伝説の血

 日が暮れてきた頃、ティニーはラナたちと共に夕飯の支度を手伝っていた。
 酷い扱われようではあったが一応貴族として暮らしてきたティニーにとって、こうした家事をするのは初めてで、戸惑うことも多かった。しかしラナは常に笑顔を絶やさず、ティニーにあれこれと手順を教えてくれた。
 頼まれていた仕事が終わって、ほっと一息ついた時だった。
「ティニー、もしかして手が空いているかしら?」
 ラナに声をかけられ、ティニーはええ、と頷いた。するとラナは微笑んで、天幕の外を指差した。
「悪いけど、デルムッドを呼んできてくれる? 読書に夢中みたいで、まだ外に出たままなの」
「あ、ええ。分かったわ」
 ティニーも快く返事をして、外に出た。その瞬間、自分が声をかけるべき人が、自分にとって近寄りがたい人だということに気付いた。
 デルムッドはイザークで育ったと聞いたが、離れて育った妹がいるという。それがあの、レンスターにいたナンナと聞いた時、ティニーは彼を近寄りがたく感じた。元々解放軍と敵対していた側にいたティニーにとって、軍の者たちは近寄りがたい存在であった。ラナたちのような女の子とは早い段階で打ち解けられたものの、まだ男性の中には話したことのない者も多い。その中で、一際近寄りがたい存在――それが、レンスターにいたナンナとリーフ、そしてナンナの兄のデルムッドであった。
 自分から勝手に壁を作ってしまっていることは分かっている。彼らがティニーを迫害しようとしたわけではないし、彼らの誰もが好人物であるということも聞いて理解している。しかしレンスターの者たちとは直接敵対していたこともあって、余計に近寄りがたくなっていたのは事実だった。
 これから呼びに行くデルムッドは、真面目な人物だと聞いていた。読書が好きだとも、聞いている。
 ティニーは木の下で本を読みふけっているデルムッドを見つけ、おそるおそる近づいていった。声をかけたら、どんな反応が返ってくるだろう――それが、なんとなく恐ろしかった。
「あの」
 ティニーが声をかけると、デルムッドは顔を上げてティニーを見つめた。その瞳の中に、悪意は見られなかった。彼は驚いていたが、すぐに本を閉じて立ち上がった。
「ティニーさん、だったかな。何か用?」
「あ、はい。あの、ラナさんが、夕飯だから戻るようにと」
「ああ、そうか。もうそんな時間だっけな」
 デルムッドは天幕に向かって歩き出し、ティニーもそれについていった。ティニーはちらちらとデルムッドに視線を送っていたが、ふと彼の腕の中にある本のタイトルを読んで、思わずデルムッドの横顔を見つめてしまった。
 デルムッドはその視線に気付いたらしく、ティニーの方を向いた。
「どうしたの?」
 ティニーはあっ、と声をもらし、慌てて本の方に視線を向けた。
「あの、その本……」
「ああ、これ? 知っているのかい?」
 本を持ち上げ見せたデルムッドに、ティニーは頷いた。
「それ、聖戦士の伝説の本ですよね」
「そう。『我らの力を受けよ。さすれば、汝らに大いなる光宿らん』」
「『おお神々よ、我らに其の力を与えたまえ』――」
 デルムッドに続いて、その本の中にある有名な一節を暗唱すると、デルムッドは目を丸くした。
「よく知っているな。もしかして、君もよく読んでいたとか?」
「あ、はい。その本、とても好きだったの。小さい頃、ずっと母様に聞かされて育ったんです」
 数少ない母ティルテュとの思い出の一つ、それが聖戦士の物語を読み聞かされたことだった。母は何度もそれを読んでくれた。幼いティニーには理解しがたい言葉も多かったため、最初は訳が分からないまま聞いていたが、大きくなるにつれてその意味を理解するようになり、それ以外に意味の分からない言葉は進んで勉強するようになった。その頃母は亡くなったが、母が聞かせてくれた物語の一節一節を、ティニーは決して忘れたことはない。
「俺もそうなんだ。オイフェさんに聞かされて育ったようなものだよ」
「オイフェさんに?」
「ああ。ラクチェやレスターはそのうちに眠ってしまうんだけど、俺は最後までじっと聞いていたらしい。今でも、毎日読んでしまうくらい好きなんだ」
 その物語は、デルムッドの思い出の中にも眠っているものだったらしい。ティニーはそんなデルムッドに親近感を覚えた。自分の中に作られていた壁が、砂のように消え去っていくような気がした。
「デルムッド様は、どの聖戦士のお話が一番好きですか?」
「デルムッドでいいよ」
 デルムッドは軽く笑った後、ティニーの質問に答えた。
「俺はヘズルかな。他の聖戦士の話も魅力的なんだけど、やっぱり俺の体の中にヘズルの血が流れているせいかもしれない」
