聖なる夜の誓い

 コツコツ。
 乾いた音が鳴り響き、ラーチェルは現実の世界に呼び戻される。
 ゆっくりと呼吸しながらうっすらと目を開け、そして自分がどんな状況に置かれているかを知った瞬間、ラーチェルは飛び起きた。
「わ、わたくしとしたことが……!」
 なおも自室の扉を叩く音は聞こえている。ラーチェルは部屋の明かりを灯し、外にいる者に「どうぞ」と言ってから、そそくさと準備をし始めた。まさか、眠ってしまうだなんて。予想外の出来事である。
「ラーチェル様。そろそろ式典のお時間ですが」
 扉が開いて入ってきた侍女は冷酷にも事実を淡々と告げ、ラーチェルは思わず手を止めて振り返った。もう、そんな時間だったのか。ラーチェルは侍女を見つめ、言葉を失う。侍女はそんなラーチェルの様子に気付いたらしく、慌てだした。
「ラ、ラーチェル様! す、すぐにドレスをご用意して参ります!」
 そう言って侍女は、慌てた様子でラーチェルの部屋を出ていった。
 これから重要な式典があり、ロストンの聖王女として出席しなければならないというのに、ラーチェルは普段着のままだったのだ。このままでは、とても式典などに出られまい。
 そしてラーチェルはそのドレスを自分で選ぶと言ったまま、部屋に戻って眠ってしまったことを思い出した。これでは誰のせいでもない、自分の責任だ。ラーチェルは自分の失態に、涙を浮かべて唇を噛んだ。
 そのうちに侍女が戻ってきて、何人かの侍女とともにラーチェルにドレスを着せ始めた。メイクも同時に行う。ラーチェルはまた涙がこぼれそうになったが、化粧がおちてはいけないので、ぐっとこらえていた。
 ドレスの着付けもメイクも終わり、ラーチェルは慌てて式典の会場へと向かった。会場はロストンの大聖堂である。ロストンに根ざした聖女ラトナが祭られている場所だ。
 大聖堂に着いた時には、まだ式典が始まっていなかったのでホッと息をつく。
 すぐに叔父マンセルを見つけると、マンセルも同じくラーチェルを見つけ、近寄ってきた。
「ラーチェル、どこへ行っておったのだ。もうすぐ式典が始まるのだぞ」
「ごめんなさい、叔父様。少し、眠ってしまって……」
「ともかく、間に合って良かった。ラーチェル、お前の席はあそこだ。私の隣に座ってくれ」
「ええ、分かりましたわ」
 ラーチェルは急いで自分の席へと向かった。自分の席は会場全体が見渡せる高い場所にあった。
 そこに座ってドレスを整えつつ、ラーチェルはある人物の姿を探した。しかし、どこを見ても見つからない。まあ、まだ時間はある、と思い直し、ラーチェルは式典が始まるのを待った。
 そして数分後、式典は始まった。
 マンセルが高いところから、大聖堂にいる者たちに向かって高らかに声を張り上げる。
「遠いところからようこそ、我が主、ラトナ様の生誕を祝う会に!」
 ラーチェルはその叔父の長い挨拶の間も、きょろきょろと例の人物を探していた。しかし一向に見つからないので、ラーチェルは焦り始めていた。
(どこにいるんですの、エフラム……!)


