泣きたいときは

 この日は朝から、どんよりとした灰色の雲が空を覆っていた。そんな今にも泣き出しそうな空を見上げ、エフラムは小さくため息をついた。自室の椅子に座り、目の前に積まれている仕事の山を片づけることもないまま、ただ思いを巡らせる。
 親友のリオンが亡くなってから、これで一年が経つ。
 正直なところ、この一年はルネス王国の再興、ルネス王の即位式などの行事や仕事に追われていて、リオンのことをゆっくりと振り返る暇もなかった。今はようやく国も落ち着いてきて、王の仕事にも慣れてきた頃である。そんな時にふとリオンのことが頭に浮かんだのだ。
 親友を失ったことに対する心の傷は、今も残っている。その傷は小さいながらも時々うずき出して、エフラムの心を締め付ける。おそらくこの傷は、一生癒えることはないだろう。近しい人を失った悲しみを小さくすることはできても、それは決して消えることはないのだ。
「リオン……」
 ぽつりと、親友の名を呟く。
 ゴロゴロと空の上で音が鳴り出し、やがて空から多くの雨粒が降ってきた。エフラムの部屋の窓にも雨は打ち付けられ、次第に窓は濡れていく。その雨を見ながら、エフラムは再び小さくため息をついた。
 その時、突然部屋の扉を叩く音がした。エフラムは我に返り、「どうぞ」と外にいる者に声をかけた。
 来訪者はラーチェルだった。てっきり訪問者はルネス騎士の誰かかと思っていたエフラムは、驚いたように目を見開く。
「ラーチェル? 一体どうしたんだ」
 ラーチェルは扉をそっと閉めるなり、ため息をついて言った。
「逃げているんですの」
「は?」
「逃げているんですのよ。早くロストンへお帰りなさいって、うるさいんですもの」
 そのことか、とエフラムは納得した。ラーチェルはこうして度々ロストンからルネスを訪ねて来るのだが、いつも突然にやって来ては、長い間滞在して帰っていくのである。そのために祖国にいる彼女の叔父マンセルに、早く帰ってくるようにといつも小言を言われているらしかった。今日もその理由で、ロストン聖騎士の誰かに追われているということなのだろう。
 エフラムは机の上に肘をついた。
「いいのか? 祖国の方は放っておいても。マンセル様にいろいろと言われているんだろう?」
 するとラーチェルは、心外だと言わんばかりに口を尖らせた。
「あら、別に放っておいているわけではありませんわ。それに他国の視察をすることも大切なことでしょう?」
 いつもこの言い訳だ。他国の視察といっても、滞在期間が長すぎるから問題なのだが。
「俺は構わないが、君のために良くないと思うんだがな」
「余計なお世話ですわ。わたくしは自分の意志でここにいるのですから、それで構わないのです」
 自己中心的な考え方にはあまり納得できないが、ラーチェルらしいといえばラーチェルらしい考えだ。
 別にラーチェルに長期間滞在されたからといって、エフラムに害があるわけでもない。エフラムはこれ以上何も言わないことにして、ただ「そうか」、と頷いておいた。
 雨が窓を打ち付ける音が、だんだん大きくなっている。雨がひどくなっている証拠だ。エフラムは軽く体をひねって再び窓の方に視線を移し、リオンのことを思い浮かべた。その瞬間、ちくりと心が痛んだ。
「どうしましたの?」
 窓の方を向いたエフラムを見て、ラーチェルが尋ねてきた。エフラムは顔だけをラーチェルの方に向け、小さく首を振った。
「いや、なんでもない」
 そう答えたエフラムの顔を、ラーチェルはしばらくじっと見つめていた。ラーチェルの視線を気にしつつもエフラムが窓の外を見続けていると、ラーチェルが口を開いた。
「とても悲しそうな顔をしていますわよ。何かあったんですの?」
 エフラムはどきりとした。自分の顔はそんなに悲しそうなのか、それとも、ラーチェルには何もかもお見通しなのだろうか。エフラムはゆっくりとラーチェルの方に向き直り、ぎこちないながらも口元に笑みを浮かべてみせた。
「別に、何もない。小さなことだ」
 ――それは、エフラムにとって決して小さなことではないのだが。
 ラーチェルは眉根を寄せた。
「やはり、何か悩んでらっしゃるのね? 小さなことだっておっしゃるけど、とてもそんなふうには見えませんわよ」
 ラーチェルは何故か、周りの人間の表情や感情の移り変わりに敏感である。エフラムがそれを指摘すると、あなたが鈍感なだけですわと鋭い口調で言われたこともあるが。
