First Love

「じ、冗談じゃありませんわ……」
 ロストンの聖王女ラーチェルは、今までにないくらい動揺していた。手がわなわなと震え、唇が小刻みに揺れる。廊下の行き止まりの壁のところで立ち止まり、ラーチェルはまた、同じ言葉を口にした。
「そんなの……冗談じゃありませんわ」
 こうして彼女が動揺している理由は、先程のエイリークとの会話にあった。


「ラーチェルは、初恋を経験したことがありますか?」
 ルネス城にあるエイリークの部屋に遊びに来ていたラーチェルは、突然そんな質問をぶつけられて驚いた。先程まで鏡に向けられていた意識は全て質問の方へ飛び、ラーチェルははっとエイリークの方を振り向いた。
「え、ええっ? は、初恋?」
「ええ。ラーチェルならきっと経験したことがあるかと思ったのですが」
 うろたえるラーチェルを前に、エイリークはあくまでも冷静に訊く。ラーチェルは跳ねる心臓を無理やり抑えて、軽く咳払いをしてから考えるような仕草をした。
「そ、そうですわね……ないと言ったら、嘘になりますわ」
 何を隠そう、彼女の初恋の相手は目の前にいる彼女の兄、エフラムである。ラーチェルはエフラムと出会うまで男性との付き合いが全くなかったわけではないのだが、恋愛対象として見ることのできる男性とは出会うことがなかった。だが以前、大陸全土を巻き込んだ戦乱に参加した際、指揮官として軍を引っ張っていたのが、ルネス王子エフラムその人だったのである。まさに運命的な出会いだった。
 彼は王子としての威厳と気品を備えていたが、無鉄砲で朴念仁なところがあった。王女としてのたしなみをきっちりと学んできたラーチェルとは、ほとんど対照的な存在であったと言えるだろうが、何故かラーチェルは彼のそんなところに惚れた。どんどん敵の方に突っ込んでいくからとても見ていられない時もあるのだが、一方でそんな彼を頼もしく思っていたのも事実。戦乱中はよくエフラムの後ろにくっついて馬を走らせ、彼を杖で癒したものだった。
 エイリークはラーチェルの答えを聞いて、そうですか、と頷いた。彼の妹であり友人の一人でもあるエイリークにも、この想いは打ち明けたことがない。悟られまいとラーチェルは緊張していたが、エイリークは深く追求してこなかった。
「じゃあ、初恋にジンクスがあるって知ってました?」
「ジンクス? そんなものがありますの?」
 そんなものがあるとは初めて聞いた。ラーチェルは興味津々な様子でエイリークに尋ねる。しかしエイリークから返ってきた答えは、ラーチェルにはとても信じがたいものだった。
「なんでも、初恋は叶わないものなのだとか。片思いだけで過ぎていくことが多いのだそうですよ」
「え……?」
 一瞬、耳を疑う。エイリークは何を言ってるのだ、と、考えているうちに本当に分からなくなったので、もう一度尋ねる。しかしエイリークから返ってきた答えは、同じものだった。
「初恋は、叶わないものだそうですよ」
「ええっ? そんな、まさか……」
 思わずエイリークの言葉を笑い飛ばそうとして頬を緩めようとしたが、ラーチェルの顔は固まっていた。どう頑張っても、唇を少し上げる程度のことしかできない。その上今度は唇を上げたその顔が固定されてしまい、顔が完全に引きつった。エイリークはそれに気付いていないようで、またしても続けてショックなことを言い放った。
「でも、初恋は後で思い出して浸るものだと聞いたことがあります。叶わない方が、綺麗な思い出のまましまっておけるから、いいのかもしれませんね」
「…………」
 ラーチェルは完璧に固まった。少しして、今度は体中が小刻みに震え始めた。エイリークは悪気があって言ったのではないと分かってはいたけれども、心の中で怒りのようなものと悲しみとがごちゃまぜになって、自分でもわけがわからなくなった。