 そう、この日はロストン聖教国に根ざした英雄の一人、ラトナの誕生祭であった。
 信心深いこの国の民はもちろん、他の国々の貴族や王族たちもロストンの大聖堂に集い、皆でラトナの誕生を祝う。その後は盛大なパーティが開かれ、ロストンの国中が一気ににぎやかになる。この国の民にとっては、一年の中で何よりも大切な行事なのである。
 そのため、ロストン聖教国の教皇マンセルとその姪ラーチェルは、この式典の中心となるのだ。
 そして当然、その式典のために前々から準備が行われる。マンセルとラーチェルは数日前からそれにかかりきりであったため、ラーチェルは今日、疲れ切って自室で眠ってしまったのだった。
 式典は厳かに続いていた。マンセルの話が終わると、皆でラトナの像に向かって祈りを捧げる。ラトナの像はとても優しげで微笑んでおり、彼女を象徴する宝石が胸の辺りにはめ込んであるものである。その祈りの儀式が一時間ほど続き、式典はそこで終わる。そこからは、出席した各国の王族・貴族たちで、盛大なパーティが開かれる。
 今はお祈りの途中。ラーチェルはラトナの像に向かって目を閉じながら、お祈りに今ひとつ集中できないでいた。それもこれも、エフラムのせいだ。ラーチェルの恋人であり、ルネス王国の王となったエフラムももちろんこの式典に呼んでいたのだが、式典の最中は全く姿を見せなかった。何かあったのだろうか。不安が募る。
 結局集中できないまま、やっと長い祈りの時間が終わり、マンセルが大聖堂に集まった人々に声をかけると、式典はそこで終わった。続いてパーティの準備が始まり、大聖堂全体に管楽器の美しい音色が響き渡る。ラーチェルもこれ以降は自由になった。
 慌てて広間の方へ駆け下り、エフラムの姿を探した。声を張り上げてエフラムを呼ぶわけにもいかないので、自分の足で探すしかない。
 やっぱり見つからないので少しいらいらしながら探し回っていると、誰かにぶつかった。
「きゃ! ご、ごめんなさい!」
「いえ、私こそ……」
 聞き慣れた声だった。ラーチェルははっとぶつかったその人の方に視線を移すと、見慣れた顔が映った。相手の方も自分に気付いたらしく、一気に顔をほころばせた。
「まあ、ラーチェル! あなただったのですね」
「エ、エイリーク? どうしてここに……」
 ラーチェルは驚いていた。確か、式典に呼んだのはエフラムだけだったはず。エイリークが来てはいけないということはないのだが、てっきりエフラムが一人で来るものだと思っていたので、ラーチェルは戸惑った。
 その戸惑いを察したらしく、エイリークは苦笑してから言った。
「兄上の代理で来たのです。兄上は、事情があって式典には出席できないということでしたから」
「代理? エフラムはどうしましたの?」
「実は私もよく知らないのです。ただ、用事があるから代わりに出席してくれと言われただけで」
「用事……」
 何の用事かは見当もつかないが、ラーチェルは不満げに口を尖らせた。そんなラーチェルを見て、エイリークは再び苦笑する。
「本当にごめんなさい、ラーチェル。ラーチェルにとったら、私より兄上が来た方が嬉しいですよね」
 そう言われて、ラーチェルはぶんぶんと首を横に振った。
「いいえ、エイリーク。決してそんなことはありませんわ。あなたが来てくれて、わたくし、とても嬉しいですもの」
「良かった」
 エイリークは安心したように笑顔を見せ、ラーチェルもそれに応えた。
 ここで長々と立ち話をするのも何だと思ったので、ラーチェルは広間の中央で踊っている一団を指さした。
「エイリーク。よろしかったらあちらで踊りませんこと? エスコートしてくださる男性はたくさんいらっしゃいますから、ほら」
 エイリークは頷いた。
「はい。私はあまりダンスは得意ではないのですが、頑張ってみます」
「そうこなくては、ですわ」
 ラーチェルはふふと笑うと、ダンスをしている一団の中にエイリークを引っ張っていった。すぐに男性たちが声をかけてきて、二人はダンスの一団に加わった。
 美しい調べに合わせて、ステップを踏む。ラーチェルの相手の男性は軽やかにステップを踏み、ラーチェルが踊るのにきちんと合わせていた。ひととおり、貴族としてのたしなみは身につけられているようである。
