一歩ずつ、確実に

 セリスの故郷シアルフィの地に足を踏み入れた一行は、バーハラにて待ち構えている闇の皇子ユリウスとの戦いを目前に、緊張を高めていた。確実なことなど何もなかった。ただめいめいがこれまで鍛えてきた腕に、めいめいが手にする強力な武器を掲げ、目の前の敵を薙ぎ払うのみ。誰もが不安を抱えていたが、誰もがなるべくそれを表に出さぬよう努めていた。
 デルムッドは戦いに備えて城下町で武器の修理を終えた後、城に帰ってきた。だがその時、運悪くある現場に遭遇してしまった。
 城の中庭で佇む一組の男女。一人は幼なじみのレスター、もう一人はその恋人の少女だ。デルムッドはなるべく見ないようにして脇に寄ったが、その会話は嫌でも耳に入ってきた。
「俺が全力でお前を守る。だから心配するな」
 レスターの真摯な声が響く。直後、どちらかが一歩足を踏み込む音。
 デルムッドは何故だか気恥ずかしくなって、すぐにその場を駆け出した。見なくとも、彼らがその後どうなったかは想像がついた。恋人同士なら誰でもする、別段照れる必要もない行為だ。だがデルムッドはどうもそういった行為が苦手で、未だに免疫がないのだった。
 城の中まで逃げてきたところでふと脳裏に浮かんだのは、自分の恋人の顔。おそらく最終決戦に向けて、今も部屋で準備をしながら過ごしているはずだ。先程城下町に行かないかと誘ったら、申し訳なさそうに断られてしまった。その時の彼女は、今まで見たことがないくらい思い詰めたような表情をしていた。無理もないかもしれない。気分転換になればと誘ってみたが、今思えば随分無神経な誘いだったように思う。
 もう一度彼女のところに行ってみよう。そう思った時、後ろから突然肩を叩かれた。驚いて振り返ると、そこには先程中庭にいたはずのレスターが立っていた。
「よう。武器、鍛え直してもらってきたのか?」
「あ、ああ……まあ、な」
 腰に差した父の形見の大剣に視線をやる。ここに来るまでに強力な武器をいくつも手に入れてきたが、一番自分の手に馴染むのはやはりこの剣なのだった。
 レスターはふうん、と頷いた後、にやりと笑みを浮かべた。
「さっき、見てただろ。お前が逃げるように走っていくのが見えたぜ」
「たまたまだ。見ようと思って見てたわけじゃない」
 決まり悪そうに視線を逸らすと、レスターは手をひらひらと振った。
「気にするなよ。別にお前を責めてるわけじゃないから」
 デルムッドは再び視線を戻して、小さく溜息をつきながら言った。
「それにしても、よくあんなこと言えるな。『俺が守る』とか『心配するな』とか」
「そうか? 別に普通だと思うけどな。大切な奴を守ってやりたいって思うのは当然だろ?」
「それは、そうだけどさ……」
 デルムッドは少しばかり俯いた。
 大切な彼女を守ってやりたいと思う気持ちは、確かにデルムッドの心の中にある。心配するなと言って、彼女を安心させてやりたいとも思う。けれどもその言葉を口にしようとすると、いつも喉の奥から声が出てこなくなってしまう。それらの言葉は全てデルムッドの願望なのであって、確実に遂行できると言い切れる事では決してない。だからこそ、言うのを躊躇っているのだ。確実でない言葉を口にして、それで一時の心の安らぎは得られるかもしれないけれども、もし実行できなかった際、その衝撃や悲しみは倍になって返ってきてしまうのだということを、デルムッドは知っていた。何よりも大切な彼女に、そんな思いをさせたくはなかったのだ。
 レスターはしばらくデルムッドの様子を見ていたが、やがて分かったというように頷いた。
「お前は昔から真面目だもんな。お前らしいといえばお前らしいけど……」
「けど?」
 聞き返すと、レスターは笑って言った。
「言われるだけで力になることって、あるんだぜ。たとえそれが望み薄なことって分かっててもな」
「言われるだけで……」
 デルムッドは虚を突かれたような思いがした。はっとした表情になったデルムッドを見て、レスターは照れたように笑った。
「はは、なんか俺らしくなかったかな。ま、あんまり気負うなよ。お前がそんな顔じゃ、あの子も暗い気持ちになるだろうから」
 その通りだ、とデルムッドは思った。他人の表情からもらえる力は計り知れないものがある。それが大切な相手であればなおさらのことだ。デルムッド自身彼女と恋人関係になってから、いやなる以前から、彼女の笑顔に癒されることが多かった。彼女の笑みは、どんなに強い武器よりもデルムッドに何倍もの力を与えてくれるのだ。逆に彼女が暗い表情になれば、デルムッドの気分も同じように暗くなった。もし自分の表情にもそれと同等の力があるとするならば、今の表情のまま彼女に会いに行くことはできない。
 デルムッドはやっと笑みを取り戻し、レスターに礼を言った。
