季節が春から夏へと移り変わる頃、朝目を覚ましたラーチェルは、思わず日差しに目を細めた。カーテンの隙間から漏れる日光は、日増しに強くなってきている。
シーツを手繰り寄せ、隣でうつぶせになって熟睡しているエフラムを見下ろす。彼は昨日、戦争によって荒れ果てたとある村の復興を終えたばかりだった。騎士を何人も派遣したり、なかなか動こうとしない大臣たちを説得したりと連日ひどく疲れた様子だったが、一段落して一気に気が緩んでしまったようだ。
寝息を立てるエフラムを見ながら、お疲れでしたのね、とそっと呟く。何気なく手を伸ばして、瞼にかかった髪を指先で払うと、エフラムがもぞもぞと動いた。しまったとは思ったが後の祭り。エフラムはゆっくりと目を開けて、ぼんやりと視線の先を見た。
「ん……」
「エフラム、おはようございます」
上から降ってきた声に反応して、エフラムがゆっくりと顔を上げる。
「ああ、ラーチェルか……おはよう」
「ごめんなさい。貴方を起こすつもりはありませんでしたの」
「いや、構わない。っ、と……よく寝たな」
起き上がって伸びをする。ふわあ、という欠伸付きで、ラーチェルは気の抜けた彼の姿に思わずくすくすと笑ってしまう。
「ん? 何がおかしいんだ?」
「貴方のそんな和やかな表情、久しぶりに見ましたわ」
「ああ、そうかもな……最近はまるでゆとりがなかったからな。君にも寂しい思いをさせた、すまない」
「まあ。一体どうなさいましたの? 貴方がそんなことを気にするだなんて」
少しからかうつもりで言うと、エフラムは真面目に答えた。
「いや、昨日エイリークに言われたんだ。俺が仕事にかかりきりで、ラーチェルは寂しい思いをしているだろうから、とな」
「まあ、エイリークが」
開けた口に手を当てながら、聡明な彼の妹の顔を頭に浮かべる。エイリークは人の感情の機微に敏感で、周囲の者に対して細やかな気遣いの出来る人間だ。自分が時折忙しく動き回るエフラムを見ながら、寂しさの色を宿していたのにも気付いていたのだろう。それは寂しさというよりも、彼が身体を壊さないかという不安が大部分であったのだが、そういう点も含めて、彼女は気遣ってくれたのかも知れない。
「だから今日は君と過ごすと決めているんだが、異存はないか?」
相変わらず自分で勝手に決める人だ、と思いながら、ラーチェルは微笑みながら頷く。
「ええ、構いませんわ」
「そうか。なら、二人で少し遠出しよう」
天蓋付きのベッドを出て、クローゼットから着替えを取り出すエフラムを見ながら、ラーチェルは微笑みを浮かべた。とても楽しい一日になりそうだと、その時は明るい気分でカーテンの隙間から見える外の風景を眺め、溜息をついた。
厩舎から久しぶりに愛馬を連れ出し、二人きりでルネス城を出た。護衛を付けた方が、とゼトに進言されたが、問題ないとエフラムは一蹴した。続けて彼が、今日はラーチェルとの時間を大切にしたいからと言うのを横で聞きながら、ラーチェルは妙にそわそわして落ち着かない気分になった。
槍を持ち、鎧を着けて少々重装備だが、戦場にいた頃のいつものエフラムの格好。久しぶりにそれを目にしたラーチェルは、一年前の戦乱を心の中で思い出していた。魔物に溢れたマギ・ヴァル大陸。大陸を戦禍に巻き込もうとする者たちの策略。それらに行く手を阻まれる中、エフラムは指揮を執って果敢に動いていた。その無鉄砲ながらも勇敢な姿に惹かれ、ラーチェルはここにいる。胸の痛む思い出は多いが、初めて彼と出会った時の甘酸っぱい感情が胸の中に蘇り、ラーチェルは思わず赤面した。
