いとしさをつたえて

 最初にマリアベルの左手の薬指に指輪が輝いているのを見つけたのは、リズだった。
 それから軍内で噂はあっという間に広まり、今もマリアベルは人々に囲まれて、指輪を見せては幸せそうに微笑んでいる。そんな彼女の姿を見る度、ドニは未だマリアベルと結婚できたことが信じられないという思いを抱えつつも、マリアベルの指輪のことを思い、心が暗くなるのを感じていた。
 あの指輪にはめられた石は、本物のダイヤモンドなどではない、安物のガラス玉だった。一介の村人でしかないドニにとって、本物の宝石があしらわれた指輪など到底手が届く代物ではない。ガラス玉もダイヤモンドと同じように、確かに光に反射して輝きはするけれど、その真実を知るドニが見れば、その輝きはひどくくすんだものに思われた。
 それなのにマリアベルは嫌な顔一つせず、むしろ嬉しそうに受け取って、今もそれを幸せそうな表情で軍の仲間に見せている。それを遠巻きから見る度に、自分のような身分の低い人間が、伯爵家の令嬢であるマリアベルと結婚しても良かったのかと、ドニは悩み落ち込むのだった。


 夕食を終え、ドニは一人で天幕から離れ、近くの小高い丘に登った。今日は月が綺麗だ。墨を流したような夜空から、地上に白い光を投げかけている。
「綺麗だべなぁ……」
 一人で夜空を見上げてしみじみと呟くと、背後から靴の音が高く響いた。
「本当に、綺麗な月ですわね」
「マ、マリアベルさん!?」
 ドニが慌てて後ろを振り向くと、マリアベルが軽くスカートの端を持って軽く腰を折った。そしてつかつかと靴音を立てながら歩いてきて、ドニの隣に並んだ。
「天幕から出て行かれるのが見えたので、追いかけてきましたの」
「そ、そうだったべ、か」
 何故かぎこちない言葉遣いになってしまう。マリアベルはもう一度その位置から夜空を見上げ、感嘆の溜息を洩らした。
「綺麗ですわ……まるで、わたくしたちを祝福してくれているよう」
 そう言って両手を組んだマリアベルの薬指が、一瞬きらりと光ったのがドニには見えた。マリアベルの頬に、微かに赤みが差したのも。
 素直に嬉しいと思いたいのに、ドニの心はあの月の光とは裏腹に暗くなっていくばかりだった。自分はまだ、気後れしている。そしてあの指輪がマリアベルの指で光り輝いていること、マリアベルに偽物の宝石の指輪を贈ってしまったことに、罪悪感を覚えてしまっている。
 ドニが何も言えずに俯くと、マリアベルが首を傾げて、ドニの顔を覗き込んできた。
「元気がありませんわね。どうかしましたの?」
「い、いや、おらは何も……」
「まあ、嘘はいけませんわ。未来のあなたの妻であるわたくしを騙せると思って?」
 マリアベルは優しく諭すような口調でそう言った。だがそんな言葉も、ドニには優しくしみわたるどころか、棘のように突き刺さるだけだ。
 ごくり、と唾を呑み込む。深呼吸をしてから、言葉をゆっくりと吐き出した。
「マ、マリアベル……さん。聞きたいことがあるだ……」
「あら、何ですの?」
「そ、その指輪のこと、だけんど」
「これですの?」
 マリアベルが左手を出して、指輪をドニに見せてくる。本当に偽物の指輪でも良かったのか、自分と結婚しても良かったのか、そう尋ねるつもりだったのに、ドニの口から出てきたのは、全く違う言葉だった。
「それ……返してもらえねえべか」
 マリアベルが大きく目を見開いて、表情を凍り付かせた。ドニ自身もしまった、と思ったが、後の祭りだ。
「……どうして、そんな酷いことをおっしゃるんですの?」
 ややあって出てきたマリアベルの声は険しい。紅の引いた唇を震わせて、怒りに耐えているようにも見える。ドニは拳を思い切り握り締めた。自分を心底情けない男だと思った。こんなことを言って、マリアベルを傷付けるつもりではなかったのに。
 けれど一度落ちた疑心の種は既に芽を出していて、どうしても言葉を撤回することができない。
「お……おらみたいな、偽物の宝石しか贈れねえ男が、マリアベルさんのような綺麗な、高い身分の人と結婚するなんて、つ、釣り合わないだ。だ、だから……おらが本物の宝石を買えるようになるまで頑張って稼いで、それから――」
「お断りいたしますわ」
 必死に言葉を継ぐドニに対して、マリアベルはきっぱりと言い放った。
「ドニさん。わたくしはこれを頂いたとき、はっきりと申し上げましたわ。わたくしは宝石が偽物かどうかで、求婚の返答を左右することなどないと」
「ん、んだ……」
「わたくしは宝石が欲しかったのではありませんわ。ドニさんがこれをわたくしに贈ろうとしてくださった心、わたくしと結婚したいと思ってくださったその心が、何よりも嬉しかったんですの」
