ルネスの滞在から、数日経ったある日。ラーチェルはエフラムの執務室の扉を叩いていた。
部屋と廊下を隔てた扉を見つめる彼女の顔は、どこか思い詰めたような表情だった。普段の彼女をよく知る人がその顔を見たなら、きっと驚くことだろう。ラーチェルらしくもない、一体何があったのか、と。
確かに、自分らしくはないとラーチェルも思っていた。別れを告げるためだけに、わざわざこの男の部屋を訪れるなど。
だが、しなければならないことだ。この男に、そして自分の気持ちに決着をつけるためにも。
「誰だ?」
部屋からくぐもった声が聞こえてきて、ラーチェルは一瞬俯いたが、はっと顔を上げて自身の名を告げた。
「ラーチェルですわ。今、よろしくて?」
「ああ、ラーチェルか。構わない、入ってくれ」
エフラムの声は、今のラーチェルにとってはとてものんきなものに聞こえた。ラーチェルがこれから告げることなど知るはずもないのだから当然だが、ラーチェルは少しばかり苛々した。
部屋に入ると、エフラムは机の上に置いてある書類を読んでいる最中だった。ラーチェルが入ってくるのに気付くと書類から顔を上げ、ラーチェルを迎えた。ラーチェルは慎重に扉を閉めると、エフラムを半ば睨むようにして見た。
その表情を、エフラムも不審に思ったらしかった。
「ラーチェル、一体どうしたんだ。そんな怖い顔をして」
「わたくし」
ラーチェルは小さく息を吐いて、高鳴る心臓を抑えようとした。この言葉を発するのは、とても勇気がいることだった。
「わたくし、ロストンへ帰りますわ」
エフラムの目が大きく見開いた。
ラーチェルが本来いるべき場所はロストン聖教国である。だから、彼女が故郷であるロストンへ帰ること自体は、別段驚くことではないはずだ。
だが、このラーチェルという聖王女に限っては、例外だった。ラーチェルは度々ルネスを訪問しては帰って行くのだが、その滞在期間が長いのだ。今回のように数日で帰ることは、この場合、全くの例外といえる。
「ロストンで、何かあったのか?」
そう尋ねるエフラムの目は、為政者の目だった。ロストン聖教国という国単位で何かあったとするなら、それはルネス王エフラムにとって、関係のない出来事ではなくなるからだろう。
だが、ラーチェルは首を横に振った。
「いいえ。これはわたくしが決めたことですわ」
「君が?」
「ええ。ついでに言えば、もう、ルネスに来るつもりもありません」
「何?」
エフラムの声がやや大きくなった。
それはラーチェルにとっても苦渋の選択だった。あの戦乱のすぐ後くらいに、ラーチェルはこの男に対する思いをはっきりと自覚していた。だからこそ自分のわがままを通してルネスに押しかけ、長期間滞在もした。
少しでも、この男の気を引くことができたら。それが容易ではないということは、重々承知していた。エフラムはあの通りの性格だし、色恋沙汰に興味があるとも思えない。それでも、少しでもこちらに振り向いてくれる可能性があるなら、とラーチェルは思った。ラーチェルはそれに、全てをかけたのだ。
だが、それも失敗に終わった。ラーチェルを迎えるエフラムの対応は、客人を迎える時のそれと全く変わらなかった。いつも、ロストンへ帰ると言っても名残惜しそうな表情一つ見せず、「そうか。今度はいつ来るんだ」と尋ねてくる。
ラーチェルは悔しくてならなかった。この男にとって、自分がルネスを訪れることは既に決定事項なのだ。次も来るのだろうかと不安な思いに駆られることなど、決してないのだ。ラーチェルの側は、言葉にできない不安な思いをいつも抱えていたというのに。
だから、決意した。もうルネスへは来るまい。そしてエフラムへ抱いていた思いもきれいさっぱり忘れてしまおう、と。そうしなければ、不安でならなかったのだ。
「わたくし、叔父様の跡を継がなければなりませんの」
できる限りの平静な声で、ラーチェルはそう言った。
「ご存知でしょう? わたくししか、ロストンを継げる者はおりませんのよ。いつまでもふらふらとしているわけにも参りませんわ」