 そして突然、ラーチェルは立ち上がっていたのだった。
「ラ、ラーチェル? どうかしたのですか?」
 驚いて声を上げるエイリークに目もくれず、ラーチェルは扉を乱暴に開けて部屋から立ち去っていた。本当に自分でも何がしたいのか全くわからないまま、ただ部屋を飛び出していた。
「ラーチェル!」
 エイリークの叫び声さえ、耳に入らない。
 廊下を走り抜ける間、ラーチェルの頭の中では、エイリークの言葉が反芻して、離れてくれなかった。
 ――初恋は、叶わないものだそうですよ――
「嘘ですわ……そんなわけありませんわ……!」
 そうして、ラーチェルはどこかの壁の前で立ち止まり、息を切らしながら何度も何度も否定の言葉を呟くのだった。


 そうして、どれだけ時間が経った頃だろう。
「ラーチェル。何故こんなところにいるんだ?」
 ラーチェルがその声を聞いてはっと振り向くと、そこにはルネス王子、否、ルネス王エフラムが立っていた。突然の登場に、ラーチェルは今まで以上の動揺を隠しきれない。まさに彼は、ラーチェルの初恋の相手なのだから、当然といえば当然である。口をぱくぱくすること十秒、ラーチェルはやっと言葉を紡いだ。
「エ、エフラム……?」
 それだけで精一杯。
 エフラムはラーチェルの様子を見て何かあると思ったのか、それ以上の言及はしなかった。ほとんど固まったままのラーチェルの肩を抱いて、自分の部屋へと連れて行く。いつもなら、軽々しく肩を抱こうもんなら騒がれて手をはねのけられるのがオチだが、今日はそのような行動がなかった。ラーチェルは俯いたまま、何も言わなかった。
 部屋に入って、とりあえずソファにラーチェルを座らせる。エフラムは机の上の書類を整理してから、ラーチェルの向かいに座った。ラーチェルはいつもの元気をなくしていた。
 エフラムは腕を組むと、やっとラーチェルに彼女自身の様子のことを尋ねた。
「で、ラーチェル。何故あんなところにいたんだ?」
 ラーチェルは必死に何かを言おうとして口を開けたが、声が出なかった。エフラムは答えを促したりせず、ただラーチェルをじっと見つめている。その視線が痛くて、逃れたい気持ちになる。
 何度か深呼吸をして、少し落ち着いたラーチェルはやっと途切れ途切れに声を出した。
「わたくし……もう、何もわからなくて……気付いたら、あそこに……」
「何かあったのか?」
「…………っ」
 次にかけられた問いに対し、ラーチェルは何も言わなかった。言えなかった。喉がつっかえて、言葉が出るのを拒んでいた。
 エフラムは答えないラーチェルを見て唸ると、次の言葉を口にした。
「エイリークと、何かあったのか?」
「!」
 彼はこういう時、とてもカンが鋭い。まさに図星だった。ラーチェルが驚いて顔を上げ、そのまま口をぽかんと開けると、エフラムはふっとため息をついた。
「そうなのか」
「わ、わたくし、何も……」
 ラーチェルが慌てて否定しようとしたが、そんなことが無駄なことは分かり切っていた。エフラムはもう一度ため息をつくと、再び尋ねてきた。
「エイリークと仲違いしたとは思えないが、もしかしてあいつに何か言われたのか?」
「ち、違いますわ、わたくしは本当に何も……」
「ラーチェル!」
 エフラムは突然机を思いきり叩き、立ち上がった。ラーチェルがおどおどとして彼の顔を見上げると、彼はどうやら怒っているらしかった。いつもより険しい視線が、ラーチェルを刺し続ける。
「何もないことが嘘だということぐらい、君の顔を見ていれば分かる」
 低い声だった。ほとんど唇を動かさずに言っているのに、その声は部屋中に響くぐらいの大きさを持っていた。ラーチェルは何も言えずに唇をわななかせていた。
 エフラムは少しだけ険しさを緩めて座り、ラーチェルをしっかりと見据えた。