(きっとエフラムは、こんなふうには踊れませんわね)
 踊っている最中にふとそんなことを思って、ラーチェルはくすくすと笑った。あのエフラムのことだ、槍の腕は達者でも、こういうことは苦手に違いない。エスコートするどころか、ラーチェルに引っ張られっぱなしだろう。そんなエフラムの様子を思い浮かべて、ラーチェルはまた笑った。相手の男性は、ラーチェルが自分とのダンスを楽しんでくれていると思ったらしく、上機嫌だった。
「ラーチェル様、本当に楽しそうですね。嬉しいな」
「ええ、もちろんですわ」
 エフラムの名はここでは決して出さないが、ラーチェルは踊りながら、相手の男性をエフラムと重ね合わせていた。そのたびにエフラムならこうしているだろうという想像が湧いてきて、思わず笑みがこぼれてしまう。
 そうしているうちに一曲終わり、ラーチェルとエイリークはそれぞれの相手の男性に手を振り、その場を離れた。
「楽しかったですわ。久しぶりに踊りましたもの」
「ええ、そうですね。私もなんとか踊れて良かったです」
 二人はそれぞれ感想をもらしながら、大聖堂の外へ出た。外は寒かったが、新鮮な空気が吸えて、胸がすっとした。外は雪がちらついていて、イルミネーションの灯る街を美しく彩っていた。これこそ聖女ラトナの誕生祭にふさわしい光景だ。白い息をはきながら、二人はしばらく空から降ってくる雪を見つめていた。
「きれいですね。本当に華やかで、楽しそうです」
 エイリークは街の様子を見て、感嘆のため息をもらした。
「もちろんですわ。この日は私たちロストンの民にとって、とても大事な日なんですのよ。この日は朝まで踊り明かす民たちもいるのですから」
「そうなんですか、やっぱりすごいですね」
 エイリークはそう言って街の方をしばらく眺めていた。ラーチェルはその傍らで雪を見上げ、微笑んでいた。
 そうしてしばらく経った時だった。エイリークがはっと息を吐き、ラーチェルの肩を軽く叩いた。
「ラーチェル、あれ……」
「え?」
 ラーチェルはエイリークの指さす方向に視線を向けた。その瞬間、ラーチェルはあっと声を上げた。
「エフラム……!」
 そう、街の方から歩いてくる一人の青年、それは確かにルネス王エフラムの姿だった。彼の恋人であるラーチェルや、妹のエイリークが見間違えるはずもなかった。エフラムはゆっくりと、しかし確実にこちらに向かって歩いてくる。何かを両手に包むようにして大事そうに持っている。
 二人がじっとエフラムの歩いてくる方を見つめていると、やがてエフラムが二人に気づき、笑いかけてきた。エイリークはきゅっと唇を結び、ラーチェルは口に手を当てて何も言えないでいた。
 エフラムはこちらにやってくるやいなや、エイリークに軽く頭を下げて謝った。
「エイリーク、すまなかったな。急に代理を頼んだりして。もう用事は終わった」
 エイリークはそうですか、と言った。
「それなら良かったです。式典にはちゃんと出席しておきましたよ」
「助かった」
 エフラムはもう一度軽く頭を下げ、今度顔を上げた時にはラーチェルの方を向いていた。
「ラーチェル、遅くなって本当にすまなかった」
 エフラムに謝られた瞬間、凍っていたラーチェルの思考回路が再び動き出した。
 何故だか、心の底からむくむくと怒りが湧いてくるのを感じた。わたくしをこんなに待たせて、どういうつもりですの。そう言おうとしたが、言葉が喉につかえた。その険悪な様子を悟ったのか、エイリークは私はこれで、と言い大聖堂の中に戻っていった。エフラムは怪訝そうな顔でラーチェルを見つめていた。
「ラーチェル?」
 エフラムが名を呼んだ途端、ラーチェルの口が開いた。
「あなた、どういうつもりですの」
「え?」
「何の用事だったんですの? この行事をすっぽかせるなんて、よっぽど大事な用事だったのですわね」
 とっさに嫌味が出てしまった自分を恥じたが、無論前言撤回などできるはずもなく、ラーチェルはそこで黙った。エフラムは困ったように頭を掻いていた。
「すまない、本当に。そう……大事な用だったことは確かだが」