「ラーチェル、熱でもあるのか。顔が真っ赤だが」
「い、いいえ。何でもありませんわ」
気恥ずかしくなってエフラムから顔を逸らし、ラーチェルは愛馬の胴を蹴った。
あれから一年。城下町を中心として、荒廃していたルネス王国は徐々に復興を遂げてきた。道端には可憐な花が咲き、見渡す限り大地には緑が広がっている。途中で赤い実のなる木を見つけたエフラムは手綱を引いて立ち止まり、馬に乗ったまま手を伸ばした。
「これはカラムの実というんだ。甘酸っぱくてうまい」
指先で器用にひねって小さな実を取ると、エフラムはそれを口の中に入れた。咀嚼しながら、もう一度手を伸ばす。首を傾げているラーチェルの目の前に、もう一つ取ったカラムの実を差し出した。
「ラーチェルも食べてみないか、ほら」
「あら、ありがとうございます。それでは……」
自分も手を差し出してそれを受け取ろうとした途端、エフラムの手がぐいと上がり、カラムの実はラーチェルの唇に押しつけられた。驚いてむぐ、と声を出すと、エフラムは目線で口を開け、と合図した。ぶしつけなやり方に目を尖らせつつも反抗できず、ラーチェルはそっと口を開いた。途端に口の中に転がる実。喉の奥へ行かないよう慌てて咀嚼すると、エフラムは指を素早く引き抜いて、じっとこちらを見つめてきた。
「どうだ、うまいか?」
噛んだ途端、口の中で広がる甘酸っぱい香り。木いちごに似た味だと思った。幼少時、何度か樹海の近くまで行って、木の実を取ったりして遊んでいた頃のことを思い出す。その風味にうっとりとしながらも、今更ながらエフラムの視線に気付いて、ラーチェルは馬上で思わず仰け反りそうになった。
「ち、ちょっと! そんなにわたくしのこと、じろじろと見ないでいただけます?」
「それで、どうだ。うまかったか?」
「そ、それは、美味しくいただきましたけれど……さ、さっきも一体何ですの! 突然口の中に実を押しつけたりして……ぶ、無礼ですわよ!」
エフラムはああ、と今怒りの原因に思い至ったような顔をして、謝った。
「すまない。こうした方が手間が省けると思ったんだが」
「手間とか、そういう問題ではありませんわ! ですから貴方はもう――」
そこまで言いかけて、ラーチェルは言葉を止める。せっかく久しぶりに二人で出掛けたというのに、こんなふうに苦言を呈していてはせっかくの雰囲気が台無しだ。ラーチェルは俯いて、小さく溜息をついた。
「ごめんなさい。あまりきつく言うつもりはなかったのですわ……」
「いや、俺も悪かった。さあ、先に行こう」
手綱を手に取り優しく叩いて、エフラムは先に動き始めた。ラーチェルもそれに続く。口の中になおも残る木の実の甘酸っぱい味が、先程の感情を再び蘇らせた。
――いつもそうでしたわ、わたくしは……
他の人間がしているなら気にならないような些細なことでも、エフラムがしていると気にせずにはおれなかった。やや強引に物事を進めるところや、自分が傷を負っていても敵陣に踏み込んでいく無鉄砲さ、先程の礼儀も知らぬような無神経に見える行動も、全てが目に付いて、指摘せずにはいられなかった。この感情が恋だということに気付いたのは、戦乱がようやく終結しようとしていた頃。けれども今更彼の前で素直に振る舞うこともできず、エフラムを困らせることも多々あった。
エフラムはいつも何を考えているか、よく分からない時があった。気を引こうとしてみるものの、不発に終わったことは数知れない。鈍感な彼に嫌気が差すこともあったが、それも引っくるめて、自分はこの人を愛しているのだ――そう思ったからこそ、故郷のロストンを捨てて、ルネスに嫁いだ。彼の隣を歩む道を選んだ。
