「姫。明日、何か予定はあるのか」
クーガーにそう尋ねられたのが、前日のこと。
クーガーがそんなことを訊いてくるのは珍しいので、ターナは初め怪訝そうな顔をした。
「どうして?」
「明日、姫を連れて行きたい場所がある」
ターナの心臓が高鳴った。様々な思考が頭の中を巡る。しかし躊躇いもなく、ターナはこくりと頷いていた。
「ええ、いいわよ」
「そうか、良かった」
クーガーは微かに頬を緩めた。それがたとえよく見なければ分からない類のものであっても、クーガーが笑顔になるなんて珍しい――ターナはますます疑問を募らせた。
短く別れの挨拶をして去っていく彼の後ろ姿を見ながら、ターナは期待と不安で胸がいっぱいになった。彼は一体何のために、どこへ連れて行くというのだろうか。考えようにもその材料が足りず、ターナの思考は疑問と疑問の間を行ったり来たりした。
放浪の旅に出た彼をやっとの思いで捜し出し、フレリアの騎士として迎えたのがちょうど一年前。暖かい風が春の訪れを知らせる頃のことだった。もう誰かに仕える気はない、と拒むクーガーを、何日もかけて説得した。自分がどれほどクーガーを必要としているか、クーガーという人間が、騎士としていかに優れているか――自分はそれほどの器の人間ではない、と卑下するクーガーを説得するのは骨が折れたが、ターナは決して諦めなかった。その熱意が伝わったのか、クーガーはやっと折れ、騎士としてフレリアに仕えることとなった。父のヘイデンや兄のヒーニアスは初め良い顔をしなかったが、ターナが時間をかけて説得することで、彼は無事騎士団に迎えられた。
彼はターナの側近となり、以来毎日ターナの傍にいる。彼の傍にいられること、彼が傍にいてくれること、それがターナの何よりの幸せだった。彼にほのかな恋情を抱いていたものの、引き留めることができず旅に出る彼を見ていることしかできなかったあの頃を、ターナは時折懐かしく思い出すことがある。自分は、本当に子供だったのだと。
現在、こうして彼といる時間が増えたことで、ターナの想いはますます膨らんだ。クーガーの一挙一動に心を躍らせたり落ち込んでしまう自分が、恋をしていないはずなどなかった。
だが、その想いを直接伝えたことはない。彼がそういった類の感情を自分に抱いているかどうか、そもそも彼がそのような感情を抱くことがあるのかどうかすら不明だったし、何より言葉にして伝えることで、彼が自分から去って行ってしまうのではないかという危惧があった。臆病なターナ。時折そう思って自分を責めたが、自分もフレリアの姫としての立場がある以上、迂闊な行動は取れないのだった。
それでも、精一杯の想いを込めて先月、手作りのチョコレートを渡した。その日が恋する女性にとって特別な日であることを、流行に敏感なターナは無論知っていた。クーガーは初め驚いていたが、ターナの想いを込めたチョコレートを受け取ってくれた。彼はその行事に込められた意味や想いを知らない。だがそれでもいい、と思った。彼に受け取ってもらえただけで、ターナの心には幸せが満ちていた。
その彼が、明日、自分をどこかに連れ出そうとしている。彼が自分からターナを誘うのは初めてのことだった。
期待と不安で眠れそうになかったが、明日に響くといけないと、ターナはベッドの中で無理矢理目を閉じた。
次の日の朝。朝食の後厩舎に行くと、アキオスが嬉しそうにいなないた。ここのところ城内の行事で忙しく、なかなか構ってやることが出来なかった。
「アキオス、久しぶり。構ってあげられなくてごめんね」
アキオスの頭を撫でると、アキオスは一層嬉しそうに声を上げ、首を伸ばした。アキオスを撫でながら振り返ると、そこには黒い鱗を持つ大きな竜の姿。クーガーの相棒、ゲネルーガである。ゲネルーガがターナの視線に気付いたのか顔を上げたので、ターナはにこりと笑い言葉をかけた。
