獣になりきれなかったひと

「ぐあぁっ!」
 断末魔の声が響き渡る。
 心臓に突き立てた槍が引き抜かれると、血飛沫が頬を、胸を、靴を赤く染めた。
 頬の返り血を指で拭い、ディミトリは嗤っていた。彼の足下には帝国軍の兵士の死体が折り重なっている。先程の兵士のように心臓を一突きされただけの死体もあれば、無残にも目を抉られ、臓物を引きずり出された死体もある。そのあまりの凄惨さに、マリアンヌは口を手で覆い、目を背けた。
 ディミトリの歩みは止まらない。腹に剣の一撃を食らおうが、矢が肩を掠めようが、一切の躊躇なく、足下の死体を踏み潰しながら歩いて行く。
 マリアンヌは地面の死体をなるべく見ないようにしながら、彼の黒い背を追い続けた。彼の脇腹や肩に血が滲んでいると分かれば、その都度回復の魔法を放った。
 後ろを振り返ることのなかったディミトリが、ある時突然足を止めた。マリアンヌも少し離れた場所で立ち止まると、数秒の後、ディミトリが声を上げた。
「……余計なことをするな」
 ディミトリが後ろを振り返ることはなかったが、間違いなくマリアンヌに向かって言っている、とわかった。
 マリアンヌの答えを待たずに、ディミトリは再び歩き出した。マリアンヌもすぐさま彼の背を追った。その足音に気付いたのか、ディミトリが再び歩みを止める。
「付いてくるな」
 ディミトリが初めてこちらを向いた。冷たい闇の沈殿する左目が、マリアンヌを睨め付ける。
 マリアンヌは怖じ気づくことなく、真っ直ぐにその瞳と相対した。
 人殺しの獣、とディミトリを罵った帝国軍の兵士を思い出した。直後、ディミトリの槍に腹を貫かれて、それが彼の最期の言葉となった。ディミトリは意に介した様子もなく死体を地面に捨て、すぐさま歩き出したが、マリアンヌの中ではその言葉が引っかかり続けていた。
 彼の瞳の中に、確かに光はなかった。だが、完全に理性が失われた様子もなかった。
 彼は獣ではない。マリアンヌは確信を持っていた。本当に理性のない獣ならば、気に入らない動きをする自分をこの場で即座に殺しているはずなのだ。だが彼の槍がこちらへ向く気配はまるでなかった。
 と――刹那、背後に何かが蠢く気配を感じた。
「マリアンヌ!」
 ディミトリの鋭い声が飛び、マリアンヌは間一髪で振り下ろされた斧を躱した。帝国の鎧を纏った兵士が舌打ちをしている。寸時の凪から一転、全身に殺気を纏ったディミトリが前に出ようとするのを、マリアンヌは思わず手で制していた。
「主よ――」
 天に掲げたマリアンヌの右手が冷気を纏う。兵士に向かって振り下ろすと、冷気が地面を這うように進み、兵士の身体を瞬く間に凍り付かせた。その氷塊が一気に粉砕されると、兵士の全身から血飛沫が上がった。
 支えを失って崩れ落ちた血塗れの兵士に、もはや息はなかった。マリアンヌは小さく息を吐いた後、ディミトリを振り返った。
「お前」
 ディミトリは僅かに目を瞠っていた。まるで、驚いた、とでもいうように。
「同じです。私も、あなたも」
 ――死にたくても死にきれずに、死体を積み上げ続けているのは。
 ディミトリの左目が再び闇に覆われる。毛皮の外套を翻し、地面に転がる肉塊を苛立ったように踏み潰した。
「お前に、何が分かる」
 冷淡なように思えて、僅かに抑揚のある声。彼が明らかに動揺しているのが見て取れて、マリアンヌは確信を深めた。この人はやはり獣ではない、と。
 帝国への、エーデルガルトへの強い復讐心から、躊躇いなく人を惨殺するようになったディミトリ。生きるのが辛くてたまらないと思いながら、自ら死を選ぶことも、反射的に生きようとする自身の動きを止めることもできずに、敵対勢力を屠りながらここまで来たマリアンヌ。目的の違いはあれど、同じ人殺し、という点で、自分と彼はそう変わらないように思えた。
 五年前、生きるのが辛くてたまらない気持ちを理解してくれた彼の言葉を思い出す。
 あの頃は彼が、お前と同じだから、と話す意味が今ひとつ理解できなかった。だが、今なら分かる。だからこそ、獣になりきれなかったディミトリの苦悩を、まるで自分のもののように感じてしまう。マリアンヌは思わず喘いだ。
 しばしの後、ディミトリが再び口を開いた。
「俺とお前が同じだと? ……反吐が出るな」
 吐き捨てるような口調だった。だがそれはマリアンヌを、ではなく、今この瞬間生じた迷いを突き放すかのような響きに聞こえた。
 遠くから帝国軍の足音が聞こえてくる。マリアンヌは思わず身構えたが、ディミトリは槍を持つ手を大きく広げ、その黒い背でマリアンヌの眼前を覆い尽くした。
「邪魔だ。お前は前に出るな」
 白と黒の入り交じった毛皮の外套が、微かに波打つ。
「……俺と同じに、ならなくていい」
 風の音に紛れて消え入りそうなその声は、五年前の彼の声音と、全く同じ響きを持っていた。
 獣のふりをしていても、やはりディミトリはディミトリなのだ。五年前と変わらぬその優しさに、マリアンヌは胸を詰まらせた。
「わかりました」
 マリアンヌは穏やかに言った。
 だが、彼だけに背負わせるつもりはなかった。自分もとうに引き返せない場所まで来ている。今更人殺しを止めたところで、何が得られるわけでもない。
 ――ごめんなさい、ディミトリさん。
 彼の優しさを無下にするのは辛い。だが、彼に全てを背負わせる方が、もっともっと辛い。
 帝国軍の足音が徐々に近づいてくる。ディミトリは槍を構えて、おもむろに歩き始めた。
 マリアンヌも再びその背を追った。
 袖の下に隠した右手に、密かに冷気を宿らせて。
(2019.11.3)
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