少し先でエフラムが立ち止まり、後ろを振り返る。ラーチェルは驚いて、思わず手綱を引いた。
「ちゃんとついてきているか、大丈夫か?」
「ええ、ご心配には及びませんわ。わたくしの馬術は、ロストンの騎士も及ばぬくらい素晴らしかったんですのよ? 見くびっていただいては困りますわ」
「君らしい言葉だな。少し安心した」
エフラムは頬を緩め、再び前を向いて歩き始めた。ラーチェルも微笑みを浮かべながら、それについていった。
エフラムの誘導で明るい森の中をしばらく歩いた後、森の中に綺麗な湖が現れた。太陽の強い日差しが反射して、水面がきらきらと光っている。感動して思わずまあ、と声を洩らしたラーチェルの横顔を見て、エフラムも引き締めていた頬を緩めた。
「いいところだろう? 俺が小さい頃によく父上に連れてきてもらった場所だ。エイリークと一緒に、ここでずっと遊んでいたな」
「ええ。ロストンのセーナ湖には及びませんけれど、それでもとても美しい湖だと思いますわ」
「君の故郷にもこういう場所があるのか」
「ええ。樹海の近くにですけれど、緑の木々が立ち並ぶ中に、青く澄んだ湖がありますの。底まで透き通って見えるくらい、美しい湖なんですのよ」
「そうか。なら、今度ロストンに訪れた時は、是非案内して欲しい」
「構いませんわよ。エフラムに是非見ていただきたいですわ」
二人とも、馬から下り、手綱を傍の木にくくり付けると、湖の近くまで歩いて行った。碧色の透き通った湖は、故郷の湖と大差ないくらい美しさに思えた。エフラムは首筋に垂れた汗をぬぐうと、ふう、と溜息をついて空を見上げた。
「暑くなってきたな。久しぶりに外に出たから、なおさらそう感じる」
「そうですわね。もう季節が夏に移り変わってきたということなんですわ、きっと」
そう言いながら、しみじみと美しい眺めに浸っていると、突然エフラムが鎧を脱ぎ捨てた。首に指を差し入れてマントを脱いでいるエフラムを見て、ラーチェルは目を丸くした。
「ち、ちょっと、一体何をなさるおつもりなんですの?」
「あんまりにも暑いから、水浴びをしようと思ってな」
「な、な、な……!!」
予想外の答えに、ラーチェルは口をぱくぱくさせるばかりだ。そうしている間にもエフラムは脱いでいるものを次々にその場に脱ぎ捨てていく。彼の肌が見えた瞬間、ラーチェルは我に返って悲鳴を上げ、くるりと背を向けた。ばさばさと彼が衣服を脱ぎ捨てる音だけが、ラーチェルの耳に響く。
直後、ざぱん、と水しぶきが上がる音。ラーチェルがそっと音のした方を見ると、エフラムは湖の中で両腕を広げ、優雅にたゆたっていた。
「やはり気持ちがいいな、昔もこうしてよく泳いでいた。エイリークと」
「エ、エイリークまで!? いくらおてんばだとは言っても、裸で水の中に入るなんて……!」
「いや、エイリークは足だけ浸かっていたな。君も足だけでも浸かったらどうだ? 冷たくて気持ちがいいぞ」
躊躇いもなくそう言うエフラムを見て、ラーチェルは溜息をつく。湖を覗くと彼の下半身まで見えてしまうような気がしたので、慌てて顔を上げた。
しかし、確かに水は冷たくて気持ちが良さそうだ。この暑い日差しの中、何もしないで待っているのは辛い。誘惑に耐えかね、ラーチェルは仕方なく靴を脱ぐと、レースの付いたドレスを押さえながら、エフラムを見た。
「少しだけ、ですわ。あと、覗いたら承知しませんわよ」
「覗いたりしない。それくらいの分別は持っているつもりだ」
