「ふう……」
ゼトに言われた書類に目を通しながら、エフラムは朝からため息をついていた。紙の上の文章に目を通しているつもりなのに、気が付くと目の前に彼女の姿がちらついている。
エフラムは読むのを諦めて机の上に書類を置き、椅子に背を預けた。視線の行くまま見た天井は真っ白で、ますます鮮明に彼女の顔が浮かび上がった。
エフラムはため息をついて、視線を下に戻した。
今日、朝食を終えて、ゼトに書類を渡された後のことだった。執務室に入ろうとしたエフラムを、ラーチェルが呼び止めてきたのだ。
「何か俺に用か?」
「ええ。わたくしこれからロストンへ帰るので、ご挨拶に来ましたの」
エフラムは目を丸くした。
「突然だな。何かあったのか?」
「いいえ、そういうわけではありませんわ。けれど先日、叔父様からお手紙が来たものですから、顔を見せに戻った方が良いと判断しましたの」
「なるほど」
ラーチェルはロストン聖教国の聖王女である。本来ならば叔父である現教皇マンセルの跡を継ぎ、ロストンを治めねばならぬ立場だ。
だが彼女は戦が終わってからというもの、足繁くルネスに通うようになっていた。それがあまりに頻繁で、また長期の滞在が多いために、ロストンの方は放っておいても構わないのだろうかと、エフラムは内心やや気がかりだった。ラーチェルが全く気にする素振りを見せないものだから、なおのことだった。
だが、その点が気がかりであるとはいえ、彼女の訪問は素直に嬉しかった。王となり、慣れぬ仕事に追われるエフラムにとって、彼女の存在は何よりも癒しだった。出会った頃はマイペースな性格に戸惑いを覚えることも多かったが、慣れた今となっては逆に愉快で、彼女の想像も付かないような思いつきや話を楽しんでいる自分がいることに、エフラムは気が付き始めていた。
そのラーチェルが、ロストンへ帰るという。寂しくなるな、とエフラムは思った。ラーチェルのいない日常の方が本来はエフラムの日常であるはずなのだが、既にラーチェルは、妹のエイリークや部下のゼトたちと同じように、エフラムの日常になくてはならない存在になっていた。
「それで、また来るのか?」
彼女が肯定することを無意識に期待しながら、エフラムは尋ねた。
だが、その言葉は何故か彼女の怒りを買ってしまったらしかった。ラーチェルは急に顔が険しくなり、エフラムをじとりと睨んだ。
何故彼女が突然そんな態度を見せたのかまるで分からず、エフラムは戸惑った。
「どうして、わたくしがまた来るとお思いなんですの?」
ラーチェルはあからさまにため息をついた後、鋭い眼光でエフラムを射た。
「わたくしも暇ではありませんのよ。そうそう何度もルネスを訪問できるわけではありませんわ」
有無を言わせぬ口調だった。エフラムはその威圧感に呑まれて、言葉を発することができなかった。
だが、エフラムは内心首を傾げた。今まで何度もルネスを訪問しておいて、今更それはないだろう――そう、一瞬口に出しかけて、言葉を飲み込んだ。これ以上自分が何か言えば、彼女の怒りを焚きつけることは間違いなかった。
「それでは、失礼いたしますわ」
ラーチェルは短くそう言うと、くるりと背を向けて去っていってしまった。初め呼び止められた時とは、恐ろしいと感じるほどに、その声色が全く違っていた。
エフラムは呆然と、彼女の後ろ姿を見つめていた。追いかけて彼女の怒りを解こうという思いすら、その時は抜け落ちていた。
再び机の上の書類に目をやり、エフラムは小さくため息をついた。今からまだ帰る支度をしているであろう彼女を追って、機嫌を直すことを考えないではなかった。だが、どうしてもそうする気分にはなれず、エフラムの思いは宙に浮いたままだった。
自分が顔を見せたら、彼女はまた、あの険しい目で自分を見るのではないだろうか。できることなら、それは避けたかった。
その時、執務室の扉がノックされ、エフラムは顔を上げた。一瞬ラーチェルかと思ったが、その予想は外から聞こえた声によって破られた。
「兄上、よろしいですか?」
エイリークだった。エフラムは残念なようなほっとしたようなよく分からない気分を味わいつつ、構わない、とエイリークに声をかけた。