 だから、と、マリアベルは持っていた傘を地面に置くと、だらりと下がったままのドニの両手を掬い上げ、自分の両手で包み込むようにして握った。
「わたくしに本物の宝石を贈ってくださろうとするその心も、本当に嬉しいものですわ。けれどそれをいただけたからといって、わたくしがこの指輪を手放すことは、一生ありませんわ。だってこれはわたくしたちが結婚の誓いをした、何よりの証なんですもの」
「マリアベルさん……」
 そこでマリアベルは頬を染めて、柔らかく笑った。
「それに……ドニさん。わたくしはドニさんだから、求婚に応じたんですの。いくら高い宝石を贈られて求婚されたって、その相手がドニさんでなければ、はねつけてそれでお終いでしたわ」
 きっぱりはっきりと物を言う彼女のこういうところが、ドニは好きだった。高貴な身分の女性でありながら、ただ黙って微笑んでいるだけではなく、積極的に動き自分の意見をはっきりと発言する彼女に最初は戸惑いもしたが、たまに見せる少女らしい振る舞いや、彼女の思いやりの深さに触れるたび、心が浮き上がるのを感じた。
 それが恋だと自覚したはいいものの、駆け引きの一つも知らないしできるはずもないドニが考えたのは、自分の出来る範囲で指輪をこしらえて、彼女に渡し求婚するということだった。まさか受け取ってもらえるはずがないと思っていたのに、どうしてこうなったのか、今までは信じられないという思いの方が大きかった。
 だが今なら言える。幸せがじわじわと溢れ出し、心を満たしていってくれている。これが夢ではなく現実なのだと、目の前にいる女性は確かに自分のことを愛してくれているのだと、今なら確信が持てる。
「マリアベルさん!」
 ドニはマリアベルの手を解くと、思い切り彼女を抱き締めた。
「きゃあっ、ド、ドニさん! 何を――!」
 突然のことに驚いて声を上げるマリアベルの背に、ドニはゆっくりと手を添わせた。ドニの指先の感覚が、確かにそこに人の温もりがあることを伝えてくれる。
「……夢じゃ、ないだ。おらの腕の中に、ちゃんとマリアベルさんがいるだ……」
「ド、ドニさん……」
 マリアベルの戸惑ったような上擦り声は、やがて落ち着きを取り戻していく。
「……そうですわ。わたくし、ずっとドニさんの傍におります。死ぬまで、決して離れませんわ」
 ああ、とドニは溜息を洩らした。可憐に結い上げられた金糸の髪も、自分の名を呼ぶ甲高い声も、自分の背をやわりと掴んでくる細い指も、何もかもが愛おしい。こんな女性が自分の妻になってくれるだなんて、これ以上に幸せなことがあるだろうか。
「マリアベルさん、愛してるべー!!」
「ド、ドニさん、そんな、大声で……!」
 一瞬慌てたマリアベルも、すぐにふふ、と幸せそうな微笑みをこぼす。
「わたくしも愛しておりますわ、ドニさん。一生、わたくしを離さないでくださいませね。離したら承知いたしませんわ」
「約束するべ。おら、絶対に、ぜーったいに、マリアベルさんを離さないだ!」
「うふふ。嬉しいですわ……」
 直後、頬に何かが触れる感覚がした。
 ちゅ、という吸い付き音が夜空に響いて、すぐにその感覚は去る。けれどもその跡はいつまでも残って、ドニの心をじわじわと高揚させていった。
「マ、マリアベルさん……い、いま」
「わたくしの唇が他の方に触れたのは……あなたの頬が初めてですわ」
 照れたように頬を染めて俯くマリアベルを見ると、もう我慢ができなくなった。ドニ自身も真っ赤になりながら、マリアベルにぐいと顔を近づける。
「お、おらも……初めて……しても、いいだべか?」
「ええ。あなたになら……わたくし、なんでも差し上げますわ。わたくしの初めてを、すべて……」
「じ、じゃあ……」
 ドニは一度深呼吸をしてから、ゆっくりとマリアベルに顔を近づけていった。キスの仕方なんてわからない。好き同士になった男女がするもの、という知識があるだけだ。
 微かに唇が触れ合う。それ以上進めて良いものか迷うドニの思考を奪うように、マリアベルは自分から首を伸ばして深く口付けた。驚いて目を見開いたのはドニの方だった。こういう時は男性の方がリードするものだと思っていたのに、情けない。だがそれでもいいと思った。マリアベルとこうして口付けを交わしているというだけで、自分は天にも昇りそうなくらい幸せなのだから。
 白い月に見守られて、二人は再び固く愛を誓うのだった。
(2012.5.2)
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