 あっ、とティニーは思わず声をもらしていた。この軍にいる者たちがほとんど聖戦士の血を引く者たちだということは知っていたが、デルムッドにヘズルの血が流れているとは知らず、驚いたのだ。デルムッドも笑って、意外だろう、と言った。
「母がアグストリアのノディオン王家の姫だったらしい。ヘズルの血が流れているといっても、俺には聖痕が出ていないけどね。ちなみに、ヘズルの血を濃く受け継いでいる奴なら、この軍にいるよ」
「アレス様のことですか?」
「そう。ミストルティンを軽々と扱えているのがその証拠だな。君なら彼がミストルティンを持っている時点で、彼がヘズルの血を濃く受け継ぐ者だと分かったかもしれないけど」
 デルムッドはそう言ってにやりと笑った。ティニーも微笑んだ。
「そういう君は、どの聖戦士の話が一番好き?」
 聞き返されて、ティニーは答えようとし、思わず言葉に詰まった。トードと答えたかった。彼のように、自分の中には母のトードの血が流れているのだからと。
 しかし今、トードの一族であるフリージ家は解放軍と敵対する立場にある。彼の前で、なるべくその話を出したくなかった。自分にその血が流れているということも、今では誇りになるどころかむしろ後ろめたい気さえ起こるほどだったのだ。
 言葉に詰まりながら、ええと、とティニーは言った。
「私も、ヘズルが一番好き、です」
 しどろもどろになりながらそう答えた。途端、デルムッドは意外そうな顔をした。
「へえ、そうなのか。俺はてっきり、君はトードの話が一番好きなんだろうと思ったんだけど」
「えっ……」
 ティニーは驚き、それ以上言葉が出なかった。そんなティニーに向かって、デルムッドは続けた。
「だって君は、フリージ家の人だろう。だったら君の先祖にあたるトードの話が一番好きなんじゃないかって、そう思ったんだけど。違うかい?」
 ティニーは思わずあっと声をもらした。デルムッドには全てお見通しだったのだ。なるべくフリージ家の話題を出すまいとしてきたが、逆に相手から出されてしまっては、どうしようもない。
 それに、彼は笑みを絶やさなかった。フリージの一族であるティニーを憎む素振りなど、全く見せなかったのだ。ティニーはあまり彼のことを知らなかったが、彼は演技で平静を装っているようには全く見えなかった。
 ティニーはためらいながら、頷いた。
「本当は、そうなの。トードのお話は、特に母様から何度も聞かされたお話だから……」
「やっぱり。どうして黙っていたんだ?」
 デルムッドは穏やかに尋ねた。
「フリージは今、解放軍とは敵対しているから……だから、あまりその話は出さない方がいいと思ったんです。フリージ家のことを嫌いな人も、きっとたくさんいるだろうからと思って」
 ティニーが俯いてそう言うと、デルムッドは笑顔を見せた。
「確かにフリージのことを憎んでいる人間はいるかもしれない。でも、ティニーまでそのことを気にする必要はないんだ。ティニーのことを憎んでいる人なんて、この軍にはいないんだから」
 ティニーは顔を上げてデルムッドを見た。何故か彼の顔が霞んだ。
「罪を憎んで血を憎まず、だよ。君の中に流れているトードの血は、決して憎むべきものなんかじゃない。誇っていいんだ」
「デルムッド様……」
 ティニーは自分の頬に熱い何かが伝うのを感じた。涙だった。手でそれを拭い、ひくりと嗚咽をもらす。そんなティニーに、デルムッドは温かい笑顔を向け続けてくれた。
 やっと涙がおさまった頃、ティニーは恥ずかしそうにしながらデルムッドに礼を言った。
「ごめんなさい。ありがとうございました」
「いいよ。女の子に目の前で泣かれるのは慣れているんだ。小さい頃からね」
 あんまり褒められたことじゃないだろうけど、とデルムッドは笑いながら付け加え、ティニーも思わず笑ってしまった。
「今度、トードの話をもっとよく聞かせてくれよ。俺はトードの話はあまり詳しく読んだことがないんだ」
「えっ、でも」
「ちゃんと全部覚えてるんだろ?」
 デルムッドがにやりと笑うと、ティニーも微笑みで返した。
「はい」
「よし、じゃあ決まりだな」
 再び天幕に向かって歩き出したデルムッドの後ろに続きながら、ティニーは言った。
「じゃあ、ヘズルのお話も聞かせてください。とても興味があるんです」
「分かった。それまでにもう一度、ヘズルのところを読み返しておくよ」
 じゃあ後で、とデルムッドは手を振ってティニーと別れた。ティニーは元いた場所に戻りながら、心は弾んでいた。
 どんなふうに、トードのことを語ろうか――そのことで、ティニーの頭はいっぱいになっていた。
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