「ゲネルーガも久しぶりね。元気にしていた?」
ゲネルーガはそれに応えるようにグルル、と低い声を出した。クーガーが慣れるまで三年もかかったという竜だが、何故かターナにはすんなりと心を許してくれていた。
「姫、ここにいたのか」
声がして、ターナは振り返る。その声と褐色の肌で、誰なのかはすぐに分かった。
「今来た所よ、クーガー」
「そうか、良かった。それじゃ、早速だが行くか」
「ええ」
互いの相棒を連れ、厩舎を出る。久しぶりにアキオスの背に跨り手綱を取ると、懐かしい感覚が蘇ってきた。クーガーは慣れた様子でゲネルーガの背に跨り、すぐに飛び立つ。少し遅れて、ターナも天空へと飛び立った。風を切る感覚は久しぶりで、心地よくターナの頬を叩いた。
「ねえ、クーガー。どこへ行くつもりなの?」
「歩いて行けば遠いが、俺たちならすぐに行ける場所だ」
場所の名前は言わない。ターナはクーガーの隣に並びながら、彼の横顔を見る。
「とりあえず、あなたについていけばいいのね?」
「ああ」
クーガーは微かに頷く。ターナはそれ以上詮索するのをやめ、前を向いた。これからその場所に向かうことは間違いないのだから、あれこれ詮索するのは野暮だろうと判断した結果だった。
上空から見下ろすフレリアの景色は美しい。いつもたくさんの人々で賑わっている、赤レンガが特徴の城下町。穏やかな時間の流れる、緑豊かな村々。せせらぎがここまで聞こえてきそうなくらい澄み切った清流。ターナは自分の国を心から愛していた。ちら、とクーガーの横顔へ視線をやる。彼もこの国を気に入ってくれているといいのに、と密かに願った。常に隣にいるのに、彼の本心を窺えないこの関係が、ひどくもどかしかった。
やがて、クーガーがある一点を指差した。ターナがそちらへ視線をやると、緑一面の小高い丘が見えた。
「あそこだ、姫。もう少しで下りるぞ」
「ええ、分かったわ」
目的地を確認した後、ターナはそこを目がけて下りて行った。一瞬だけ後ろを振り返り、フレリア城からだいぶ遠くへ来てしまったことを確認する。自分とクーガーは天馬や飛竜に乗っていたからすぐだったが、確かに歩いてくることは難しい場所だろう。
しかし、大して何かがあるような丘にも見えなかったが、クーガーは何を考えているのだろうか。怪訝な思いを募らせながら、ターナは丘へと降り立った。
「ねえ、クーガー。ここには一体何があるの?」
手綱を引いてアキオスの隣に立ちながら尋ねる。クーガーはゲネルーガをその場に待たせると、無言で歩き出した。ターナも焦って、アキオスの手綱から手を離し彼の背を追った。
「クーガー――」
再び彼に問いかけようとしたその時、クーガーが急に立ち止まった。きゃ、と悲鳴を上げて、彼の広い背にぶつかる。クーガーは後ろを振り向いた。
「すまない、姫。怪我はないか」
「い、いいえ、大丈夫よ。それより、ここには何が――」
「姫、これを見てくれ」
クーガーはそう言って横へずれた。ターナは彼の背が覆い隠していた景色を見つめ、はっと息を呑んだ。
そこには、フレリアの美しい景色があった。上空から見下ろすよりもはるかに鮮明で、身近な風景。緑の木々がさやさやと揺れ、茶や緑の屋根の家が建ち並ぶ村が遠くに見える。もう少し視線を伸ばせば、フレリア城がおぼろげではあるが見え、圧倒的な存在感を誇示していた。
「綺麗……」
ターナが思わず感嘆の溜息をつくと、隣のクーガーも同意するように頷いた。
「そうだろう。巡回をしていた時、たまたま見つけてな。姫さんに見せてやりたかったんだ」
