せめて、この一時だけ

 聖女ラトナの祈りに抱かれた国――それがロストン聖教国である。その南には峰火山ネレラス、西には魔王が封じられた伝説の残る毒霧深き闇の樹海が存在する。
 一行はネレラスを越え、聖王女ラーチェルの案内でロストンの宮殿に訪れていた。ロストンにはまだ、最後の光石が残っている。ルネスの光石が砕かれた今、一行は最後に残された希望――ロストンの光石の力に縋るほかないのであった。
 戦の元凶となった魔王は闇の樹海に居る。親友リオンを失うことを恐れる気持ちと、戦を終わらせたいと願う気持ちとで板挟みになった双子を気遣い、ラーチェルは休息を取ることを提案した。その提案は受け入れられ、一行はロストン宮殿にて疲労した身体を癒すことにしたのだった。


 ターナはロストン宮殿にて宛がわれた部屋に一人でいた。誰かに会いに行きたいとも思ったが、エフラムやエイリークはあの通りの状態だし、兄ヒーニアスも何かと忙しそうにしているから、邪魔は出来ない。
 窓辺に行き、外を眺めてため息をついた。宮殿下に広がる街並みから徐々に奥へ視線を移すと、毒々しい雰囲気の渦巻く樹海が目に入った。これからあの場所に行かねばならないと思うと、寒気が走った。遠くから眺めているだけのはずなのに、まるであの樹海が胸の前まで迫ってきたかのような感覚に陥り、ターナは慌てて視線を逸らした。
 視線を逸らした先には、偶然にも厩舎があった。ターナの愛馬アキオスも、今はあそこで過ごしているはずである。先程別れてきたばかりだが、アキオスも随分落ち着かない様子であった。この不穏な雰囲気を、何よりも鋭く感じ取っているのだろう。
「……あっ」
 そのとき、ターナは厩舎に現れた人物を見て声を上げた。褐色の肌に、鋭い目つきをした強面の男。ここからでは表情を窺うことはできないが、深緑の鱗を持つ竜に触れている様子である。
「クーガー……」
 人物の名を呟いた直後、考えるより先にターナは部屋を飛び出していた。
 幼い頃より、父や兄から廊下を走るなと口を酸っぱくして言われたが、今はその忠告を思い出す余裕もなかった。不案内なせいで幾度か迷ったが、廊下を巡回している兵士に道を尋ね、ようやく厩舎まで辿り着くことが出来た。
 息は上がっていたが、ターナは躊躇いなく厩舎に踏み込んだ。クーガーはその足音に気付いて顔を上げ、ターナの顔を見て更に驚いた表情をした。
「姫、一体どうしたんだ」
「あなたに会いたかったの、クーガー」
 ターナの言葉を聞いて、クーガーは幾分か安堵したようだった。ターナがあまりに急いだ様子だったから、嫌な予感がしていたのだろう。
 片手で竜の首筋を撫でながら、クーガーは小さくため息をついた。
「こいつも、不安がっているみたいだ。嫌な雰囲気を感じ取っているんだろうな」
 クーガーの竜ゲネルーガは大人しくしていたが、時折グルルと唸り声を上げていた。アキオスと同じく、動物の勘が働いているのだろう。
 ターナはクーガーの顔を見ながら尋ねた。
「クーガーは、不安じゃないの?」
「俺か。不安ではない、と言ったら嘘になるが――」
 遠くを見ていたクーガーは、ターナに視線を戻して続けた。
「姫の方が、不安なんじゃないか。姫はルネスの王子、王女と仲が良いんだろう」
「それは……」
 言い当てられて、ターナは目を伏せる。親友たちの力になってあげられないのは、ターナとて辛いことだった。ターナが言葉を尽くしたところで、彼らは元気を取り戻してくれるだろうか――そう思うせいで、ターナは彼らの部屋を訪ねられないでいるのだった。
 だが不安なことは、もう一つあった。ターナは躊躇いながら、その問いを口にした。
「ねえクーガー、あなたはどうするの? この戦が終わったら」
 戦が終わった後のことを考えるなんて早すぎるかもしれない。まだこの戦が無事に終わるかどうかすら分からないのにだ。だが、聞かずにはおれなかった。戦場で共に行動してきた仲間が、今後どうするつもりなのか。
 大抵の者たちは、故郷に帰ることになるだろう。だがクーガーは一度故郷を失っている。敬うべき主君を失い、国を失い、彼は一体どこに身を置くつもりなのであろうか。ターナは気がかりだった。彼の目に時折寂しげな色が宿ることを知っていたから、なおさらだった。
 クーガーは少しばかり俯いて考えていたが、ぽつぽつと呟くように話し出した。
「俺か。俺は……そうだな。まずはグラドの復興に手を貸すつもりだ」
「そ、それから?」
「それからのことは考えていない。もうグラドに居ることもないだろう」
 裏切り者だから、グラドにいることはできない。それがクーガーの出した答えだった。
 ターナは途端に不安に駆られた。彼がどこかに定住するつもりはないと断言していることが気がかりだったのももちろんある。だが、それだけではなかった。戦が終われば、皆離れ離れになる。無論、このクーガーも例外ではないのだ。そのことに気付くのが恐ろしくて考えないようにしていたが、改めて突きつけられると、心に冷たい氷塊が落ちたような気持ちになった。
 このクーガーという騎士に特に信頼を置き、行動を共にしてきた時間が長いこともあって、ターナは彼に仲間以上の感情を抱いていた。
 彼は誰よりも早く木々の合間から覗く鋭い矢尻を発見し、何度もターナに注意を促してくれた。ターナを庇って傷を負ったことも一度や二度ではない。その度に申し訳ない気持ちになり、あまりに心配ゆえ、治療をしてくれている衛生兵と共に、クーガーの傷が和らぐまで寄り添うことも多々あった。兄のヒーニアスはそれを見るたび不快そうに顔をしかめたが、兄の顔色を窺うことよりも、クーガーの体調を案ずる気持ちの方が勝った。いつしかターナは、彼が側にいないと不安を感じるまでになっていた。
 彼はあくまで仲間を守るという一心で、ターナの側にいて気遣ってくれるだけなのかもしれない。それは分かっていた。分かっていたが、それ以上を求める気持ちがないではなかった。ターナにとってクーガーが特別であるように、クーガーにとってもターナが特別な存在であればいいのにと願ったのだ。
「――姫? 姫、どうした?」
 クーガーの呼びかけに、はっと我に返る。どうやら考えすぎて、いつの間にか黙り込んでしまっていたようだ。
「いいえ、なんでも、ないの」
 かぶりを振った。思いばかりが心から洪水のように溢れ出していて、そう言うのが精一杯だった。
 するとクーガーはほっとため息をつき、ゲネルーガの方に向き直った。何度か頭を撫でてやった後、今度はターナの方に向き直る。
「じゃあ、俺は部屋に戻る。また後でな、姫さん」
 ターナの横をすり抜け、クーガーは厩舎を出て行こうとした。