扉から入ってきたエイリークは、一枚の紙をエフラムに差し出した。
「ゼトから、これを兄上にと頼まれました」
紙を手渡され、エフラムは書面をまじまじと見つめる。ゼトに朝渡されたのと同じような書類だった。また、仕事が増えた。内心ため息をつきながらも、エイリークに礼を言い、エフラムはやや冗談ぽく尋ねた。
「ゼトにお使いに行かされたのか?」
「いいえ、私が申し出たのです。ちょうど兄上の部屋に行く用があるからと」
「俺に、何の用だ?」
今朝ラーチェルに尋ねたのと同じような質問をすると、エイリークが言った。
「ラーチェルがロストンへ帰るという話は、ご存知ですか?」
ラーチェルという名前に心がずきりと痛んだものの、エフラムは頷いた。
「ああ。今朝、ラーチェルが言いに来てくれた」
「そうですか。ラーチェルは私のところにも言いに来てくれたのですが、ただ……」
「ただ?」
「様子がおかしかったのです。どことなく、よそよそしいような」
エフラムには思い当たることがあった。自分に言いに来た後でエイリークのところへ行ったのならば、彼女がよそよそしかったのは間違いなく、自分とのやりとりのせいだろう。
エイリークはエフラムの顔を覗き込むようにして、尋ねてきた。
「兄上、何か心当たりはありませんか?」
「いや……」
妹に話すべきか迷い、止めた。これは自分で解決すべきことではないのかという思いが頭をもたげた。エイリークにぼやいたところでどうにもならないだろうし、余計な心配をさせるわけにもいくまい。
エイリークは解せないといった表情で、そうですか、と小さくため息をついた。
「もうラーチェルはルネスに来てくれないような、そんな気がして……気のせいだといいのですが」
「ああ、そうだな」
平静を装いつつも、エフラムの心には不安が生まれていた。エイリークが感じた不安は、先程まで自分が感じていた不安と同じものだった。
ラーチェルが、もうルネスを訪問することはないかもしれない。それはエフラムにとって恐ろしいことだった。ラーチェルの欠け落ちた日常は、ひどくつまらないものに思えてならなかったからだ。
考えれば考えるほど、思考が暗い場所へと落ちていく。エフラムはかぶりを振った。
「兄上、お疲れですか?」
「いや……」
反射的に否定したエフラムだが、エイリークの方は、兄の様子をただごとではないと思ったらしかった。エイリークは部屋を見回して、たった一つだけある窓に視線を向けた。
「長い間換気をしていないのでしょう。窓を開けて、気分を変えてみてはいかがですか?」
部屋の中に淀む空気を、エイリークも感じ取っていたらしい。彼女の提案は、いくらかエフラムの心を安らげてくれるように思えた。
「ああ、そうだな。そうしてくれ」
エフラムが承諾すると、エイリークは頷いて、窓を開けてくれた。
新鮮な空気と共に、明るい陽光が差し込んでくる。エフラムは深呼吸をして、空気を肺いっぱいに吸い込んだ。確かに心地よかったが、期待に反して、エフラムの気分はさほど変わらなかった。
エフラムが今日何度目かのため息をついた、その時だった。
前触れもなく、開けた窓から突風が舞い込んできたのだ。
「きゃ!」
窓の近くにいたエイリークが髪を押さえ、声を上げた。と同時に、机の上に置いてあった一枚の書類が突風にあおられて舞い上がり、ひらひらと窓の外へ飛んでいってしまった。
エフラムは一瞬の出来事に、ただ呆然としていた。しばらくして、とんでもないことが起こったのだということに気付いた。エイリークも同じことを思ったようで、青ざめた顔で窓の外を見た。
「あ、兄上、申し訳ありません、私のせいで……」
エイリークの声は震えていた。余程責任を感じているのだろう。
確かに窓を開けたのはエイリークだが、それを承諾したのは他でもないエフラムだ。エイリークが責任を感じる必要などない。エフラムは首を横に振った。
「いや、お前のせいじゃない。こうなることは予測しておくべきだった」
エフラムは椅子から立ち上がった。出ていこうとするエフラムに向かって、エイリークはまだ震えたままの声を出す。
「兄上、取りに行かれるのでしたら、私が……」
「いや、いい。俺が行ってくる」
代わりに行こうとするエイリークを制止して、エフラムは執務室を出た。