 エフラムは観念し、溜息をついた。
「今更何もないと言っても、信じてはくれないんだろうな?」
「当たり前ですわ。そんな嘘はもう通じませんわよ」
 きっぱりと言うラーチェルを見て、エフラムは口元を緩めた。
「やっぱりか。全く、君は本当によく分かるんだな」
「そんなに悲しそうな顔をしているのに、気づかないことがあるとでも思いまして? 言っておきますけれど、わたくしの前ではどんな隠し事も無用ですわよ」
「ああ、だろうな。こうも見抜かれたのでは、こちらも隠し事をする気になどなれない」
 エフラムはもう一度笑って、すっと顔を引き締めた。それに気づいたのか、ラーチェルもやや緊張した面持ちになった。
「君はリオンのことを覚えているか?」
「ええ、もちろん。忘れるはずがありませんわ」
「……あいつのことを考えていたら、どうしても暗い気分になってしまってな。自分たちのやって来たことに悔いはない。だが、リオンはもう戻ってこない。そのことを考えると、どうしても苦しくなる」
 エフラムは言いながら、思わず胸に手を当てていた。ラーチェルは何も言わなかった。ただ、エフラムを真っ直ぐに見つめていた。
 リオンとエフラムの関係については、ラーチェルもよく知っているはずである。いや、正確にはラーチェルだけではなく、あの時の戦争でエフラムと共に戦っていた者達なら、ほとんどが知っているはずだ。
 エフラムはふいに視線を逸らし、遠くを見るような目つきになった。
「そういえば、あれから一年も経つんだな。ルネスに帰ってきた時、あいつの好きだった森に墓を建ててやったが、それ以来一度も訪れていない……」
 エフラムが呟くように言うと、ラーチェルがやっと口を開いた。
「なら、行くべきですわ」
「え?」
「行くべきですわ、そのお墓に。リオン殿に、今までのことやこれからのことをきちんとご報告に行くべきですわ」
 ラーチェルはきっぱりと言った。エフラムの躊躇いを取っ払って、背中を押すように。
 エフラムはしばらく放心したようになっていたが、やがて頷いた。
「……そうだな。君の言う通りだ」
 その答えを聞いて、ラーチェルは頬を緩めた。
「そうなさいな。今は少し余裕があるのでしょう?」
「ああ、一年前と比べれば余裕はある。そうだな、明日にでも行ってみるか」
「リオン殿、きっと喜ばれますわ」
 エフラムは頷いた。久しぶりに親友に会いに行くのだ。こちらとしても、何か黒いもやが心から取り払われたような、清々しい気分になっていた。
 そうだ、とエフラムはあることを思いつく。
「君も一緒に来ないか?」
 ラーチェルはきょとんとした表情になった。
「わたくしが? でも、あなたが一人で行かれた方がよろしいのではなくて?」
「いや、俺は別に構わない。というより、一人で行くというのもなんだかな、という気はしていたんだ。もし君の都合が良ければの話だが」
 一人で行けば、また暗い気分になってしまうかもしれない。そうなることをエフラムは避けたかったのだ。せめてリオンの前だけは笑顔でいたい。自分に出来る精一杯の笑顔を見せて、自分のことを報告したい。
 ラーチェルは少し考えるような仕草を見せたが、すぐに微笑みを浮かべた。
「わたくしは構いませんわ。あなたとリオン殿のお邪魔にならないのなら、ご一緒させていただきます」
「そうしてもらえると、助かる」
 エフラムは微笑み、頷いた。


 翌日。昨日に降り続いていた雨は止み、空はからりと晴れ渡っていた。
 エフラムは朝食を済ませてから、庭師に頼んで季節の花を何本か切ってもらった。花を抱えてルネス城門に向かうと、既にラーチェルがそこで待っていた。
 エフラムの姿に気づき、ラーチェルは軽く口を尖らせる。
「遅いですわよ、エフラム。レディを待たせるのは礼儀に反しますわ」
「すまない。花を選んでいたのでな」
 ラーチェルはあら、と言って花に目を向けた。
「綺麗な花ですわね」
「ああ、少し派手かとも思ったんだが、綺麗な花だったからな」
 エフラムは花をくすぐるように触れてから、前を向いた。
「さて、行くか」
「そうですわね」
 先を行くエフラムの後を、ラーチェルは歩調を合わせてついてきた。
