残り香

 それは朝日の差し込む大広間で、朝食を取っていた時のことだった。
 給仕の者たちを除けば、ここにいるのはエフラム、エイリーク、そして客人であるラーチェルだけである。
 朝食は極めて静かに、まるで何かの儀式であるかのように行われていた。それはエフラムの眠気が覚めないままだったせいもあるし、マナーに厳しい者たちが、おしゃべりを許さなかったせいでもある。
 グラスに注がれた水を口に含んだ後で、ふと、かぐわしい香りが漂ってきたのに、エフラムは気付いた。
 これはかりかりに焼かれたベーコンの香ばしい匂いでも、ぴりりときいたスパイスの香りでもない。何か食べ物とは違うもの、例えば花のような――
「兄上、どうかなさったのですか?」
 いつの間にか、手を止めてぼうっとしていたらしい。
「いや、大丈夫だ」
 心配そうな視線を向けるエイリークに、エフラムはそう言って首を振った。
 それでもなお、エフラムは考え続けた。この香りの正体は、一体何であるのか。考えても考えてもわからない。嗅いだ事のない匂いなのだから、当然といえば当然なのだが。
「そういえば」
 エイリークが、思い出したように口を開いた。
「今日はいつもと違う香りがしますね。香水を変えたのですか?」
 エイリークの視線は、いつの間にかエフラムではなく、客人であるラーチェルに向けられていた。香水、という言葉を、エフラムは口の中で反芻した。そうして、やっと合点がいった。この匂いは香水の匂いなのだ。
 ラーチェルは微笑みを浮かべて、音を立てずにフォークを皿の上に置いた。
「よく分かりましたわね、エイリーク。先日行商の者が、新しい香水だと言って勧めてきましたのよ。わたくし、それをとても気に入りましたの」
 ラーチェルの笑顔は爽やかそのものだ。エイリークが気付いてくれて、余程嬉しいのだろう。
「ああ、それでか。妙な匂いがすると思った」
 思わずそう言った瞬間、ラーチェルの険しい視線がエフラムを突き刺した。エイリークが慌てたように、エフラムをたしなめた。
「あ、兄上! そんな言い方は――」
「構いませんのよ。どうせ、エフラムにとっては、どんな香水も"妙な"匂いなんですもの」
 穏やかにエイリークをなだめるラーチェルの口調は、しかしどこか素っ気ない。さすがのエフラムにも、この程度の皮肉は理解できた。
 ちくりと、心が痛む。だが、所詮その程度だ。こんなやりとり、遠まわしな皮肉を使わなくとも、幾度となく経験している。特に、このラーチェルという女性との間では。
「嘆かわしいことですわ。女性の香水の良さにも気付けないようでは、いつまでたってもルネスの王妃は不在のままですわね」
 更なるラーチェルからの攻撃。エフラムは苦笑しながら、それをやんわりと受け止める。
「どうせ、今は忙しいんだ。妃を娶るにはまだ早い」
「そんなことはありませんわ。妃がいないということは、跡継ぎがいないということですのよ。理解していらして?」
「まあ、それはそうだが」
 エフラムがしぶしぶ認めると、ラーチェルは少し満足したのか、再びフォークを取って食事の続きを始めた。
 だからといって、どうしろと言うのだ、とエフラムは思った。エフラムに対し、是非自分の娘をと勧めてくる貴族は多いが、いまいち乗り気になれないのだ。後継ぎのためだけに、適当に選んだ女性と結婚するのは、エフラムの本意ではない。せめてその時期と相手に関する選択権くらいあっても良いのではないかと、エフラムは思う。
 ラーチェルの本意は定かではないが、今のラーチェルは、やたらとエフラムに小言をいう重臣たちのようだ。エフラムは少しばかりうんざりした。
 その後、誰も話すことのないまま、朝食は静かに終えられた。


 朝食を食べたばかりだというのに、エフラムにあくびの衝動が襲う。瞼が落ちそうだ。まいったな、とエフラムは苦笑した。目の前の机の上には、相変わらず、書類が山積みになっている。全てに目を通し、判を押すよう、ゼトに言われたものばかりだ。
 とりあえず一番上の書類を手に取り、文章の初めから目を通す。数十字読んだところで、頭が落ちそうになる。エフラムは頭を振って、自分の頬をぴしゃりと叩いた。だが、それだけで目覚められたら苦労はしないわけで、エフラムの瞼は、意に反して、どんどん重さを増してゆく。