エフラムは何かを言いたそうにしていたが、何も言わず、ラーチェルを見つめていた。
「わたくしの、その後の跡継ぎのことも考えなければなりませんわ。ご存知? わたくし、ロストンへ帰れば引く手あまたですのよ」
「……それは知らなかったな」
「そうでしょうね。よく気の利いて、女性の扱いを心得てらっしゃるような方たちばかりですのよ。そうそう、勿論、ダンスも得意ですわ。貴方と違って」
「そうか」
ラーチェルは以前、ルネスの王城で行われたパーティを思い出していた。国内の貴族たちや親しい王族を呼んだ、華やかなものであった。その時ルネスに滞在していたラーチェルも、無論客人として招かれ、参加した。
その時、ラーチェルはエフラムを試しにダンスに誘ったのだ。ラーチェルの気持ちを知っているエイリークの後押しもあって、嫌々ながら、エフラムはラーチェルの手を引いた。
だが、彼の足はうまく回らなかった。それどころか、ラーチェルの足を踏みつけ、ラーチェルを怒らせた。ダンスの基本的なステップくらい、マスターしておくべきですわ――そう言うラーチェルに、仕方ないだろう、とため息をつくエフラムの姿が、今でも鮮明に思い出される。
当てつけだった。だがその当てつけにも、エフラムは動じる様子を見せなかった。悔しいと思うと同時に、やっぱり、とラーチェルは確信した。この男は、自分のことを全く恋愛対象として見ていないのだ。
「そういうわけですわ。お分かりになりまして?」
ラーチェルが突き放すように言うと、エフラムがすっと顔を上げた。
「理解は、した」
「そうですの。それでは、わたくしはこの辺りで――」
「だが、納得はしていない」
エフラムはがたんと音を立てて立ち上がった。ラーチェルが驚く間もなく、エフラムは机の脇から出てきて、ラーチェルの前に立った。ラーチェルの目が、はっと見開かれた。
「不満があるなら、聞く。言ってくれ」
「ふ……不満、ですって?」
何という今更の問いだ。今更、ラーチェルをなだめて帰させないつもりなのか。その手には乗らない、とラーチェルはエフラムを睨み付けた。
「ありませんわ。あると思うなら、自分で考えなさい!」
そう言い放つと、ラーチェルは外へ出て行こうとした。
だが、エフラムに強く手を掴まれ、それも叶わなくなった。エフラムはラーチェルを自分の方に引き寄せると、息をする間もなく、ラーチェルを抱きしめた。
心臓が止まるかと思った。ラーチェルはそこから逃れることもなく、抵抗する間もなく、エフラムに両手を回されたのだった。
「いっ、今更、何をするんですの!?」
「そうだな、確かに今更と言われても仕方がない。君の不満は、俺が何も言わなかったこと。そうではないか?」
「なっ……!」
逃げようと、もがいた。だがエフラムの力は強く、ラーチェルをそう簡単に解き放ってくれそうにはなかった。
「聞いてくれ。俺は――」
エフラムがそう言いかけた時だった。コンコン、と扉を叩く音が聞こえ、二人は同時に扉の方を振り返った。
「エフラム様。よろしいでしょうか?」
ゼトの声だった。今大声を出せば、きっと自分は助かる。ラーチェルはこれ幸いとばかりに、声を張り上げようとした。
「ゼト、助け――んむっ!」
乱暴に口を手で塞がれ、ラーチェルは扉のすぐ横に連れて行かれた。扉が開けば、ちょうど死角になる場所だ。口を塞いだのは、言うまでもなくエフラムだった。人差し指を唇の前に立て、しい、と息を漏らす。
「黙っていてくれ。今、ゼトに気付かれると厄介だ」
「んんんんーっ!」
精一杯声を出そうとしてみるが、塞がれている状況ではこれがやっとだった。だが、まだ抵抗を諦めたわけではなかった。
「んんっ、んんー!」
なおも声を出そうとするラーチェルに、エフラムは小さくため息をついた。
「頼むから、黙っていてくれ」
そんなことできるわけがない、と言おうとした、その時だった。