 リオンの墓のある森までは、さほどかからない。ルネス城のすぐ近くにある森なので、エフラムは幼い頃、何度かそこでエイリークやリオンと一緒に遊んだことがある。その度に帰るのが遅くなって、いつも父王に叱られていたものだ。
 それを思い出して、エフラムはふと寂しい気持ちになった。父王も一年前の戦争の犠牲者だった。父王の墓はもっと別の場所に立派に建っているが、こちらにはこの一年間何度も訪れていた。ルネスへ帰ってきた日、即位式の日――。
 墓の前に立つと不思議なことに悲しい気持ちがすっと消えていくのだが、リオンの時もまた、そうなるのだろうか。
「エフラム?」
 名前を呼ばれて、エフラムはラーチェルの方を振り返った。ラーチェルは怪訝そうな顔をして、エフラムを見つめていた。
「ぼうっとしていましたわよ。大丈夫ですの?」
「ああ、なんでもない。少し父上のことを考えていただけだ」
 それを聞いて、ラーチェルは少し考えるような仕草をしながら言った。
「エフラムのお父上……というと、先代のルネス王、ファード様のことですわね」
「そうだ。父上は、心から尊敬できる人だった」
 遠くを見るような目つきになって、エフラムはそう言った。ラーチェルはふと目を伏せ、歩き始めたエフラムについて歩きながら、呟くように言う。
「皆、戦争で亡くなった人たちですのね。あの戦争で、たくさんの人々の命が失われていきましたのね」
「……そうだな。リオンも、父上もそうだ」
「もうこんなことは繰り返してはなりませんわ。決して」
 ラーチェルの強い意志のこもった声を聞きながら、エフラムは静かに頷いていた。
 昨日の雨で濡れた草を踏み分けながら、エフラムたちは森の中へと入っていく。少し入ったところで、エフラムは石が立てられている場所を見つけた。そこがリオンの墓だ。エフラムはラーチェルに目配せし、その場所へと歩いていった。
「ここだ」
 二人は墓石の前に立った。
 石を立てた時にはなかったのに、草がぼうぼうに生えている。エイリークと二人で立てた小さな墓だから、父王の墓とは違い、誰も管理していないのだ。
 エフラムは石の周りだけでもと思い、持っていた花を傍に置くと、しゃがんで草を引き抜き始めた。
 すると、その横からラーチェルも草に手を出し始めた。エフラムは驚いて思わず手を止めた。
「いいのか?」
 ラーチェルは頷いた。
「構いませんわ。リオン殿のためですもの」
「そうか、すまないな。ありがとう」
 エフラムの感謝の言葉を、ラーチェルは小さく微笑んで受け取ってくれたようだった。
 雑草を引き抜き終えてから、エフラムは花を墓前に供え、墓石をじっと見つめた。
 ここにリオンが埋まっているわけでもなければ、墓石にリオンの名が彫ってあるわけでもない。戦争が終わってから、形だけこしらえただけのものだ。だがエフラムは、リオンが好きだったこの森にどうしても葬ってやりたかったのだ。
「リオン……」
 名前を口にしたことで、エフラムの悲しみが一層大きくなり、心を締め付けた。リオンはもう戻ってこない、この墓はそれを決定的に物語っているようにさえ思えた。
 ふいに、エフラムの目を何かが内側から突くような感覚がした。エフラムは慌てて目を見開き、じっとそれをこらえる。
 こんなところで涙を見せるわけにはいかないと、誓ったはずなのに。
「エフラム? ……泣いているんですの?」
 いつの間にかラーチェルの視線がこちらを向いていることに気付いて、エフラムは内心動揺した。彼女は他人の心情の変化に敏感なところがある。
 エフラムは慌てて笑顔を取り繕った。
「いや、なんでもない。泣いてなどいない」
 そんなエフラムを、ラーチェルはじっと見つめた。エフラムはやはり気づかれたのだろうかと、どぎまぎしながらその視線を受け止める。
 しばらくして、ラーチェルは微笑みを浮かべた。
「エフラム。泣いてもいいんですのよ」
 エフラムははっとした。
「泣いてもいいんですのよ。いえ、あなたは泣くべきですわ」
「な……」
 エフラムは驚きの声を上げた。ラーチェルの金緑色の瞳は、真っ直ぐにエフラムを見据えていた。何もかもを見透かされているような気分になり、エフラムは思わず視線を外した。
「しかし、俺が泣くわけにはいかないだろう。リオンの前で、そんなことはできない」
「どうしてですの? こんなにも悲しそうな顔をなさっているのに?」