 その時、執務室の扉が叩かれた。あくびを噛み殺しきれないまま、どうぞ、と言った。
 入ってきたのは、ラーチェルだった。途端に、エフラムの肩に、どっと疲れが襲う。ラーチェルとの小気味よいやりとりも、自分が元気でさえあればやる気になるのだが、今は疲れが増してゆくばかりだ。
 エフラムの様子がおかしいのに気づいたのか、ラーチェルは怪訝そうな顔をした。
「まあ、エフラム、一体どうしましたの? 気分が悪いんですの?」
「ああ、いや……眠くてな」
 そう言えば、きっと、ラーチェルはため息をつくのだろうと思った。呆れた顔をして、エフラムに書類を叩きつける。この程度でへばっていて、王の仕事が務まると思っていますの。眠気なんて、吹き飛ばしておしまいなさい――まるで厳しく律する重臣のように、そう言うのだと。
 だが、ラーチェルの反応は、そのどれでもなかった。怪訝そうな瞳が、心配そうな色に変わった。
「ずいぶん、お疲れですのね。今日はもう、お休みになってはいかがですの?」
「え……」
 予想外の反応に、思わず間抜けな声を出してしまった。
「この間から、少しやりすぎなのではないかと思っていましたのよ。体を休めることも、大切なことですわ」
「あ、ああ……」
 全く、調子が狂う。エフラムは大きく息をついた後、微かに笑い声を洩らした。
「まあ、何がおかしいんですの?」
「いや、なんでもない。なら、君の助言通り、今日は休ませてもらうことにしよう」
 エフラムがそう言うと、ラーチェルは微笑んだ。
 その時、窓の外からふわりと風が吹いてきて、あの匂いを運んできた。ラーチェルの香水の匂いだ。エフラムの鼻腔をくすぐって、なんとも言えない思いにさせてくれる。
「良い、匂いだな」
 エフラムが本心からそう言うと、ラーチェルは目を丸くした。間違いなく、驚いている顔だった。
「朝わたくしが言ったことを、気にしてらっしゃるんですの?」
「いや、そうじゃない。本当にそう思ったんだ」
 エフラムがそう言うと、ラーチェルは口元に微笑みを広げた。こちらも、本心から喜んでいるような表情だった。
「そ、そう言っていただけて、とても嬉しいですわ」
 そう言ったラーチェルの頬が、微かに赤らんでいるように見えた。おや、とエフラムは首を傾げた。
「ラーチェル、君も熱があるのか? 顔が赤いが……」
 一瞬にして、ラーチェルの顔が引き締められた。打って変わって、今度はエフラムを睨みつけてくる。
「なっ、なんでもありませんわ。さあ、早く、ベッドにお入りなさい」
 エフラムの一言で態度の変わってしまったラーチェルを怪訝に思いながら、こういうことはよくあることだ、とエフラムは自分を納得させることにした。
 執務室の隣にある寝室へ行き、言われるままにベッドに入る。
 自然と、ラーチェルを見上げる体勢になった。いつもはどちらかというと、やや視線を下にして見る方なのに、今日は逆だ。エフラムはそれを新鮮に思った。ラーチェルの顔は、心配そうな色を宿していた頃の表情に戻っている。
 ラーチェルが布団をかけてくれると、そこで起こった微風と共に香水の匂いが漂ってきた。心が安らいでいくのを感じた。
「ゆっくりお休みなさい。あなたは疲れているのですもの」
「ああ……」
 答えながら、瞼が閉じてゆく。
 心底、この香水の匂いを愛しいと感じていることに気付いたのは、意識が沈む直前のことだった。


 底に沈んでいた意識が浮上してきて、目にうっすらと天井が映る。次の瞬間、エフラムははっと目を開けていた。布団を跳ねのけて部屋を見渡すと、窓から真っ赤な夕日が差していた。部屋全体が、暖かなオレンジ色に染められている。
 いつの間に寝室に来ていたのか――エフラムは慌てて執務室へ向かった。
 執務室に入り、机の上に視線を移したエフラムは絶望した。仕事が一つも片付いていないではないか。これではゼトに何と小言を言われるか分からない。
「まずいな……」
 そんなエフラムの心を安らげてくれたのは、執務室に残ったあの香りだった。その正体に、エフラムはすぐに気付いた。間違えるはずもない。今日、初めて嗅いだばかりなのだから。
「ラーチェル……」
 ラーチェルがいた辺りに顔を向けると、微かにその匂いが強くなった。この匂いが、何故こんなにもエフラムの心を安らぎの気持ちで満たすのか分からなかった。同時に、ラーチェルの顔が強く思い出された。