ターナの顔に幸せな表情が宿る。クーガーの方を向き、礼を言った。
「ありがとう、クーガー。とっても嬉しいわ」
「喜んでもらえたなら、良かった」
クーガーは微かに頬を緩め、頷いた。その笑顔を見られたのも嬉しくて、ターナは心臓の高鳴りと無上の幸せを感じていた。彼が、自分のためにここまでしてくれた。今まで自分から働きかけることはあっても、クーガーの側から働きかけてくることはなかったから、余計に嬉しかったのだ。
「俺はよく知らなかったんだが……今日はホワイトデー、とかいう日らしいな」
突然クーガーの口から思いがけない単語が飛び出し、ターナは目を見開く。
「クーガー、それをどこで?」
「いや、ここのところ街が随分賑やかだったからな。その辺の奴に訊いてみたんだ」
クーガーは一旦言葉を切り、ターナの方を見た。
「バレンタインデーのお返しをする日なんだろう? 一ヶ月前、俺も姫さんにチョコレートをもらったのを思い出してな。お返しとやらを考えてみたんだが……こういうものしか、思い浮かばなかった」
ターナは思わず口を覆っていた。今日彼がここに連れてきてくれたのは、ターナにバレンタインデーをお返しをするためだったのだ。
彼の考えた贈り物は、一般的な贈り物であるマシュマロやクッキーなどといった菓子類ではなく、美しい風景。形あるものではないから手元には残らないが、ターナの心にはしっかりと刻みつけられた。
「ありがとう、クーガー。とても嬉しい……」
ターナは思わずクーガーの身体にもたれかかっていた。
「わたし、今とても幸せ。だってクーガーと……クーガーと一緒に、こんなに美しい景色を見ることが出来たんですもの……」
ありったけの思いが心から溢れて言葉になる。そこに直接的な言葉は含まれていない。だが、それで良かった。臆病なターナ。しかし、このままの関係でいられるのも幸せだと、ターナは気付いたのだ。いつまでもクーガーの隣にいられるのならば――
その時、突然背後から手を回され、大きな手に肩を掴まれた。ターナの心臓が跳ね上がる。それは間違いなく、隣にいるクーガーの手だった。クーガーは少しだけ力を入れて、自分の方へと引き寄せようとしている。
思わず顔を上げると、クーガーが申し訳なさそうな色を見せた。
「すまん。嫌だったか」
ターナは思い切り首を横に振る。
「ううん。急だったから、驚いて」
「そうだな、すまない。俺は……」
言葉を途切れさせた後、クーガーの声が呟くように洩れる。
「俺は……最近、このまま姫の傍にいたいと思うようになった」
ターナははっと目を見開いた。
「姫は俺に、本当によくしてくれた。今の俺にとって、姫の傍にいることが一番幸せなんじゃないかと、最近気付いたんだ」
「クーガー……」
「俺は姫の騎士だ。こうして砕けた言葉で喋ることも、本来は許されない。だが、無礼を承知で、お願いしたい。これからも、俺を姫の傍に置いてもらえるだろうか」
ターナの目が潤んだ。その目尻からつうっと一筋の涙がこぼれ落ちると、クーガーが目を瞠った。
「姫、すまない、俺は……」
「ううん、違う、違うの。嫌なんじゃないわ……」
ターナは涙を拭って、心からの笑顔を見せた。
「嬉しくて……クーガーがそんなふうに思ってくれていたこと」
嬉しさが溢れかえり、唇を綻ばせる。
「クーガー、わたしからお願いするわ。ずっとわたしの傍にいて。お願い……」
「ああ。姫が望むのなら」
クーガーはそう言って、ターナにつられるようにして笑みをこぼした。彼の笑顔は何物にも代え難い、愛しさに満ち溢れたものだった。
ターナはクーガーの温もりを感じたいと、更に傍へと寄り添った。自分の身体を預けていられる時間が、何にも勝る至福の時間だった。