真言

 ゆらめく蜃気楼の向こう側に見える、大きな翼を広げた竜の大群。初めて見るその厳めしくも優雅な姿に、ブリギッドは思わず見とれていた。
 ここイードの砂漠で、砂に足を取られないというのは何よりも大きな利点だ。砂漠に苦しめられている地上の人間を嘲笑うかのようにして、竜たちはあっという間に距離を縮めてくる。
 気をつけろ、というシグルドの喚起の声を聞いて、ブリギッドはやっと我に返った。美しくもしなやかな光沢を放つ聖弓イチイバルをつがえて、大空を翔る竜へと照準を合わせる。そうして無意識に、自分の後ろにいる少年に声をかけた。
「デュー、あたしの後ろに隠れていなよ。もうすぐ来るから」
 うん分かった、という声が、いつものように聞こえてくることを期待していた。だが、デューの返答はない。おやと思って後ろを振り向くと、デューはやや不満そうな顔をしていた。普段見せたことのないその表情に、ブリギッドは違和感を覚える。
「デュー?」
 名を呼ぶと、デューは我に返ったようにはっと顔を上げた。そうしてにかっと、普段通りの笑みを浮かべる。
「大丈夫だよ、守ってくれなくても。おいら、少しくらいは役に立てるから」
「でも、危ないじゃないか。相手はあの、トラキアの竜騎士なんだよ?」
 ブリギッドは知らず知らずのうちに、幼子に言い聞かせるような口調になっていた。それに気付いたらしいデューが、あからさまに不快感を示す。
「もう、ブリギッドさん、またおいらを子供扱いしてるな」
「ごめん、そうじゃないけど……」
「大丈夫だよ。自分の身は自分で守れるから」
 デューはそう言って、腰に携えた風の剣を抜く。一見普通の、どこにでもありそうな鉄の剣に見えるが、その剣身には風の精霊が宿っている。デューが振るうと小さな竜巻が起こり、巻き込まれた者を風の刃で切り裂くのだ。レヴィンが放つフォルセティの烈風とは比べものにならないが、とどめを刺し忘れた敵に襲われた際、何度かその剣に助けられたことがあった。
 それでも、だ。竜騎士と戦った経験もなく、彼らの実力を計ることの出来ないブリギッドは心配だった。果たして自分の弓が彼らに通用するのか、それすらも分からないのに、デューが出て行っても太刀打ちできないのではないか。
「大丈夫だよ」
 ブリギッドの心の内を察したかのように、デューがそう言う。デューの視線の先には、自由に空を舞う竜騎士たちがいた。もうそこまで迫っている。竜の身体に乗った騎士たちが、鋭く光る槍を構えてこちらに向かってくる。
「ブリギッドさん、行くよ」
 デューが一足先に動き出した。一瞬遅れて、ブリギッドも続く。
 しかし、ブリギッドは戸惑いを隠せなかった。いつも誰かの陰に隠れて戦場を器用に飛び回っていたはずの彼が、この場になって突然前に出始めたことに。
 それまでデューは、ブリギッドが自分を守ることに対して何の不満も抱いていなかったし、むしろ守ってくれることを期待していたのはデューの方だった。それなのに、先程のあの不満げな顔。反応が唐突すぎて、考えが追いついていかない。何故という疑問だけが、頭を回る。
 しかし、それを考える時間の猶予すら、戦は与えてくれない。
 疑問を頭から追い払い、風の剣を振るうデューの隣で、ブリギッドは再びイチイバルを構えた。


 フィノーラ城を制圧したところで、一時休息を取ることになった。正直なところ、休息を取っている猶予などもう残されていない。一刻も早くグランベルに戻り、己らの汚名を晴らさなくてはならない。だがここにいる誰もが、先程から不穏な空気を感じ取っていた。言葉では言い表せない不安。グランベルにさえ戻れば全てが終わり解放されるはずなのに、何故か嫌な予感がしてならないのである。それらの思いを汲んで、シグルドは休息を取ることを提案したのだ。
 戦地に向かうまでに、もう一度大切な者との時間を持つことができれば良い。シグルドはそうも言った。最愛の者を失う気持ちを誰よりも良く知っているシグルドにとって、それは仲間たちへの最大限の配慮だった。
 その厚意に甘え、デューとブリギッドはフィノーラ城の一室に入り、身体を休めることにした。
「デュー、いよいよだね」
 窓からグランベルの方向を眺めているブリギッドが、重々しく言う。だがそれとは対照的に、背後からはうんざりしたような声が返ってきた。
「やだな、ブリギッドさんまで……暗いよ。グランベルに帰れば、みんな幸せになれるんでしょ?」
「……そうだよ。そうだけど……」
 ブリギッドは心の内に淀む不安を上手く言い表すことができず、歯痒さで唇を噛んだ。
