月夜の告白

 ルネスに滞在して数日経ったある夜、ラーチェルは部屋から中庭に出た。
 夜の冷たい空気が、ラーチェルの肌を刺す。薄い絹の寝間着を纏っているだけだから、一層寒さが身にしみた。上着を羽織ってくれば良かったと後悔したがもう遅い。腕をさすり、ラーチェルは小さくため息をついた。
 月の光が中庭を照らし、草花が淡く光っている。その風景も美しいと思いながら、今のラーチェルにそれを楽しむ心の余裕はなかった。
 ふと、ラーチェルをこうさせる原因となった、昼間の出来事が頭に蘇る。
 ルネス王エフラムは未だ妃を娶っていない。そのことを気にする者たちは周りに多いらしく、ラーチェルが偶然目撃しただけでも数回、騎士や貴族たちはエフラムに妃を娶るよう進言していた。その時のエフラムの返事は、決まってこうだった。
「今はまだ、妃を娶るには早い」
 国の、世界の情勢が安定しなかった間は、その言葉に言い返せず引き下がる者が多かった。だが、エフラムがルネス王となってもう一年になる。思ったよりも早く国が復興し、情勢も安定してくると、その言い訳も通らなくなってくる。
 そしてついに、今日の昼のこと。ラーチェルはまたしても、偶然その場面を目撃することになった。エフラムの執務室の前を通った際、その言葉が聞こえてきたのだ。
「エフラム様。どうかお世継ぎのこともお考えになって、妃を娶られては――」
 何度も聞いたことのある台詞だ。扉越しでくぐもっているせいで、男だということ以外声は判別できなかった。
 その答えとして、エフラムはいつも通り、まだ早いと返すものだと思っていた。だが、ラーチェルの予想は外れた。しばしの沈黙の後、エフラムは思いがけない言葉を口にしたのだ。
「そうだな。そうしよう。早いうちにな」
 ラーチェルは思わず息を呑んだ。
 悔しいながらも、この瞬間、ラーチェルはエフラムに恋愛感情を抱いていたことを、認めざるを得なくなった。
 エフラムは朴念仁で、細やかな気遣いのできない男だが、指揮官として、また王として、人々を惹きつけ引っ張ってゆく実力は充分にある。最初は彼の欠点が目に付いたラーチェルも、戦場で付き合いを重ねていくうち、次第に彼に惹かれていった。
 当然、その相手のエフラムが妃を娶るという話を聞いて、心中穏やかでいられるはずはない。
 このままエフラムの執務室に入り、真相を確かめようと考えたが、はしたなくも盗み聞きをしている手前、堂々と尋ねるわけにもいかない。ラーチェルは騒ぐ胸を抑えられぬまま、自分の部屋として使っている客間へ戻らざるを得なかったのだった。
 そのせいで、今日は心が落ち着かなかった。夜になってベッドへ潜り込んでもなかなか寝付くことができず、ラーチェルは気分転換になればと外へ出てきたのだった。


「ラーチェル」
 その時、後ろから突然声が聞こえ、ラーチェルは驚いて振り返った。そこには今まさに考えを向けていたその人、エフラムが立っていた。
 ラーチェルはあまりの驚きに、大声を上げそうになった。
「な、な、な、なんですの!」
 エフラムは普段着に、暖かそうなマントを羽織って、こちらを見つめていた。ラーチェルが口を覆い、警戒した目を向けると、エフラムは苦笑した。
「そんなに驚かないでくれ。驚いたのはこっちの方なんだから」
「な、何がですの?」
「こんな夜にそんな格好で中庭に出るなんて、どんな物好きかと思ってな」
 ラーチェルはエフラムの物言いに腹が立って、言い返した。
「も、物好きとは失礼な! あなたもここにいる時点で、人のことは言えませんわ!」
「はは。まあそれはともかく――」
 エフラムは一旦言葉を切って、ラーチェルに探るような視線を向けた。
「君は本当に物好きなのか? それとも、何かあったのか?」
 ラーチェルの心臓が跳ね上がる。確かに、こんな時間に外に出ている人物を見て、不審に思わない者はいない。何かあったと考える方が普通だ。それが知っている相手ならば、余計に。