 その途端はっとなって、ターナは身体を翻した。クーガーの背が遠ざかっていく。自分の側から永遠に彼がいなくなってしまうような気がして、急に恐ろしくなった。
「クーガー、待って!」
 言葉と同時に、身体が動いていた。ターナの声に反応して、クーガーが振り返る。と同時に、ターナはクーガーの胸の中に飛び込んでいた。
「姫、いったいどうし――」
「クーガー、行かないで、お願い! どこにも、行かないで……」
 クーガーの背に回した手で、服をぎゅっと握りしめる。まるで決して逃さないとでも言わんばかりに。そうでもしなければ、自分の元からクーガーが永遠に去ってしまうような、そんな気さえしていた。
 せめてこの一時だけでも、自分と一緒にいてほしい。ターナはそう強く願った。こうして身体を密着させている間、ターナはそこにクーガーがいると感じることができる。何があっても離したくないと、ターナはいっそう強くクーガーの服を握りしめた。
 クーガーは戸惑った様子で、胸元に顔を押しつけるターナを見つめていた。


 しばらくした後、ターナは自分がしていることがいかに恥ずかしいかということに気付いた。慌ててクーガーから離れ、乱れた髪をなでつける。
「ご、ごめんなさい」
「いや……」
 謝った後もクーガーから戸惑いの視線を向けられ、ターナは赤面した。穴があったら入りたいと強く思ったのは、これが初めてだった。
「ごめんなさい、わたし……少し、おかしかったみたい」
 笑うような気分ではなかったが、ターナは無理矢理唇の端を上げて笑顔を作った。自分を笑い飛ばすことができれば、少しは気が楽になるのではないかと思った。
「変よね、わたし、クーガーがここからいなくなっちゃうなんて思ったの。クーガーが、わたしの側から離れていっちゃうって……」
 その瞬間、視界がぼやけた。うそ、とターナは口の中で独り言を洩らす。目尻の辺りに触れると、温い水がまとわりついた。
 まさか、泣いてしまうだなんて――クーガーはきっと驚いていることだろう。ターナが勝手にクーガーに抱きついて、勝手に泣き始めているのだから。
 その時、ターナの頭の上にぽん、と優しく手が置かれた。ターナが驚いて顔を上げると、クーガーが自分をじっと見つめていた。その瞳は優しい光に満ちていた。
「姫、泣かないでくれ。俺はどこにも行かない。少なくとも、戦が終わるまでは」
 ターナの目から、新しい涙が溢れた。
「これまでも、ずっと一緒にいたんだ。俺が姫の側を離れる理由がない」
「クーガー……」
 その言葉が嬉しくてたまらなかった。
 ターナはもう一度、クーガーの胸に顔を押しつけていた。今度はクーガーも戸惑うことなく、優しく受け止めてくれた。
 止めどなく溢れる涙を見られぬように、ターナは更に強く顔を押しつけた。直接彼の身体の温もりを感じることで、安堵する自分に気がついた。
「クーガー、お願い。いなくならないで。約束よ」
 強い口調で、釘を刺すように言う。一呼吸置いて、ああ、と低い声が返ってくる。
「姫がそう言うのなら」
 ターナは顔を上げて、クーガーに向かって幸せそうに微笑んだ。
 クーガーへの気持ちを何と呼ぶべきなのか、ターナには分からない。だが、胸に溢れるこの温かい気持ちを、ターナは知っている。種類は違うのかもしれない、けれど、同じだ。父や兄、親友たちに向けるこの思いと、同じ温かさ。
「好きよ」
 ――彼の心が、自分と同じ温かさで満ちていることを願いながら。
(2009.12.3)
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