 エフラムは再び動揺した。ラーチェルには全てお見通しだったのだ。
 ラーチェルは諭すような口調で言った。
「エフラム。人間は悲しい時にこそ、涙を流すべきなのですわ。悲しみを涙と共に流すために、人間は泣くのです。もし人前では泣くべきではないなどというつまらないプライドがあるのなら、そんなものは捨てておしまいなさい」
 プライド、という言葉に、エフラムははっとさせられた。
 考えてみれば、自分はその“プライド”に泣くことを妨げられていたような気がする。子供の頃から刷り込まれた、ある種の規律ともいえるその“プライド”が、今までエフラムに泣くことを妨げ続けていたのだ。
 人前で泣いてはいけない。悲しい時もそれを表情に出さず、こらえるべきだ――そんな言葉の鎖が、気づかぬままにエフラムの心を締め付けていたのである。
 それに気づかされたエフラムは、一度大きく息をついた。自分を締め付けていた鎖の束縛が、少しばかり緩んだ気がした。
「俺は、本当に泣いてもいいのか?」
「ええ、当たり前ですわ。人は誰にでも、泣く権利があるのですもの」
「そう、か」
 エフラムは呟くように言って、顔を伏せた。
 しばらくして、再び目の内側が刺激される感覚があった。その拍子に嗚咽を漏らしそうになり、エフラムは慌ててこらえた。
 するとラーチェルがエフラムの側に寄り、エフラムを抱き締めた。
 エフラムの顔は、ちょうどラーチェルの左側の肩に乗った。エフラムが驚いて二の句を継げずにいると、ラーチェルが口を開いた。
「こうすれば、わたくしに泣き顔を見せずに済むでしょう?」
 そんな彼女の気遣いに、エフラムは激しく心を揺り動かされた。思わずラーチェルの背中を握りしめながら、エフラムは途切れ途切れに言葉を発した。
「すま、ない……」
「いいえ。思う存分、泣いたらいいのですわ」
 ラーチェルの優しい言葉を耳元で聞いた直後、エフラムの頬に、一筋の涙が伝った。
 リオンへの思い、父王への思い、戦争で亡くした人々への思いが心にどっと溢れ出した。押さえつけていた感情が解き放たれ、エフラムは嗚咽を上げながら泣いた。
 こんなにも泣いたのは、記憶にもない幼い頃以来だったかもしれない。
 ラーチェルは何も言わず、ただただ、エフラムの背を優しく撫でてくれていた。


 ようやく気持ちが落ち着いてきた頃、エフラムは涙を拭い、ラーチェルから離れた。
 泣いた後の顔を見せることに躊躇いはあったものの、今更彼女の前でそんなことを気にする必要もないと思い直し、エフラムは顔を上げた。
「ラーチェル、ありがとう。泣けて、だいぶすっきりした」
 ラーチェルは柔らかな笑みを浮かべた。
「そうでしょう。涙がそのためにあるのだということを、あなたに知っていただけて嬉しいですわ」
「本当に、感謝している。君が言ってくれなければ、俺は一生泣けなかったかもしれない」
 エフラムの心からの感謝の言葉を、ラーチェルはにこりと笑って受け止めてくれた。
 エフラムはリオンの墓を正面から見据え、その光景を心に刻みつけた。ここに来る前のどんよりとした暗い気持ち、悲しい気持ちは、すっかり消え失せていた。
「さて、そろそろ帰るか」
「もういいんですの?」
「ああ。十分にリオンに思いは伝わっただろうし、泣くことも出来た。また近いうちに訪ねるさ」
 ラーチェルは納得したような顔で頷いた。
 エフラムは踵を返し、歩き始めた。リオン、また来るからな――そう呟きながら。
 その帰り道、エフラムはからりと晴れた空を見上げながら呟いた。
「今度も、君と一緒に行けたら嬉しいんだがな」
 ラーチェルは一瞬目を見開いたが、すぐに微笑んだ。
「わたくしは構いませんわよ。その時になったら、呼んでくださればよろしいですわ」
「そうか。なら、そうしよう」
 エフラムは満足そうな笑みを浮かべ、少し歩調を速めながら言った。
「泣きたくなった時は、君の側で泣きたいからな」
「えっ?」
「いいや、なんでもない」
 どうやらラーチェルには聞こえなかったようだ。エフラムはそれでもいい、と思いながら、ごまかした。
 ごまかしはききませんわよ――厳しい口調でそう言うラーチェルから逃げようと、エフラムはますます歩調を速めるのだった。
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