エフラムの手の束縛が解かれたかと思った瞬間、別のものがラーチェルの唇を塞いでいた。
ラーチェルの体が震えた。唇に当たる柔らかい感触。そして至近距離に、エフラムの顔があった。
「エフラム様、失礼します」
その時、ちょうどゼトが扉を開いて中に入ってきた。
「エフラム様? 一体どちらに……」
部屋の中を見回すゼトに感づかれるまいと、二人はそのまま息を押し殺していた。
初めての口づけだった。少なくともラーチェルの側には、その経験は一切なかった。だからこそ、ファーストキスに甘い幻想を抱いていたのだけれども、それがただの幻想であったことを、ラーチェルは思い知った。
触れている場所から、唾液の音がする。その音を聞きながら、ラーチェルは、一刻も早くこの状況から逃げ出したかった。体が熱くなって、どうにかなりそうだった。だが抵抗しようにも、ラーチェルの手はエフラムにがっちりと掴まれていた。
この距離ではゼトに感づかれるかもしれないと思ったが、ゼトは扉の裏まで覗こうとはしなかった。
「どちらに行かれたのだろうか、まだ仕事があるというのに」
そう呟くように言うと、ゼトは扉を閉めて外へ出て行ってしまった。
同時に、ラーチェルの唇は束縛から放たれた。ラーチェルは肩を上下させて、空気をいっぱいに吸い込んだ。先程まで、生きた心地がしなかった。
「ふう……また、嫌味を言われるのだろうな。まあ、仕方がないか」
独り言のように呟いた後、エフラムはラーチェルの方を向いた。
「すまない、経験がないからな、上手くはできなかった。君を好いている男たちのように」
ラーチェルの皮肉を、エフラムはそのまま返した。ラーチェルは怒り心頭だった。
「も……もっと、言うべきことがあるのではありませんの!? わ、わたくしの唇を許可なく奪ったこと、ただでは済まされませんわよ!」
そう言えば、エフラムは少しでもひるんでくれるのではないかと思った。だが、エフラムは表情一つ変えなかった。
「ただでは、か。では、どうすれば許してもらえるんだ?」
「なっ……」
思いがけない言葉が返ってきた。ただただ謝って許しを請うとか、そういうことをするのではないかと思っていた。
ラーチェルは衣服の裾を握りしめた。破れるかと思うくらい強く握りしめた後、顔が真っ赤になっていることを自覚しながら、言い放った。
「な、なら、責任を取りなさい! こ、この罪は重いんですのよ!?」
「そうか、わかった」
エフラムはあっさりと頷き、再び、思いがけないことを口にした。
「君がそう言ってくれるのを待っていた」
「な……なんで、すって?」
ラーチェルの力が抜けていくのを感じた。衣服の裾がしわしわになって、ラーチェルの手からこぼれ落ちていった。
エフラムは唇の端を上げて、笑みを浮かべた。
「俺が行き当たりばったりで、君に口づけをするような男だとでも? その責任、一生をかけて背負うことにしよう。先程の口づけは、その印だ」
信じられなかった。エフラムには、全て計算済みだったというのだ。先に考えて行動することが苦手な彼が、こんな行動を取るとは思いもしなかった。
エフラムはまるで勝ち誇ったかのような笑みを浮かべていた。全ては、エフラムの手中で踊っていただけ。ラーチェルはまた、衣服の裾をぎゅっと掴んだ。悔しい。悔しい。こんなはずではなかったのに。自分は別れを告げに、ここに来たはずなのに。
「い、一生と、そう言いましたわね?」
「ああ、一生だ。一生では、不満か」
「不満ですわ! 死んでも責任を取ると誓いなさい!」
「墓に入っても、というわけか。分かった。そうしよう」
ラーチェルの要求をあっさりと受け入れて、エフラムは笑う。悔しい。だが、どうにもならないことを、ラーチェルは思い知った。何より、エフラムのことを好いている自分の心までは、偽ることができないのだった。
――きっと、もう逃げられませんのね。わたくしは、エフラムから。
ラーチェルは諦めたように、天井を仰いだ。けれど、その唇には、微笑みが浮かんでいた。