全く、今日はどうしてこうも悪いことばかり起きるのか。自分の日頃の行いが悪いせいなのか。自分のせいなのか、他人のせいなのか、それすらエフラムには分からない。
(……ああ、全く)
エフラムは廊下を歩きながら、忌々しげに息を吐いた。
執務室の窓の位置から考えると、あの書類は城の庭に落ちたはずだ――エフラムは城を出て、庭に向かった。書類がもっと遠くへ飛ばされていないことを祈りながら。
庭師によって刈り揃えられた草木の間を抜けて、煉瓦の敷かれた道を歩き、エフラムは目をこらした。青々とした芝生か、黄土色の地面の上にあれば、白い紙が映えてよく分かるはずなのだが――エフラムはひしひしと迫ってくる絶望感を味わいながら、必死に紙を探した。
そして、ふと何気なく顔を上げたとき、エフラムは心臓を鷲掴みにされたかのような驚きを味わった。
少し離れたところにある広葉樹の下にラーチェルが立っていて、しかも彼女はまさに今エフラムが探していた、その白い紙を手にしていたのだ。
「ラーチェル、それは……」
エフラムが声をかけると、ラーチェルが驚いたように振り返った。
「まあ、エフラム」
「それは、そこで拾ったのか?」
「ええ。ひらひらと、わたくしの目の前に落ちてきましたの」
何という偶然だろう。だが幸運な偶然だ。エフラムは溜まっていたものを吐き出すかのように、大きく息をついた。同時に、この上ない安堵感がエフラムを包み込んだ。朝、ラーチェルといざこざがあって気まずくなっていたことすら、忘れるほどだった。
ラーチェルはそんなエフラムの顔と書類とを交互に見た後、納得したような表情になった。
「やはり、これ、あなたのものでしたのね」
「ああ。すまないが、返してもらえないだろうか」
エフラムが手を差し出すと、彼女はすんなりと書類を渡してくれた。
「落としたんですの?」
「いや、飛んで行ったんだ。突風が吹いて」
ラーチェルはまあ、と言った後、小さくため息をついた。
「窓を開けるときには、気を付けなければなりませんわ」
「その通りだな。うかつだった。君が持っていてくれて良かった」
エフラムがそう言うと、ラーチェルはまじまじとエフラムの手にある書類を見つめた。その様子は何かを考え込んでいるようにも、放心しているようにも思えた。
「ラーチェル?」
エフラムの呼びかけで我に返ったラーチェルは、かぶりを振って、急に真剣な表情になった。
「わたくし、これが偶然だとは思えませんわ」
「は?」
「この紙は、来るべくしてわたくしのところに来た……そんな気がいたしますの」
ラーチェルは大まじめで言っているようだが、エフラムには意味が分からなかった。内心首を傾げていると、ラーチェルは顔を上げ、真っ直ぐにエフラムの瞳を見つめた。
「わたくし、ちょうど、エフラムに会いたいと思っていたところでしたのよ」
ラーチェルの意外な告白に、エフラムは目を見開いた。もう顔も見たくない、そんな雰囲気が、あの時の彼女からは暗に醸し出されていたというのに。
ラーチェルは長い睫毛を伏せて、申し訳なさそうな表情すら見せていた。
「今朝のこと、反省しておりましたの。わたくし、勝手に怒って、あなたを困らせてしまって……本当に、申し訳ありませんでしたわ」
ラーチェルの謝罪に、エフラムは言葉を失っていた。彼女が自分から謝ってくるなどとは思いもしなかったからだ。
自分が謝らなければ、彼女の怒りはきっと収まらない。だが何と言って謝ればいいのか。エフラムはそのことばかり考えていた。だが、どうやらそのことは考えなくても良かったようだ。
エフラムはほっとして、息をついた。
「俺も、君を怒らせるようなことを言ってすまなかった。そんなつもりで言ったわけではないんだが……」
「ええ、分かっておりますわ。わたくしが勝手に悪い方へ解釈していただけなんですもの」
「そうか。分かってもらえて良かった」
二人に降り注ぐ陽光のように、しみじみと温かい気持ちが満ちてゆく。
わだかまりの解消した穏やかな表情で、二人は向かい合った。
エフラムは今更ながらに、彼女が今朝ロストンへ帰ると言っていたことを思い出した。書類を探すのに必死で気にも留めていなかったが、城門に彼女の馬車が止まっていたような気もする。