 ふと、ラーチェルが恋しくなった。
「ラーチェル、どこにいるんだ」
 再び、扉を開けた。部屋と部屋を繋ぐ廊下が果てしなく遠くまで繋がっている。寝起きのぼんやりとした頭で、ここからラーチェルの部屋までどう行けばいいのか、考えることは困難だった。あてもなく、ふらふらと、歩き出す。
 その時、廊下の向こうから人がやってくるのが見えた。あれはゼトだ。まずい、とエフラムは思った。咄嗟に体を隠そうとしたのだが、無駄だったらしい。ゼトはエフラムの姿を認めると、すぐに駆け寄ってきた。
「エフラム様!」
 エフラムは目を逸らし気味に答える。
「あ、ああ……ゼト」
「私がお渡しした分の書類、目を通されましたか?」
「あー……それが……」
「していらっしゃらないと?」
 ゼトの声が氷のように冷たくなった。エフラムははあ、とため息をついた。こうなったら逆らえない。ゼトは感情を込めず、ただ淡々と小言を言い続けるのだ。それが全て道理にかなったものなのだから、元々言葉で論ずることが苦手なエフラムは、どうあっても太刀打ちできないのである。
 しぶしぶ、エフラムは執務室に戻ることにした。ゼトが後ろからついてくるのが、足音で分かった。
 エフラムの机の上に置かれた手づかずの書類を見て、ゼトは目を瞠った。数秒後、口から溜息が洩れる。
「エフラム様、今日までにとお願いしたはずですが」
「すまない。その、眠気に勝てなくて……こんな時間まで、寝ていた」
「なんと」
 ゼトが驚いたような声を上げる。当然の反応だろうと、エフラムは思った。
「お疲れなのは重々承知しておりますが、どれも大切なことですので」
「ああ、分かっている。すまなかったな、ゼト」
「いえ」
 ゼトはそう言って、ぴたりと足を揃え、エフラムに礼をした。その時、ふと何かに気づいたように、顔を横に向けた。
「どうした?」
「いえ……何か、かぐわしい香りがしたものですから」
 香水のことを言っているのだろうと、エフラムはすぐに分かった。
「ああ。ラーチェルの香水だそうだ」
「ラーチェル様の?」
 ゼトは驚いたように目を見開いた後、考え込むような顔になった。
「しかし、これは……微かですが、記憶があります」
「知っているのか? 何の香水なのか」
 エフラムが身を乗り出すと、ゼトは頷いた。
「先代の王妃様の――エフラム様の、お母様のつけておられた香水では」
「母上の、だと?」
 今度はエフラムが驚く番だった。同時に、だからか、と合点がいった。女性の香水のことなど何も分からず、何が良いかもわからないエフラムが、こんなに心惹きつけられていたのは、そのせいだったのだ。
「ラーチェル様は、知っておられたのでしょうか」
「さあ、な」
 エフラムは曖昧な答えを返す。だが、なんとなく、ラーチェルは知っていたような気がした。あの王女は、ただ騒がしいだけの女性ではない。本当は賢くて、聡明な王女だ。
「とりあえず、書類の方、できる限りお願い致します。エフラム様」
「ああ。すまなかったな」
 ゼトはもう一度一礼して、エフラムの部屋を去って行った。


 眠ったおかげか、エフラムはそれなりにスムーズに書類を読み進めることができた。一枚、また一枚と、机の下に山が作られていく。
 数十枚目の書類を手に取った時、エフラムはふと、寂しくなった。こんな気持ちになるのは初めてだった。椅子を押しやり、立ち上がって、朝ラーチェルが来たところまで歩いた。辺りに少し顔を近づけただけで、またあの香りが漂った。なんとも言えない気持ちになった。
 母の香り。微かだが、エフラムにも記憶がある。優しい人だった。決してエフラムを叱らず、いつも微笑んでいた。そんな母も、エフラムとエイリークがまだ幼い頃に病で亡くなってしまったから、記憶がおぼろげなのだ。だが、体はきちんと、その香りを覚えていたようだ。
 ラーチェルがそれを知っていたとして、一体彼女は、何がしたかったのだろうか。
 エフラムの意識は、いつの間にか母からラーチェルの方に移っていた。香りとともにはっきりと思い出されるのは、彼女の笑顔だった。穏やかに微笑む顔。少し強気な色を宿した顔。険しい顔――笑顔の後に、彼女の表情が次々と移り変わった。