「言い訳なんて見苦しいですわよ!」
「それは……まあ、そうだな」
 ラーチェルが一喝すると、エフラムは困ったような表情のまま頷いた。
 しばらく無言が続いた後で、エフラムはラーチェルの顔色を窺うようにして尋ねた。
「それでラーチェル、まだ怒っているか?」
「もちろんですわ!」
 ラーチェルがぷいっと顔を横に向けると、エフラムはまた頭を掻いた。
「それなら、どうしたら許してくれるんだ?」
 そうですわね、とラーチェルは言い、大聖堂の中に視線を移した。大聖堂の中では相変わらずパーティが続いている。それを確認して、ラーチェルはエフラムの方に向き直った。
「わたくしと一曲踊ってくださったら、許してさしあげますわ」
 エフラムはそれを聞いた瞬間、明らかに嫌そうな顔をした。
「踊るのか。俺はダンスは得意ではないんだが……」
「まあ! 今あなたが文句を言える状況だと、本気で思っていますの?」
 ラーチェルが信じられない、という顔をすると、エフラムはむ、と唸ってから、しぶしぶ承諾した。
「わかった。なら、行こう」
「そうこなくては、ですわ」
 ほんの数時間前に同じ事を言ったような気がする、と思いながら、ラーチェルはエフラムの腕を引っ張った。
 ちょうど新しい曲が始まったばかりで、まだまだ多くの貴族たちが楽しそうに踊っていた。ラーチェルはエフラムの腕を引っ張ってそこへ向かいながら、そっと彼に聞いた。
「エフラム、ダンスの経験はありますわよね?」
 エフラムは顔をしかめた。
「む……指で数えるくらいしかないが」
 予想通りだった。もう、とラーチェルは口をとがらせながら、エフラムと向き合った。エフラムは何をしたらいいのか分からないらしく、困った表情のままでラーチェルを見つめていた。じれったくなって、ラーチェルは本来男性から手を取るところを、自分からさっと握った。
「ほら、こうして音楽に合わせてステップを踏むんですの。ワン、ツー、スリー……」
「こ、こうか?」
 エフラムは動き出したラーチェルに合わせようとして慌ててステップを踏み、ラーチェルの足を踏んづけてしまった。
「痛っ! ち、ちょっとエフラム、何をしていますの!」
「す、すまない。まさか君の足がここに来るとは思わなくてな」
 慌てて言い訳をするエフラム。先程からずっと困った様子のエフラムを見て、ラーチェルは思わず吹きだした。こんなに困った表情をする彼を、今まで一度も見たことがなかった。怒りはいつの間にか吹き飛び、ラーチェルはしばらく彼を見て笑っていた。
「何がおかしいんだ?」
 少し不機嫌そうに首を傾げるエフラムを見て、ラーチェルは笑いながら言った。
「だって、想像通りなんですもの」
 数時間前に踊った男性をエフラムに重ね合わせていたのを思い出した。想像の中のエフラムは、確かにステップを踏み間違え、そしてラーチェルに引っ張られていた。彼はその間、困った表情やしばしば不機嫌そうな表情まで見せていた。
 そしてその数時間後、本人はここにいる。ラーチェルが想像した通りの表情で。
 ラーチェルはひとしきり笑い、ふふと口元に微笑を浮かべながら言った。
「もう、許してさしあげますわ」
「そ、そうか? それは良かった」
 エフラムはほっとした表情になった。一曲終わらないまま、二人は早々にダンスの一団を抜けた。抜けてから、ラーチェルは安心しきった様子のエフラムに言った。
「でも、やっぱりダンスは練習しなくてはなりませんわ。あなたはわたくしの相手を、これからずっと務めていくのですもの」
 その瞬間、エフラムはまた顔をしかめた。
「それだけは勘弁してくれないか」
 再び見せたその表情を、ラーチェルは存分に味わいながら、ふっと笑った。
「もう、本当に嫌なんですのね。分かりましたわ」
 エフラムはまた安堵の表情を見せたが、ラーチェルの攻撃はまだ終わっていなかった。
「でしたら今度ダンスパーティがある時には、別の殿方と踊ります。わたくしのお相手をしてくださる方なんて、数え切れないほどいらっしゃいますもの、ね?」
「何っ?」