「今から、帰るのか?」
「ええ。最後に貴方とお話しできて良かったですわ。エイリークにもよろしくお伝え下さいね」
「ああ」
一呼吸置いて、もう一度、あの質問を投げかける。
「また、来てくれるのか?」
ラーチェルは、今朝とは打って変わって微笑みを浮かべた。
「ええ。また訪れてもよろしくて?」
「もちろんだ。歓迎する」
「それでしたら、約束いたしますわ。また必ず、ここを訪れると」
「そうか、良かった」
エフラムは自然と微笑みを見せていた。しみじみと温かい気持ちが、心に満ちてゆく。
彼女がまた来ると約束してくれた。つまり、エフラムの日常に、彼女はまた戻ってきてくれるということだ。それがこんなにも嬉しいことだなんて、今まで気付かなかった。
エフラムは安堵のこもった息を吐こうとして、ラーチェルの言葉に制止された。
「けれど、エフラム」
「何だ?」
「好機が訪れたら、その時に捕まえなくてはなりませんわ。そうでなければ、もう二度とその好機は巡ってこないかもしれませんわよ?」
それはあまりに唐突で、そして謎めいた言葉だった。
一瞬、エフラムの頭の上に疑問符が踊った。ラーチェルが何を言いたいのか分からなかった。何か、そう、まるでエフラムの苦手なたとえ話をしているかのようだった。
だが、このたとえ話は普通のたとえ話とは違う。それはエフラムの見過ごせない単語が含まれているという点だ。好機、そして捕まえるという言葉――エフラムは素早く考えを巡らせた。
好機を逃さぬことに関しては、エフラムは誰よりも自信を持っていた。エフラムが戦いの場において、窮地に陥りながらもなんとか切り抜けてこられたのは、勝機を見逃さなかったからだ。何に対してのものであれ、好機を逃すことはエフラムのプライドが許さない。
軽く手を振って城門へ向かおうとするラーチェルの背に、エフラムは言葉を投げた。
「ラーチェル、次ここへ来るまでに、考えておいて欲しいことがあるんだが」
「なんですの?」
体を翻したラーチェルに向かって、エフラムは続ける。
「君が永遠に、このルネスに留まることだ」
ラーチェルははっと息を呑んで、口を覆った。
対するエフラムは微笑んでいた。彼女の言う好機を掴み取った、確実な自信があった。
「エフラム、それは……」
「君のいない日常など、俺にはもう考えられないんだ」
ラーチェルが去ってから訪れるはずの、退屈な日々。それを考えただけでため息をつきたくなった。今日の彼女とのやりとりで、エフラムはやっと気付いた。自分はもう、ラーチェルなしには生きられないのだと。
「エフラム、本当に、本気ですの?」
「ああ。俺は嘘を言わないし、君の言う好機を逃すのも許せない性分なんだ」
ラーチェルはしばらく驚いたような表情でエフラムを見つめていた。ラーチェルの瞳は揺らいでいるように見えた。だが、ラーチェルの瞳の中に自分が映っているということもまた、事実だった。
ふっと気付けば、ラーチェルの顔がエフラムの目前に迫っていた。瞳ばかりを見つめていたせいで、気付かなかった。エフラムが目を見開くと、ラーチェルは睨むように眉根を寄せる。
「遅すぎるんですわ、貴方は」
一瞬の後。
軽く、彼女の柔らかい唇が頬に触れた。滅多なことでは動じないはずのエフラムの心臓が跳ね上がった。
それは一瞬のキスであったはずなのに、エフラムの頬に熱い感触を残していた。
「考えておきますわ。それと」
ラーチェルは照れたように、くるりと体を翻した。
「さっきのは、わたくしをさんざん待たせた罰ですわ」
エフラムは去っていくラーチェルの後ろ姿を見ながら、先程唇の触れた頬にそっと手を当てた。熱い感触はまだ残っていて、エフラムの頬を責めていた。
これが、罰。エフラムはふっと笑いを洩らした。自分の前で素直にものを言わない彼女らしい言葉だ。
だが、とエフラムは思った。これは確かに罰であるかもしれない。焼けそうなくらいの熱い感触を残したまま、何ヶ月も彼女の来訪を待たなくてはいけないのだ。果たして自分に、それが耐えられるだろうか。
「ロストンへ行くことも、考えなければならないな……」
エフラムは真っ青な空を仰いで、苦笑した。