 今日のラーチェルは、朝食の時はともかく、エフラムに睡眠をとることを勧めた時は、まるで母のようだった。エフラムを律することもなく、ただ優しく休息を促した。それは意外であると同時に、エフラムの心に平安をもたらすものだった。
 それに、彼女を恋しいと思ったのも、今日が初めてのことだった。いつもは必要としなくてもエフラムのところへ来るものだから、彼女が自分のところへ来るのが当たり前のように感じていたし、むしろ鬱陶しいとさえ感じることもあった。それなのに、今は違う。ここに何故ラーチェルがいないのかと、腹立たしい気持ちにすらなってくる。
 こんな香り一つで、自分が惑わされているとは――エフラムは苦笑した。これが母に縁のあるものだったとはいえ、こんなふうにラーチェルを求める心が自分の中で強かったなど、思いもしなかった。
 よく、香水を付けて男性の気を引く女性、という話を聞いたことがあるが、エフラムもその男の一人だったということなのだろうか。
「やられたな」
 エフラムは額に手を当て、自嘲気味に笑った。


 一通り仕事が終わったところで、エフラムは執務室を出て、ラーチェルに割り当てられた客間に向かった。
 扉をノックすると、どうぞ、と高い声が返ってくる。エフラムはゆっくりと扉を開けた。同時に、ふわりと、あの香りが漂ってきた。
 ラーチェルは来訪者を笑顔で迎える準備をしていたようだが、エフラムの姿を見て、驚いたように目を見開いた。
「まあ、エフラム! もうお体の方は大丈夫なんですの?」
「ああ、なんとかな。君が俺に眠るよう言ってくれたおかげだ。仕事もだいぶはかどった」
 ラーチェルは安心した表情になった。
「それは良かったですわ。それで、わたくしに何か御用ですの?」
「ああ、そのことなんだが」
 エフラムは一呼吸置いて、ラーチェルに尋ねた。
「君が付けているその香水、どこで手に入れたものなんだ?」
 ラーチェルはきょとんとした表情を浮かべた。
「どこって……今朝、行商の者から手に入れたと、お話ししたはずですけれど」
「ああ、質問が悪かったな。君は、その香水が俺にとってどういう意味を持つのか、知っていたのか?」
 ラーチェルの目が、はっと見開かれた。質問の意図が掴めたらしい。
 更に、そこから分かることがある。ラーチェルは、間違いなく、この香水がエフラムの母の付けていたものだと知っていた――
「気付かれましたのね」
 ラーチェルは微かに目を伏せてそう言った。ああ、とエフラムは頷いた。
「正確にはゼトが気付いたんだがな。俺も、ようやく思い出した」
「そうでしたの」
「ラーチェル、君はどこで知ったんだ?」
 エフラムが更に尋ねると、ラーチェルは化粧台へ歩いてゆき、香水の透明な瓶をそっと持ち上げた。
「行商の者が持ってきた品物を見ている時、横にいたルネスの侍女が気付きましたのよ。これはかつて、先代の王妃様が付けていらした香水だと」
「なるほどな」
「わたくしを軽蔑されるのでしょうね、エフラム」
 ラーチェルはエフラムから視線を逸らし、横を向いた。だが、すぐに首を振って、無理やりに笑顔を浮かべた。
「いいえ、あなたはきっと、わたくしの意図には気付かないわ。そう、そうですわ。わたくし、あなたたち兄妹を喜ばせようと思いましたの。あなたたちのお母様の匂いのするこの香水を付ければ、お母様を懐かしく思い出されるのではないかと思って」
「ほう……?」
 エフラムは首を傾げた。そんな理由で、わざわざこのラーチェルが、母と同じ香水を付けたりするだろうか。
 それに、ラーチェルの言い方も気になる。"わたくしの意図"とは、一体何なのか。エフラムは、それに薄々感づいていた。自分の心境の変化も手伝ってのことだった。
「ラーチェル、教えてくれ。君は何を思って、その香水を付けたんだ?」
「で、ですから、エフラムとエイリークを喜ばせようと思って――」
「嘘はいいんだ。教えてくれ、君の本当の気持ちが聞きたい」
 ラーチェルはぐっと口をつぐんだ。視線をさまよわせ、何と言ったらいいのか迷っている様子だった。もし、エフラムが考えていることが、ただの自惚れでなければ、ラーチェルは――
 しばらくして、自分で黙っていることに耐えかねたように、ラーチェルは口を開いた。