 頭では理解している。グランベルへ辿り着き、シグルドの汚名が晴れれば、自分たちは再び故郷で穏やかな生活を送ることが出来るのだと。だが何故か、その幸せな想像が全く浮かんでこないのである。心の中に浮かぶのは、言い知れぬ不安ばかり。それが本当にこれから起こることへの予感なのか、ただ単に消極的思考に陥っているだけなのか、ブリギッドには判断がつかなかったのだけれども。
「あのね、ブリギッドさん」
「何だい?」
 何気なくデューの方を振り向くと、デューはいつになく真剣な表情でブリギッドを見つめていた。
 ブリギッドの心臓が跳ね上がる。天真爛漫という言葉そのものであるような彼から、こんなふうな真摯な表情が現れたことはなかったから。
「おいらは一人で戦ってくる。だからブリギッドさんは、安全なところに避難していて」
「な……」
 予想だにしなかった言葉を聞かされて、ブリギッドは絶句した。突然何を言うかと思えば。
 デューの言葉を一度丸々呑み込んだ後その意味を理解して、ブリギッドは冗談じゃないと声を荒げた。
「何を言ってるの! 私があんたを置いて一人で逃げられるわけ、ないじゃないか!」
 半ば睨み付けるようにしてデューを見ると、デューはしばしの後、あっという間に表情を崩した。呆気にとられるブリギッドをよそに、いつもの小憎らしい笑みを浮かべている。
「へへ、冗談だよ。ブリギッドさんがこんな真剣に聞いてくれるなんて、思わなかったな」
「デュー、こんな時に……!」
 心の中で、とっちめてやりたいと思う気持ちと安堵の気持ちが入り混じる。様々な思いを込めてデューを睨んでいると、彼はまあまあ、となだめるような仕草をした。
「真似したんだよ。さっき、ジャムカがエーディンに言ってるの、聞いたから」
「ジャムカが?」
「そう。ここからは俺だけで行く、君はイザークへ行け、ってね」
 野次馬根性を丸出しにして、デューはにやついている。ブリギッドは急に力が抜けていくのを感じた。真剣に聞いていた自分が馬鹿みたいだ。本気ではなかった上に、その言葉さえ借り物だったとは。
「デュー。いい加減にしないと、怒るよ」
「おお、怖いなあ。ごめん、許してよ。この通り」
 笑いながら両手を顔の前で合わせるデューに、ブリギッドは怒る気力もなくしていた。
「いいよ、もう。それより、本気で言ってるんじゃなくて良かったよ」
「へへっ。でもさ、そんなこと言えたらかっこいいじゃない。俺がお前を守る、とかさ」
「なんだ、あんたらしくないことを言うね」
 デューが真剣にそんなことを言っている姿を想像して、ブリギッドは笑いをこらえきれなくなった。シグルドのような男前なら様になるが、デューのような少年にその台詞は似合わない。もし自分を口説く時にそんな台詞を吐いていたら、ブリギッドは決して相手にしなかっただろう。
 ブリギッドが想像して笑っていると突然、デューが心底嬉しそうに笑った。
「良かった。ブリギッドさんが笑ってくれて」
 えっ、というブリギッドの疑問の声を聞いて、デューは計画通りだとでも言うようにますます笑う。
「おいら、イヤだったんだ。この暗い空気がさ。だから、冗談を言ってみたんだ」
「そうだったのかい……」
 そこで初めて、先程まで抱えていた不安が消え去っているのに気付いた。不安が消えたどころか、戦地に向かう前だというのに穏やかな気分にすらなっている。
 デューはブリギッドの言い知れぬ不安を察して、気分を変えようとしてくれたのかもしれない。普段の振る舞いからは想像できない彼の気遣いに、ブリギッドは心を打たれていた。
「ありがとう、デュー」
 応えるようにへへっ、ともう一度笑った後、デューは冗談めかした口調で言う。
「でもね。おいらの中では、さっきの言葉は本気だよ」
「えっ?」
 またもや予想もしない言葉が飛び出して、ブリギッドは目を丸くする。
「格好、つけたかったんだ。ブリギッドさんの前でだけ。だっておいら、男だもん」
 口調はあくまでも冗談を言う時のそれなのに、デューは照れ笑いのようなものを浮かべていた。おそらく本気で言っているのだろうというのはブリギッドにも分かった。愛する者の前で良い格好をしたいと思うのは誰もが同じだろうが、デューもそんな気持ちを抱いていたとは。意外に思うと同時に、ほのかな嬉しさが芽生えるのを感じる。
 何故だか今までのデューとは違った風に見えて、心臓の鼓動が速まっている自分に気付いた。
「さあ、そろそろ行こうか。ブリギッドさん」
 話題を変えるようにして、デューがそう促す。
「ああ、そうだね」
 頷いて、しばし視線を交わし合う。声にならない意志が、デューの瞳に映っているのを感じた。
 無言のやりとりを交わした後、ブリギッドは壁に立てかけたイチイバルを握りしめた。
(2010.2.3)
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