 エフラムの何もかも見透かすような視線に耐えられなくなって、思わず目を逸らした。そうした時点で、何かあったことを認めているようなものだったが、ラーチェルはそうして沈黙を守り通すことくらいしかできなかった。
 エフラムは小さく息を吐いた。
「何かあったんだな。エイリークに何か言われたのか。それとも、侍女たちか、騎士か? 国のマンセル様から、何か便りがあったのか?」
「い、いいえ、違いますわ」
「それなら、俺か。俺が君に何か言ったか?」
 否定できなくなって、ラーチェルは口をつぐむ。その後で、エフラムの納得したような声が聞こえた。
「やっぱり、俺が原因なのか。教えてくれ、俺に非があったなら謝る」
 ラーチェルはおそるおそる、エフラムの方へ顔を向けた。なおも、エフラムの真っ直ぐな視線はラーチェルを貫いている。
 その視線を受けることを耐え難く思いながら、ラーチェルはゆっくりと口を開いた。
「わたくし、聞いてしまいましたの。貴方が昼間、話していたことを」
「昼間?」
 疑問の声を発した後、エフラムは納得した表情に変わる。
「ああ。もしかして、妃を娶るという話か?」
「え、ええ、そうですわ。だから――」
 衝撃を受けましたの、と続けようとして、ラーチェルははっとなった。そうすれば、エフラムに対する気持ちを認めてしまうばかりか、それをエフラムにまで知られることにならないか。
 ラーチェルは素早く考えを巡らせた。そうして、苦しいながらも見つけた言い訳を、口にした。
「そう、そうですわ! わたくし、ずっと考えていたんですのよ。エフラムが婚礼の式を挙げることになったなら、どのような物を贈れば良いのかと」
「物?」
「婚礼の式に何を贈るかということは、とても大切なことでしょう?」
「そんなことを考えていたせいで、君は今こんなところにいるのか?」
「そ、そうですわよ。何か問題がありまして?」
 ラーチェルがやや睨みながら苦しい言い訳を通すと、やれやれ、といった様子でエフラムは首を振った。
「君が言った話が本当だとするなら、悪いが、無駄であったと言わざるを得んな」
 ラーチェルは思わず目を見開いた。
「む、無駄って、一体どういうことですの!?」
「そうだな、何故なら――」
 エフラムは言葉を切って、思わぬことを言い放った。
「俺が結婚を申し込もうと思っているのは、君だからだ」


 一瞬、ラーチェルは息が止まるかと思った。あまりの衝撃に、言葉が出てこない。もしかして自分は聞き違えたのではないか。そう思って、ラーチェルは震える声で尋ねた。
「エ、エフラム、今、なんて――」
「俺は君に、結婚を申し込もうと思っている」
 はっきりと通る声で、エフラムはもう一度言った。ラーチェルの全身が震えた。
「じ、冗談は……冗談は止めてくださいまし」
「俺が冗談を言うような男に見えるか?」
「で、でもそんな、急に、どうして」
 動揺しながらもなんとか疑問を口にすると、エフラムは答えた。
「以前から考えていた。妃の話は、何度もされていたからな。俺としてはあまり考えたくない問題だったが、そうもいかないと思い始めた。そこで真っ先に浮かんだのが、君のことだったんだ」
 エフラムは少しだけ唇を曲げて、微笑みを浮かべた。
「君とは以前から付き合いもあったし、よくルネスを訪問してくれていた。君の突拍子もない言動には呆れたこともあったし、随分振り回されたものだが、王となって様々な重圧に耐えなければならなかった俺には、それがむしろ救いだった」
「エフラム……」
「君が俺のことをどう思っているかは知らないが、俺の気持ちに偽りはない」
 エフラムは微笑みから一転、獲物を狙う猛獣のような鋭い目を見せた。
「君が俺のことをどうとも思っていないなら、その気にさせてみせる。君にもし、他に好きな男がいるなら、正々堂々と勝負するつもりだ。どうだ?」