「わたくし、貴方の気を引くには、どうすればいいのか分かりませんでしたの」
 ただの自惚れではなかったようだ。
「だから、俺の気を引こうと?」
「そ、そうですわ。だって貴方、戦いか仕事以外のものに興味を持たれる様子がありませんでしたもの!」
 ラーチェルの顔は真っ赤で、熟れたトマトのようだった。その後、ラーチェルはうなだれて、エフラムから顔を逸らした。
「でも、わたくし、卑怯でしたわ。エフラムとお母様との思い出を利用するなんて。もっと正々堂々と勝負すべきだったのですわ」
 ラーチェルの両手が、ぎゅっとドレスを掴んだ。
「わたくしのことを、軽蔑、したでしょう? エフラム」
「いいや」
 エフラムは即座に首を横に振った。意外だとでも言うように、ラーチェルがゆっくりと顔を上げた。
「軽蔑なんてしない。むしろ、感謝しているくらいだ。母のことを、思い出させてくれたのだから」
 それに、とエフラムは苦笑しながら付け加えた。
「どうやら君の思惑は、成功していたらしいぞ」
「そ、それって、どういう――」
「こういうことだ」
 エフラムはラーチェルを抱きしめた。ラーチェルの手からことりと香水の瓶が落ち、床に転がった。
 再びあの匂いが、エフラムの鼻腔をくすぐった。酒を飲んだわけでもないのに、エフラムの頭が快さでくらくらと揺らいだ。香水には人を酔わせる力がある。エフラムはそれを、身を持って知ったのだ。
「どういうわけだろうな、この匂いを嗅ぐたび、君の顔が頭にちらついて離れないんだ」
「そ、そ、それは……!」
「そこでラーチェル、相談なんだが」
 彼女の首許に唇を寄せて、囁くように言う。
「もう少し、いやもっと、ルネスに滞在していてくれないか?」
 ひくり、とラーチェルが息をのむ音が聞こえた。
「か――構いませんわ。た、頼まれたら、断るわけにはまいりませんもの」
「そうか。じゃあついでに、もう二つ三つほど頼みたいことがある」
「な、なんですの?」
「もう少し、こうしていてもいいか?」
「なっ……!」
 ラーチェルはきっともっと真っ赤になっているだろう、それを想像してエフラムは思わず笑い声を洩らした。
 だが、彼女の抵抗する様子は見られない。許可をもらったということでいいのだろうな、と、エフラムは勝手に判断することにした。
「それからもう一つ。君にキスをしてもいいか?」
「そっ、そんなこと……!」
「嫌か?」
 エフラムがそう尋ねると、ラーチェルは黙った。その後で、ぽつりと呟く声が洩れる。
「い、嫌だなんて、言えるわけ、ないじゃありませんの……」
「そうか、なら――」
 エフラムが顔を引こうとすると、ラーチェルが強く言った。
「でも! 物事には、順序がありましてよ。わたくし、エフラムから何も聞いていませんわ。わたくしのことをなんとも思っていない男が、わたくしにキスをするなんて、許されることではありませんわ! そうでしょう?」
「ああ、そうだったな。すっかり忘れていた」
 エフラムが笑い声を出すと、ラーチェルは怒ったように言った。
「忘れるだなんて! 忘れていいことではないでしょう!?」
「すまない」
 エフラムは謝ってから、言葉を続けた。
「そうだな、俺はラーチェルのことが好きだ。君にずっと、傍にいて欲しいと思うくらいにな」
 手を下ろしていたラーチェルが、そっと腕を上げて、エフラムの背を掴んだ。エフラムも、ラーチェルを抱く腕に力を込めた。二人の体温が肌の上で混ざり合う。
「き、許可、しますわ」
「えっ?」
「で、ですから! 貴方がわたくしの唇に触れること、許して差し上げると言っていますの!」
 怒ったような口調。だが、ラーチェルが照れていると思えば、それさえ可愛く思えた。
 本当は可愛い女性なのだ。素直にしていれば。だが、その素直でないところさえ、エフラムには快く感じるほどになってしまっていた。
「そうか、ありがとう」
 エフラムはふっと笑い、顔を引いた。ラーチェルの顔は、想像した通り、炎のように熱く、真っ赤に染まっていた。そんな彼女を愛しく思いながら、ラーチェルの唇に自分のそれを重ね合わせる。
 エフラムの鼻腔には、いつまでも愛しい香水の匂いが残っていた。
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