む、と頬を膨らませて、ラーチェルはそろりと足を下ろした。指先が水面に触れ、あまりの冷たさにびくりと足を上げてしまう。もう一度そっと足を下ろし、足首まで水に浸からせた。確かに冷たくてとても心地よい。ラーチェルは両足とも湖へと下ろし、そのあまりの心地よさにうっとりと溜息をついた。
「気持ちがいいだろう?」
「……そうですわね。確かに貴方のおっしゃったとおり、冷たくてとても気持ちが良いですわ」
素直に認めると、エフラムは途端におかしそうな顔をして笑った。
「まあ、エフラム、何がおかしいんですの?」
咎めるような口調で聞くと、エフラムはなおも笑いながら、すまない、と言った。
「君が素直に認めるのは、珍しいなと思っただけだ」
「まあ! それではわたくしがあまのじゃくみたいではありませんの! 心外ですわ、えいっ!」
ラーチェルは右手を湖の中へと差し入れ、エフラムへと水をかけた。突然の攻撃に戸惑った様子で、うわっ、と叫び、エフラムが水しぶきをまともに受ける。その様子がおかしくて今度はラーチェルがくすくすと笑うと、エフラムの瞳に好戦的な色が宿った。
「やったな? なら、お返しだ」
水の中から両手で水を掬い上げ、ラーチェルに向かって投げつけるエフラム。その水をまともに浴び、ラーチェルは短く悲鳴を上げた。夏に入りそうだからと新調したドレスが濡れてしまった。もう、とラーチェルは頬を膨らませる。
「こんなに濡れてしまって……どうしてくださいますの!? せっかくの新しいドレスが……!」
「だが、先にやったのは君だろう? 自業自得だと思うんだが」
「でも、わたくしこんなに水をかけたりしませんでしたわ!」
抗議すると、エフラムはやれやれと言った様子で溜息をつき、慣れた動作で泳いで岸の近くまでやって来た。そうして突然地に手をついたかと思うと、勢いよく水の中から飛び上がる。
「きゃあっ!?」
ラーチェルは慌てて顔を逸らした。突然のことに心臓の動悸が収まらず、先程の抗議の内容すら、頭から吹き飛んでしまった。
「これだけ日差しが強いんだ、帰る間に乾くだろう。あまり気にしない方がいい」
そう言った後、真っ赤になって顔を逸らしているラーチェルを見て、エフラムは言葉を続ける。
「そんなに俺から目を逸らさなくてもいいだろう。もうとっくに見慣れたものだと思っていたが」
「みっ、見慣れたって……エフラム、貴方って人は……!!」
全身がかあっと熱くなる。地面に置いた拳を握りしめ、羞恥に耐える。エフラムのこういう、細かいところを気遣わない物言いは昔から変わっていない。むしろ結婚後遠慮がなくなった分、悪化したようにすら感じてしまう。
「どうしてそういうことが平気で言えますの、女性に向かって! 殿方の裸をまじまじと見る女性なんていませんわ!」
「だが、別に平気だろう? 今更見ても、大したことはないと思うが」
「平気でないから見てないのですわ! 察してくださいまし!」
「そういうものなのか? 女というのは未だによく分からんな」
悔しさと羞恥とがない交ぜになって、ラーチェルは下唇を噛んだ。顔から火が出るような思いだ。うっかり、先日寝室で見た彼の一糸纏わぬ姿を思い出しそうになり、慌てて首を横に振る。
見慣れるはずがありませんわと、ラーチェルはエフラムに聞こえぬよう呟いた。未だに彼と触れ合うだけで動悸が収まらなくなってしまうというのに――
そしてそんなことなどきっと気にしていないであろうエフラムを思い、そっと溜息をついた。鈍感なエフラムと、そしてそんな彼をどうしようもなく愛してしまった自分への、諦めの念を込めて。