我が儘をもう一つだけ

 闇の皇子ユリウスを、その身に宿る暗黒神ロプトウスを倒した後、バーハラではささやかな宴が開かれた。
 未だ大陸には戦乱の爪痕が残り、荒廃した土地も多くある。そのため贅沢はできなかったが、ささやかながらもこうして今までの苦労を分かち合う場が持たれたことは、今まで心から笑うことの出来なかった者たちの顔を、一気に晴れやかなものへと変えていた。普段から仏頂面のアレスでさえ、微笑んでいるとも取れるような穏やかな表情で仲間たちと話し込んでいたほどだ。
 そんな従兄の姿を見て、デルムッドは微笑ましく思う。何があっても笑わない彼がこんな表情を見せているということは、自分たちはそれだけの大業を成し遂げたのだということだ。しみじみと実感が湧き、デルムッドの表情が自然と緩む。
 彼の腰に携えた漆黒の剣ミストルティンは、彼がヘズルの血を濃く引く者であることを、何よりも一番に証明していた。デルムッドはそれを確認してから、誰にも気付かれぬよう、こっそりと宴の会場を出た。
 バーハラ城の廊下は、晴れやかな宴の広間と打って変わって静寂に満ちていた。しばらく歩き、中庭へ出る。夜空を見上げ、その美しさに目を細めた。今日は満月だった。まるで自分たちの勝利を祝福してくれているようではないか、と、デルムッドは幾分か穏やかな気持ちになるのを感じた。
 次の日になれば、一夜の宴から覚めて、皆今後の身の振り方を考えるようになることだろう。といっても、ほとんどの者は行く場所が決まっている。自分に流れる血に従えば良いだけのことだ。デルムッド自身もその法則に従って、アグストリアへ行くつもりであった。母の願いを継ぎ、アレスと力を合わせ、アグストリアを再建できればと考えたのだ。
 ただし、一つ気がかりなことがあった。小さく溜息をついて、思いを巡らせる。
 自分にはアレスと同じヘズルの血が流れているとはいえ、あくまでも本筋はアレスの方にある。彼を妬ましいと思う気持ちなどないし、彼はその点を突いて差別してくるような卑小な人間でもないが、世間的に見た地位は、どうしても劣る。元々自由騎士であるデルムッドは地位に固執しない人間だったが、その横に寄り添う者は、果たして自分の地位に満足してくれるだろうか。彼女にはもう一つの道があるから、尚更そう思うのだった。
 控えめに微笑む彼女の顔を思い浮かべ、胸が苦しくなる感覚に襲われたその時だった。


「デルムッド様」
 聞き慣れた声が中庭に響き、デルムッドは驚いて振り返る。するとそこには、安堵の微笑みを浮かべた彼女が立っていた。
 フリージの娘ティニー。紫銀の髪を赤のリボンで結い上げ、小さな白い手を胸に当てて微笑む、可憐な少女。今まさに、デルムッドが頭の中に浮かべていた少女だった。
「広間にいらっしゃらなかったから、探していたんです」
「ああ、ごめん。少し考え事がしたくて」
 デルムッドが笑顔を作りながら謝ると、ティニーは口に手を当てて、申し訳なさそうな表情をした。
「すみません。お邪魔してしまいましたか」
「いいや、構わないよ。ここへ来るかい」
 ティニーは手を下ろして、嬉しそうにはい、と頷き、デルムッドの隣に並んだ。顔を上げて、白銀の光を放つ月へと視線を向ける。
「綺麗な満月ですね」
「ああ。まるで今日の勝利を祝福してくれているようだ」
「そうですね。本当に、良かった……」
 ティニーがこんなに安堵した声を出した事があったろうか、とデルムッドは内心驚く。デルムッドたちに出会う前は伯父夫婦に酷い扱いを受け続けていたし、解放軍に加わってからも、伯母のヒルダを倒すまで気の安らぐ時はなかったはずだ。彼女はいつも微笑みを浮かべていたが、内に秘めた辛さを隠し切れていないように、デルムッドの目には映っていた。
 だからこそ、彼女に惹かれたという事実も否定できないのだが。
「ティニーのそんな顔、初めて見たな」
 デルムッドがそう言うと、ティニーはぱっと顔を赤らめた。そんな反応を見せる恋人が急に愛おしくなって、デルムッドは彼女の頭を撫でる。ティニーは初め戸惑ったように瞳を見開いたが、やがて嬉しそうにはにかんだ笑みを見せた。
「ティニーはこれから、どうするつもりなんだい」
 穏やかな気持ちに任せて、何気ないふうを装って尋ねる。するとティニーは何度か瞬きをした後、軽く俯いた。
「デルムッド様は、これからどうなさるのですか?」
「俺か。俺はアグストリアへ行くつもりだ。アレスを手伝って、国を再建できたらと思っている」
 ティニーが顔を上げて、デルムッドを再び見つめた。
「では、私は……」
「君は、アーサーと共にフリージへ行くんじゃないか?」
 ティニーの言葉を遮って、デルムッドは淡々とそう言った。ティニーの表情に驚きが浮かび、デルムッドは急に息苦しさを覚えた。