 エフラムは聞き捨てならないといった様子でラーチェルを見つめ、ラーチェルはくすくすと笑い続けている。完全にこちらが優位に立っている。今までは有り得なかったことだ。いつも主導権を握ってきたのはエフラムだったのに、今の主導権はラーチェルに渡っている。おかしなこともあるものだ。
 相変わらず不機嫌そうにしているエフラムの様子を、ラーチェルは見つめながら言った。
「やっとわたくし、エフラムを動揺させることができましたのね」
「え?」
 エフラムは意外そうな顔をしてラーチェルを見た。
「エフラムがあんなに不機嫌そうにしたところなんて、初めて見ましたわ。しかもわたくしの言葉のせいで、ですわよ」
 満足そうにラーチェルがくすくす笑うのを見て、エフラムもやっとそれが冗談だと分かったらしい。安堵のため息をついてから、横を向いて呟くように言った。
「まったく。君といると、本当に退屈しないな」
「あら、そんなふうに言って。本当はわたくしが別の殿方と踊るんじゃないかと、不安だったのでしょう?」
 ラーチェルがそう言って彼の心を突っつくと、エフラムは唸ってからゆっくりと頷いた。
「まあ、それは認める。ここまできて君が他の男と噂になったりしたら、たまらないからな」
 あっさりと認めたエフラムに、ラーチェルは少し恥ずかしくなりながらも、その心はじんわりとした温かみに包まれていた。本当にエフラムは自分のことを思ってくれているのだ。いつもそういう素振りを見せないエフラムがこうして言ってくれるのは、ラーチェルにとってはとても珍しいことであり、また当然ながら嬉しいことでもあった。
 その温かみにラーチェルが浸ってうっとりとなっていると、傍らのエフラムが突然声を上げた。
「ああ――そうだ、すっかり忘れていた」
 ラーチェルが驚いてエフラムの方を見ると、エフラムは一つの小さな箱を取り出してきた。何ですの、と訝るラーチェルに、エフラムはそれを渡した。
「開けてみてくれ。あまりこういうのには詳しくないから、君の好みには合わないかもしれないがな」
 ラーチェルは訝りつつ、箱を開けた。すると箱の中から指輪が出てきたのである。まあ、綺麗な指輪と呟きながら、ラーチェルはそれを手に取って、はっと息を飲んだ。そして慌ててエフラムに尋ねた。
「エ、エフラム、これをどこで?」
「ん? いや、どこでと言われても、街の方で君に似合いそうだからと思って、買ってきたんだが」
 ラーチェルは普通の答えを返されて、少し拍子抜けしながらも指輪をまじまじと見つめた。指輪にある宝石は翡翠のような輝きを持っており、ラーチェルがそれに心を奪われるまで十秒とかからなかった。
「気に入ってくれたか?」
 エフラムが聞いた時にも、ラーチェルは指輪に心を奪われたままで何も言わなかったので、エフラムは苦笑した。
「そんなに気に入ってくれたのか」
 エフラムの言葉にも気づかぬまま、ラーチェルはじっと宝石を見つめていた。見れば見るほど、その宝石は輝きを増すように思えた。
 しばらく見つめた後、ラーチェルはぼうっとした表情のまま、エフラムに尋ねた。
「エフラム、この宝石……この宝石がなんなのか、ご存知でして?」
「いや、知らないが。何か特別なものなのか?」
 ラーチェルは頷いた。
「この宝石は、聖女ラトナ様の象徴の石なんですのよ。ロストンの近郊でしかとれない貴重な石ですの。それだけでなくって、この石のついた装飾品には、もう一つ特別な意味がありますのよ」
「特別な意味?」
「これを殿方が女性に送るということは、とても特別な意味を持っていますの」
 そこまで聞いて、エフラムはピンときたようだ。
「もしかしてこれを渡せば、何も言わずとも、これが婚約指輪だということになるのか?」
 ラーチェルは頷いた。その後、エフラムの様子をちらっと窺った。エフラムはどうやら考え込んでいる様子らしかった。この宝石がこんなに特別な意味を持つと知らずにラーチェルに送ったのだから、驚くのは当然かもしれなかった。
 でも、とラーチェルは一つの希望を持って、一つの問いを口にした。
「エフラムは、その――」
「ん?」
「こ、これを送ったのは、単なるプレゼントとしてなのですわね? も、もちろん特別な意味なんて、何もありはしませんわよね?」
