪を、指先で無意識に払う。
ふと、クロードは士官学校時代の出来事を思い出した。確かあれは、彼女が金鹿学級に移ってきてすぐのこと。遅くまで図書室に残っていた彼女と寮へ帰る途中、ベンチに腰掛けて満天の星空を見たのだ。やがてイングリットは疲れていたらしく、自分の肩に寄りかかってうとうとと微睡み始めた。
その時の寝顔も、今のように無防備で可愛らしかった。今と同じように、顔にかかる髪を払おうと、思わず手を伸ばしかけたものの、特別親しいというわけでもないのだからと手を引っ込めてしまったのだった。
あの時はあれで良かったのだ、とクロードは改めて思う。だからこそ、それを躊躇う必要のない間柄になった今が、こんなにも幸せで愛おしい。
髪を払った後のイングリットの額に、クロードは軽く口付けた。
「ぅう、ん……、ん……?」
イングリットの口から小さな声が洩れ、きゅっと眉間に皺が寄る。やがてゆっくりと瞼が上がり、若草色の瞳がぼんやりとクロードを見つめた。クロードは肘をついて、唇の端に笑みを浮かべた。
「おはようさん。良い夢、見られたか?」
確かあの時も、同じようなことを言ったような気がする。
イングリットは何度か大きく瞬きをした後、明らかにうろたえ始めた。クロードが口付けた額に指を沿わせて、視線を忙しなく動かす。
「え、あ、その、クロード、あなた、何故……」
「ん? どうした。夫が妻に口づけちゃいけない決まりでもあったか?」
「いえ、あの、ええと、……あっ……」
クロードの身体を見た後に視線を下に向けたイングリットは、互いに一糸纏わぬ姿で眠っていたことに今更気付いたらしく、頬を赤らめた。クロードは思わず苦笑する。
「おいおい、昨日俺たちが夫婦になったことも忘れたのか?」
「あ……そう、でしたね……その。まだ、慣れなくて……起きてすぐ、状況が掴めなくて」
イングリットは言い訳をしながら、布団の中でもじもじしていた。
そんな姿がたまらなく愛おしく、クロードは腕を伸ばして覆い被さるように抱き締めた。
昨晩感じた彼女の体温が、再び直に伝わってくる。彼女の普段より速い鼓動も。
「やっぱり可愛いな、俺のイングリットは」
「な、何を言っているのですか、クロード……」
「いや、何をも何も、思ったままを言っただけだ。それとも可愛いって言われるのは嫌か?」
イングリットは頬を赤らめたまま俯いた。
「その……今までそんなこと、あまり言われたことがなくて……どんな顔をしていいのか、わからないのです……」
初心な反応があまりにも可愛すぎる。今にも爆発しそうな愛おしさをどうにか抑えて、クロードはわざと溜息をついた。
「おいおい、俺はこれまでも結構言ってきたつもりでいたんだがな」
「で、でも。あなた以外の人には言われたことがなくて……素直に受け取ってもいいものか……」
なおも躊躇った様子のイングリットに、クロードは笑いかけた。
「いいんだ。俺が可愛いって言ってるんだから、イングリットは可愛いんだよ」
そろそろと顔を上げたイングリットと視線が合う。イングリットはしばらく緊張した面持ちでいたが、やがて小さく息を吐いて、頬を緩めた。
「本当は……嬉しいのです。でも、今までの癖なのでしょうね。素直に嬉しいと思う気持ちを、無意識に抑えつけてしまう自分がいて」
「自分に自分で呪いをかけてるようなもんだな」
「呪い……そうかもしれません」
イングリットが頷く。
クロードはイングリットの耳元に唇を寄せ、軽く息を吹きかけた。くすぐったそうにして反射的に逃げようとするイングリットをしっかりと捉えつつ、囁くように言う。
「なら、俺がずっと『可愛い』って言い続けてやる。お前の呪いが解けるまで、いや、それからもずっと。それでいいか?」
イングリットは肩を震わせた。
やがて、その口からふふ、と笑い声が洩れる。
「良いのですか? そんな約束をして。あなたの妻となっても、私そのものはあまり変わらないと思います。これまで通り、あなたに口うるさく言うこともあるでしょうし、他の女性と比べて、着飾ることもほとんどないでしょうし……それでもですか?」
「ああ、それでもだ。俺はお前に惚れてる。惚れた女は、何をしてても可愛いって思えるものなんだよ」
クロードが恥ずかしげもなく言い切ると、イングリットが頬を赤らめた。
「もう……そんな恥ずかしいこと、よく平然と言えますね」
「恥ずかしいも何も、思ったままを言っているだけだからな」
表情も調子も変えないクロードを見て、イングリットはくすくすと笑った。
「でしたら私も、あなたの言葉を素直に嬉しいと思えるように努力します」
「ああ。是非そうしてくれ」
互いに微笑み、どちらからともなく口づけを交わす。
唇から伝わるイングリットの熱が、クロードの胸を焦がす。ずっと触れていたいとすら思った。食むようにして唇を求める度に、小さな水音が鼓膜を震わせる。そうして互いを求め合う感覚が、たまらなく心地よかった。
呼吸を忘れるほどに口づけを繰り返した後、イングリットは頬を紅潮させながらも清々しい笑みを浮かべていた。
「これからも、よろしくお願いします。クロード」
「ああ、こちらこそ」
クロードも笑って、今度は額を重ね合わせた。