 彼女のもう一つの道。それは彼女の中に流れるトードの血に従って、フリージへ行くことだった。ある意味、その方が正しい選択なのかもしれない。だからこそデルムッドは迷っていた。彼女を自分のもう一つの故郷に誘うべきか否か。デルムッドが何も言わなければ、彼女はフリージの公女として生きられるのだ。その方が彼女にとって良いのかもしれない、そう考え始めたら止まらなくなっていた。
 ティニーは再び俯いた。デルムッドは彼女に気付かれぬよう喘ぐ。酸素が欲しい、と切に願った。否、欲しかった物は酸素などではないのかもしれないが――
「私は……フリージ家の者です。フリージの血を継ぐ者として、人々に償いをしていかなければならない……」
 ぽつりぽつりと洩れる彼女の声が、か細く揺れる。
「だから、いえ、私は……」
 その声が涙声に変わっている事に気付いたデルムッドははっとした。彼女は俯いたまま、表情は窺えない。だが直後、彼女の顔から透明な粒が零れ落ちるのを見た。あれが涙でなくて、一体何だというのだ。デルムッドは激しく動揺し始めている自分に気付いた。
 ティニーは小さな手で涙を拭った後、顔を上げて微笑みを見せた。
「駄目ですね、私……急に、弱気になってしまいました。こんなことでは、兄様の足を引っ張るだけですね……」
 独り言のように呟いて、ティニーは口元を笑みの形に歪める。だが、その表情には悲しみが湛えられていた。デルムッドの胸がきりきりと締め付けられる。
「デルムッド様。最後に私の我が儘を聞いてくださいますか」
 ティニーに言われて、デルムッドは心苦しさを隠しながら応じた。
「……ああ。何でも」
「明日になるまで……私と一緒にいてください。お願い、します」
 ティニーはそう言って、そっと身体をもたせかけてきた。
「デルムッド様がアグストリアへ行かれたら……もう、会えませんから」
 華奢な身体を支えながら、デルムッドはそっと彼女の肩に手を回す。互いの気持ちを通わせてから、こうして彼女の肩を何度も抱いた。だが、こんなに切ない気持ちで肩を抱いたのは初めての事だった。
 明日になれば、アレスは早速アグストリアへ向けて出発すると言うだろう。それに付いていくことになれば、もう、ティニーとは会えない。彼女と会えなくなるという事実がこんなにも胸を締め付けるとは、とデルムッドは唇を噛み締めた。
 戦場で芽生えた、小さな恋。彼女の存在は、何よりデルムッドの癒しだった。細い身体で様々なものと戦っている彼女を見て、彼女を害するあらゆるものから守ってやりたいと思う気持ちが自然に芽生えた。彼女の笑顔を見るだけで、デルムッドの心は安らいだ。永遠に共にありたいと、切実に願った事さえあったはずなのに。
 今まで、楽しかった。ありがとう。彼女に感謝を伝える言葉が、何度も浮かんでは消えた。そのどれもが、彼女に伝える言葉として適切ではない気がした。
 どの言葉を選択しても、双方が幸せになれることなどないのだから。
「ティニー」
 肩を引き寄せて、ティニーの全身を抱く。ティニーが驚いたように小さく声を発したのが聞こえた。彼女の滑らかな首筋に顔を寄せて、デルムッドはぽつりと言葉を洩らす。
「弱気だったのは俺の方だ。君がフリージに残った方が、幸せになれると思いたくて」
「デルムッド様……」
「ヘズルの傍系である俺と一緒になるより、その方がいいと思い込んで……ごめん。本当に、ごめん」
「私は……」
 ティニーは一旦言葉を途切れさせてから、続ける。
「私は、デルムッド様の血に惹かれたのではありません」
 デルムッドの目が見開かれる。ティニーの細い指が、デルムッドの背をゆっくりと掴んだ。
「優しいデルムッド様が大好きです。今も、ずっと。デルムッド様と一緒なら、どこにいても平気です。だから……」
 ティニーの腕が、デルムッドの身体と密着する。
「お願いします。もう一つだけ、我が儘を聞いてください」
「ああ、何でも聞くよ」
「私を……デルムッド様の傍に置いてください。お願いします」
 喉元にまで愛しさが込み上げ、デルムッドはティニーを抱く腕に力を込めた。こんなにも自分を求めてくれる少女に応えぬわけにはいかなかった。
 卑屈になりかけていた自分を恥じる。彼女のためにと考えて、それは結局何のためにもならなかった。今までの自分にけりをつけて、新しい一歩を踏み出そうとする。
「ティニーがそれでいいのなら、俺は……ティニーに、ずっと傍にいて欲しい」
「はい。嬉しい……」
 彼女の声が涙声に変わる。だが、それは悲しみの涙などではなかった。身体を引いて彼女の顔を見つめる。ティニーは、笑っていた。心から嬉しそうに、幸せそうに。自分はこの顔が見たかったのだ、とデルムッドは思う。
 その笑顔に引き寄せられるようにして、デルムッドは彼女の桃色の唇に口づけを落とした。
(2010.2.22)
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