 そう尋ねる。ラーチェルは彼の答えをドキドキしながら待ったが、その答えは思ったよりすぐに返ってきた。彼は首を振ったのだ。――横に。
「俺は今日、君に結婚を申し込むつもりでここへ来た」
 ラーチェルははっとして、エフラムを見つめた。
「俺はもう、君以外の女性のことなど考えることができない」
 エフラムはそう言うと、素早くラーチェルの唇を塞いだ。甘くて深い口づけが、ラーチェルの口腔に濃厚なものを残した。しばらくしてエフラムが離れた時には、ラーチェルの顔は真っ赤になっていた。
「エ――エフラム」
 ラーチェルはまだ赤いまま、言葉を発した。
「わ、わたくしはロストンの聖王女ですわ。そしてあなたはルネスの王――分かってらっしゃるでしょう? わたくしはロストンの正統なる後継者なのです。わたくしに国を置いて、ルネスへ嫁げとそうおっしゃるの?」
 エフラムはすがるような目つきになったラーチェルに、余裕の笑みを見せた。
「俺はそれも考えていた。そこでラーチェル、一つ聞くが、今君の叔父上のマンセル様とゆっくり話す時間はあるか?」
 ラーチェルは大きく目を見開いた。エフラムはそれも想定内だったのだ。だから現教皇を説得できるこの日を選んで、ラーチェルにプロポーズしたのだ。ラーチェルの目からはいつの間にか涙があふれ、唇が細かく震えていた。
 その震えを、エフラムは再び優しく包み込んだ。彼女はずっと震えていたが、しばらくするとその震えもおさまってきた。それを確認してから、エフラムは彼女から顔を離し、彼女の目尻から涙をぬぐった。
「泣かないでくれ、俺が困る」
「そ、そんなこと言ったって……あ、あなたはいつも突然すぎるのですわ! だから……」
 ラーチェルは涙声を隠しきれない様子でそう言った。
 そう、エフラムはいつも突然だった。自分のことが好きだと告白してきたのも突然のことだった。今日のことだってそうだ。エフラムの“突然”はいつ始まるのか想像もつかなくて、ラーチェルの心が追いついていかない。自分が想像していたプロポーズは、もっと美しいものだった――しかし、それは美しすぎて逆に嘘っぽくもあるのを、ラーチェルは薄々気が付いていたのだ。それは否定できない――。
 エフラムはそれきり黙ってしまったラーチェルを優しく見つめ、肩を抱いた。
「……マンセル様のところへ、案内してくれるか」
 ラーチェルは一度ひくと嗚咽をもらした後、こくりと頷いた。


「エフラム」
 マンセルはとっくに自室に戻った後らしく、大聖堂の中にはいなかった。そこへ向かう途中、ラーチェルはエフラムに話しかけた。
「あなたは今日、ルネスに帰ってしまうおつもりですの?」
 ラーチェルの問いに、エフラムは唸った。
「そうだな。今のところはその予定だが」
「そう……」
 ラーチェルはふと寂しそうな声をもらしたが、そのすぐ後、エフラムの腕をきゅっと握って笑顔を見せた。
「もし何も予定がないのなら、ロストンに泊まっておいきなさいな」
「え? ロストンにか?」
 突然の提案に、エフラムは目を丸くした。ラーチェルは嬉しそうに頷いた。
「そうですわ。だってエフラム、あなたあの戦争以来一度もここへ来たことがなかったでしょう。あなたに見せたいものが、ロストンにはいっぱいありますのよ。明日、ロストン中を案内してさしあげます。決まりですわね!」
 勝手に決めてしまった彼女に苦笑しながらも、エフラムは嬉しそうだった。
「そうだな。ロストンへはあまり来たことがなかったから、是非、そうしてもらいたい」
「もちろんですわ。じっくりと案内してさしあげます。楽しみにしていてくださいな」
 ラーチェルはふふと笑って、足を速めた。エフラムも一歩と遅れず、ラーチェルの歩調に合わせてくる。それが嬉しくて、ラーチェルはますます足を速め、エフラムを再び苦笑させるのだった。
「おい、ラーチェル、別に俺は急いではいないぞ」
 だって嬉しいんですもの――ラーチェルはそう答え、ますます早歩きになってエフラムを笑いへ導くのだった。
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