「ありがとう、レスター。お前のおかげで随分気が楽になったよ」
「なら良かった。じゃあ今から、あの子に会いに行ってやれよ」
「ああ、そうする」
 デルムッドは頷いて、彼女の部屋に行くため城の階段を上り始めた。レスターはひらひらと手を振って、デルムッドを見送ってくれた。


 緊張しつつも、彼女の部屋の扉を叩く。するとはい、という小さな声が聞こえて、デルムッドは咳払いをした後、声を上げた。
「俺だ。デルムッドだけど……今、いいかな?」
「あっ……はい」
 一瞬の間の後、承諾の言葉。デルムッドは静かに扉を開けて、中に入った。
 ティニーは部屋の中央で控えめに佇んでいた。魔道書などの荷物は綺麗に整理され、脇に置かれている。今結いかけていたところだったのか、それとも何かの拍子に緩んでしまったのか、髪に結ばれているリボンがほどけていた。デルムッドは近寄って、彼女の垂れ下がったリボンに触れた。
「ほどけてる。直してあげるよ」
「あっ、すみません」
 ティニーは微かに頬を赤らめた。デルムッドはリボンを両手に持って、きっちりと縛り直した。手先が器用なお陰で、これまでも何度かティニーの髪を結ってやったことがあった。ティニーはそのたび、恥ずかしそうに、けれども嬉しそうに微笑んでくれた。そのはにかむような表情が、デルムッドは好きだった。
 彼女の髪が、微笑みを浮かべる唇が、りんごの実のように赤く染まった頬が愛しくて仕方がなかった。だがこんなにも可憐な彼女が、今はどこか思い詰めた表情をしている。その理由はデルムッドも無論知っていた。伯母のヒルダ、そして従姉のイシュタル――敵対し、そしてこれから対峙することになるはずの彼女らのことを考えているに違いないのだ。
「ティニー」
 リボンを結びながら、デルムッドは声を掛けた。
「俺は、今まで君に何も言ってあげられなかった。俺はただの気休めにしかならない、不確実な言葉が嫌いだったから……俺が言ったことが実現しなかったら、その分君の心が傷ついてしまうと思ったから」
「デルムッド様……」
「でも、そうじゃない。言葉にするだけで力になることもあるんだって、さっきレスターに教えてもらった。だから、今から君に」
 リボンを結び終えた後、デルムッドは彼女と向き合った。
「俺の決意を……聞いてもらっても、いいかな?」
 ティニーは顔を上げて、ゆっくりと微笑んだ。
「はい。お聞きしたいです」
「ありがとう」
 デルムッドも笑みを返した後、表情を引き締めた。
「俺は、君のことを何があっても守りたい。君の笑顔をずっと見ていたいから、それを邪魔するものは、どんなものも排除していくつもりだ。だから、俺を信じて欲しい。俺にずっとついてきて欲しい……」
 最後の方は、少しすぼみ気味になる。デルムッドは顔が熱くなってくるのを感じて、誤魔化すように笑いながら頬を掻いた。
「ああ、ごめん、なんだか、俺らしくなかった……かな」
 ティニーの方を見ると、彼女の顔もほんのり赤らんでいた。だがその表情に嬉しさが混じっていることに気付いて、デルムッドの心は高揚した。
「少し、恥ずかしいです……でも、嬉しい……」
 ティニーが赤らんだ顔を上げて、心底嬉しそうに笑う。
「少しだけ、不安だったんです。私はずっとデルムッド様に付いていってもいいのかなと思って……デルムッド様にとって私は、もしかしたら足手纏いなだけかもしれないって」
「そんなこと、あるはずがない。……ああ、俺が何も言わなかったせいでそんな思いをさせてしまったんだな……本当にすまなかった」
「いいえ、謝らないでください。こうやってデルムッド様のお気持ちを知ることができたのが、本当に嬉しかったですから……」
 デルムッドは思わず彼女を抱き締めていた。直後腕の中から上がるきゃ、という小さな声。けれどもそれはただの驚きで、決して拒絶ではなかったことを、彼女が伸ばしてくれた手のおかげで気付く。
「俺がいるから心配するななんて、強気なことは言えないけど……俺はこれからもずっと、全力で君を守るよ」
「はい。私もデルムッド様のこと、お守りします。デルムッド様が傷つかれたら、私がすぐに杖で癒すようにしますから……」
「ありがとう。ティニーが傍にいてくれるだけで、俺は何倍も力をもらえる」
「私もです、デルムッド様」
 微笑みを交わした後、互いの顔は磁石のように引き寄せられていく。
 激しい戦いの気配など感じさせないくらい穏やかな昼下がり、少年と少女は初めての口づけを交わした。
 互いの繋がりを、もっと近くで感じるために。そうしてまた一歩、前に進むために――
(2010.7.25)
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