「何があったのか、俺に言ってくれ。このままでは、気になって仕事も手につかない」
「で、でも……」
「俺にも言えないようなことなのか?」
 ラーチェルはぐっと言葉に詰まった。言えないわけではないが、できれば言いたくない。ラーチェルが今まさに初恋を経験しているのだということがばれてしまう。その上、目の前にいる彼に相手のことを探られたら――自分は一体どうやって切り抜ければいいのだろう。
 しかしラーチェルの言葉を待っているエフラムを前に、このまま「何もない」を貫き通すことはできそうになかった。そうしてさんざん迷った末、ラーチェルはついに心を決めた。
「エイリークが……」
「エイリークが?」
 すう、と息を吸い込んで、ラーチェルは続ける。
「初恋というものは叶わないものだと、そう……言いましたの」
「ほう、なるほどな」
 一応、「くだらない」と言って一蹴される覚悟もあったのだが、エフラムは思いの外納得したように頷いていた。こういうことには興味のなさそうな彼なのに少し意外だ、とラーチェルは思う。彼が何を思っているか、そこまでは分からなかったけれども。
 エフラムはしばらく顎に手を当てて考えていたが、ふっと微笑をもらしながら呟いた。
「初恋の相手とは結ばれない――か。それは、困ったな」
「……えっ?」
 ラーチェルは一瞬、耳を疑った。
 ――困る? エフラムが?
 ラーチェルの場合は、初恋の相手が向かいに座る男だから困るけれども、エフラムの場合は何が困るのか、見当もつかない。それ以前に、彼は初恋を経験したことがあるのか、それが問題である。
 いったんそれを考えてしまうと、ラーチェルは急にエフラムの初恋の相手というものが気になり始めた。彼の初恋の相手は誰なのだろう。好きな相手の初恋は、誰もが気になるところである。彼の恋愛に関しては噂話さえ聞いたことがないから不明だが、これは聞いておくべきかもしれない。
 ラーチェルはそう思って、おそるおそるエフラムに尋ねた。
「エフラム……」
「ん? 何だ?」
「エフラムには……そ、その、初恋の相手がいらっしゃるんですの?」
 訊いてしまった。もう、後には引けない。一応心の中で、どんな答えが返ってこようとも冷静でいようと決めていたが、やはり言ってしまうと少し臆病になる。
 エフラムは俯いて考え込んでいたが、ふと顔を上げてラーチェルと視線を合わせ、口を開いた。
「……そうだな。いないと言えば、嘘になるか」
 ――やっぱり……。
 その上で名前を訊こうか否か少しの間迷ったが、ラーチェルは思い切って尋ねた。
「どなた……ですの?」
 いないのであればそれで構わなかったが、いるとなった時に自分以外の女性の名前を言われるのは、やはりショックである。一応自分以外の名前が出ることも考えたが、そこで冷静になれるかどうかは、不安なところだった。
 エフラムは更にふむ、と考える。その時間が長く感じられて、ラーチェルの肩はいつの間にか強張っていた。そうしてしばらく経ってから、エフラムは再び口を開いた。ラーチェルはごくりと唾を飲んだ。
「俺の初恋の相手は……すぐそばにいる奴なんだがな」
「すぐ、そば?」
 てっきり名前をそのまま言ってくれるのだと思っていたラーチェルは、がっくりと肩を落とす。自分は何故こんなにも緊張していたのだろう、と少しだけ思う。しかし彼の初恋の相手はすぐそばにいるという情報が得られたことは大きい。すぐそばということは、相手はエフラムの身近な人物だということだ。
 ラーチェルが眉根を寄せて考え込んでいると、エフラムはそれを見て苦笑した。
「分からないか?」
 ラーチェルが首を横に振ると、エフラムはもう一度苦笑した。
「手を伸ばせば、抱けるほどの距離にいるんだが」