 こういう強引な物言いは、いかにもエフラムらしい。ラーチェルはその目に、逃れられぬ何かを感じた。
 同時に、逃れるつもりもなかった。エフラムに告白される前から、ラーチェルの心はエフラムに囚われていた――ずっと、共に戦っていた頃から。
「貴方は、ずるいですわ」
 薄い寝間着の袖を握って、呟くように言う。
「何もかも、急すぎるんですわ……わたくしが貴方の言動に振り回されたことが、一度や二度だと思いまして? いつも、いつもそうなんですわ!」
 戦場で傷を癒すと言ったとき、前触れもなくそのたくましい肩をむき出しにしたこと。いつも返事が同じだったエフラムが、急に妃を娶ると言ったこと。そして、何の前触れもなく、ラーチェルに結婚を申し込んできたこと――
「悔しい思いばかりしてきましたわ。わたくしが他人に翻弄されるなんて、初めてのことでしたもの!」
「だが、それは俺も同じだ。ずっと、君に振り回されっぱなしだったんだから」
 エフラムは苦笑しながらそう言って、袖を握ったままのラーチェルの手を取った。びくんとラーチェルの肩が跳ね上がったが、エフラムは構うことなく、その手を解きほぐした。
「それでも俺は、そのことがきっかけで君が好きになった。君もそうなんじゃないか?」
「なっ……!」
 ラーチェルはわずかに抵抗するように手を引いたが、エフラムの力は強く、放してくれる気配はなかった。観念して、ラーチェルはエフラムから視線を逸らした。
「ど、どうしてそんな結論に持って行けるんですの、貴方は! 強引で、気遣いの欠片もなくて――」
「そうだな。だが、俺は君に選択肢を与えていないわけじゃない」
 エフラムはそう言うと、ラーチェルの手を引いて一気に自分の胸の中へ引き寄せた。小さな悲鳴を上げた後、ラーチェルはエフラムの顔が至近距離にあることに気付いて叫び声を上げそうになる。心臓がこれまでにないくらい速く脈打っている。
「君が嫌なら、俺から逃げればいい」
「あ、貴方が手を放さないから、嫌でも逃げられませんわ!」
「そうか。なら、これでいいか?」
 そう言うと、エフラムはあっさりとラーチェルの手を放した。ラーチェルは驚いて、エフラムの顔をまじまじと見つめる。
 エフラムは笑いをこらえるようにしながら、言葉を続けた。
「どうした? 逃げないのか」
 逃げられるわけがない。ラーチェルは真っ赤になりながら、エフラムを睨んだ。
「あ、貴方は、本当にずるい方ですわ!」
 エフラムは再びラーチェルの手を握り、くつくつと笑った。
「それで、どうなんだ? 俺と結婚するという話は」
「わっ、わたくしは、ロストンの正当なる後継者なのですわよ。それでも――?」
「それでも、だ。もとより覚悟はできている。都合がつけば、ロストンを訪問して、マンセル様と話をしようと思っている」
 真剣な口調で話すエフラムの碧い瞳に、ラーチェルは一瞬引き込まれそうになった。彼の瞳はいつも、先の先まで見通しているのだ。戦いの時も、そして、今も。そんなことに、ラーチェルは改めて気付かされなければならなかった。
「本当に、いいんですのね?」
「ああ。その覚悟がなければ、君に言ったりしない」
 ラーチェルはもう、抗うようなことはしなかった。小さく息を吐いて、自分の中の妙なプライドを捨て去る。
 改めて、エフラムの瞳を見つめた。彼の瞳に自分が映っていることに気付いたとき、不思議な安心感を覚えた。
「ラーチェル、俺は君を愛している」
「わたくしも……わたくしも、貴方を愛していますわ。エフラム」
 どちらからともなく、二人は唇を重ね合った。
 真夜中の今、二人のことを見守っていたのは、ただ天に浮かぶ明るい月だけだった。
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