「!!」
 今度こそ、冷静さを失った。
 ラーチェルは一つの可能性に思い当たった。すぐそばとは、まさか――。
 そう思った瞬間、エフラムはラーチェルの方に手を伸ばしてきた。ラーチェルの心臓は跳ね上がり体が強張るが、エフラムの指が体に触れた途端、その強張りは一瞬にして解けた。
「ラーチェル」
 エフラムは名を呼んでから片方の腕をラーチェルの背中に回し、もう片方の腕で二人を隔てていた机を向こうへ押した。ラーチェルはされるがまま、エフラムの胸の中へ入っていった。
「これで、わかってくれたか?」
 微笑混じりにそう言うエフラムに、ラーチェルは嬉しくなりながらも、口を尖らせて不満を言う。
「ずるいですわ……そんなの、わたくし何も聞いてませんでしたのに……」
 ラーチェルでさえ言いにくかったことだから人のことは言えないし、こうして彼が自分のことを好きでいてくれたことが嬉しくて嬉しくてたまらないのに、何となく不満を言いたい気分になる。しかしそれも、エフラムはきっと笑って受け止めてくれるであろうことを信じているから、言えること。
 エフラムは案の定またふっと笑って、言った。
「すまない。言おうとは思ってたが、なかなか機会がなくてな」
 彼の胸や吐息が熱くて、今にも失神してしまいそうになりながら、ラーチェルはエフラムに聞こえないくらいの小さな声で呟く。
「でも……そんなことはもう、いいですの……」
 こうしていられるだけで、幸せだから。
 ラーチェルは、やっと自分の気持ちを伝える決心がついた。心の中で頷いてから、顔を上げてエフラムを見る。
「わたくしも、エフラムのこと――」
 そこまで言った途端、エフラムに唇をふさがれた。
 ラーチェルは目をいっぱいに見開き、驚きでしばらく固まっていた。エフラムの唇の感触が感じられないほどに固まっていたが、時間が経つごとに感触が戻ってきた。エフラムの唇は思ったより柔らかくて、自分の唇をしっかりと包み込んでいた。慣れていないせいかお世辞にも優しいとは言えなかったけれども、ラーチェルにとってはそれで十分だった。
 そうしてお互いの唇が離れた後、エフラムは苦笑して言う。
「どうしても抑えられなかった。すまない」
 ラーチェルは首を横に振った。
「いいん……ですの……」
 自分の行動を肯定されたのが意外だったのか、エフラムはきょとんとして、一瞬の後、笑う。
「君にそう言われるとは、思わなかったな」
「わ、わたくしだって、誰にでも許すわけじゃありませんわ」
「それは、光栄だ」
 エフラムは笑いながら言った。ラーチェルはぼんやりとしていて、とろけるチョコレートに浸っているような気分だった。
 そこで、二人は離れた。


 しばらく二人は黙って立ちつくしていたが、ふと彼は遠くに視線を移し、思い出したように言った。
「そういえば、エイリークが初恋は叶わないと、そう言っていたんだな?」
 突然の問いに、ラーチェルはきょとんとしながらも頷く。
「え、ええ。そうですわ」
「そうか。なるほどな……」
 エフラムは考え込んでいたが、ラーチェルの方を見てにっと笑った。その笑いに込められた真意がわからず、ラーチェルは戸惑う。
「ど、どうしたんですの?」
「いや。それが良くあることだと言うのなら、俺がその例外を作ってみたくなっただけだ」
「例外って、ちょっと――あっ」
 聞き返す前に、ラーチェルは微笑を浮かべたエフラムに再び抱きしめられていた。ラーチェルはそこで何も言えなくなり、エフラムも同じく黙ったまま笑みを浮かべ続ける。
 彼の温もりを再び感じながら、ラーチェルはどうしようもなく彼に恋していることを改めて気付かされるのだった。
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