敗北宣言

 窓から差し込む朝日のせいで、エフラムは目が覚めた。ゆっくりと目を開けかけて、刺すような光の眩しさに目を細める。
 体を起こすと、物音に気付いたラーチェルがエフラムの方を振り返った。ラーチェルは鏡台の前に座って、髪を梳いている最中らしかった。
「目が覚めまして?」
 ややぼんやりとした頭で、エフラムはああ、と頷く。その後で、ゆっくりと彼女の身体を眺めた。下着だけを身に付けた彼女は、身体の線がくっきりと浮き上がっていて、とても艶めかしい姿に思えた。
 視線に気づいたらしいラーチェルが、腕で体を隠すようにして、顔をほのかに赤らめた。
「な、何を見ていらっしゃいますの?」
「……ああ、すまない」
 エフラムは謝って、ラーチェルから視線を外した。その後、頬を染めたラーチェルの表情を思い出し、エフラムは小さく笑った。
「まあ、何がおかしいんですの?」
「いや……さっきの君の顔が、可愛かったからな」
「なっ、何をおっしゃいますの、あなたは!」
 ラーチェルは明らかに動揺した様子で、エフラムから顔を背けた。エフラムはますます笑みを深めた。
「分からないな、君が恥ずかしがる理由が。俺と君は夫婦ではなかったのか?」
「ふ、夫婦だって、恥ずかしいことはあるのですわ!」
 ラーチェルはぷいとそっぽを向いた。エフラムはくつくつと笑いながらベッドから下りると、何気なくラーチェルの方へ近づいた。
 ラーチェルはふと鏡に映ったエフラムの姿を見て、ひっ、と悲鳴を洩らした。すぐさまエフラムの方を振り返ると、怒ったような顔で抗議した。
「あ、あなた、そんな格好で出てこないでくださいな!」
 叫ぶように言った後で、側にあった大きめのタオルをエフラムに投げつけた。それをまともにくらって、エフラムは思わずうわっ、と声を上げる。
 投げつけられたタオルを握った後、エフラムは自分の身体を見つめた。そこでようやく、ラーチェルが“そんな格好”と言った意味が分かった。
「あ、ああ……すまない」
「あ、謝るのはいいですから、早く何か着てくださいまし!」
 ラーチェルは顔を背けたまま怒るような声を出した。絶対にこっちを見ようとしない彼女を見て、エフラムはやれやれ、とため息をついた。
 先程も言ったが、自分とラーチェルは夫婦のはずだ。先日国を挙げての豪華な結婚式も行われたし、それ以来、寝室を共にしている。なのに何故、こうも不必要に騒ぎ立て、恥ずかしがる必要があるのか。こうした態度を取るラーチェルを可愛いとは思うが、それでも程度を超えるとうんざりしてくる。
 下着を探して穿きながら、エフラムは不満げに呟いた。
「全く、そこまで騒ぎ立てる必要はないだろう……」
「なっ、何か言いまして?」
「……いや、なんでもない」
 はっきりと不満を口にすることもできたが、起きたばかりでこれ以上面倒に巻き込まれるのは勘弁したいので、エフラムは口をつぐむことにした。
 ラーチェルは再び鏡に向かい合って髪を梳き始めた。鏡を通して見られる彼女の姿は、色っぽく、艶めかしいものに思えた。緑の髪が梳かれる度にふわりと持ち上がるのを見て、エフラムは自身の手を見つめ、昨夜撫でた、その柔らかな髪の感触を思い出した。同時に、彼女のきめ細やかな肌の感触も思い出された。
 そうしていつの間にか、また彼女を鏡越しに見つめていたらしい。やがて、そのことに気付いたのか、ラーチェルがエフラムを振り返った。
「な、なんですの? そ、そんなに見ないでいただけます?」
 ラーチェルは頬を赤らめ、やや険しい視線を向けていた。
 エフラムは先程と同じように、すまない、と謝って視線を逸らせば良かったのだが、そう言ってその場をやり過ごすのには、もううんざりしていた。
「何故だ?」
「な、何故って……それは」
「恥ずかしいから、か?」
 エフラムはラーチェルに近づくと、後ろからラーチェルを抱きしめた。鏡に映ったラーチェルの目が、大きく見開かれる。エフラムはそっと、ラーチェルの首許に顔を寄せた。
「君が恥ずかしいのは何故だ? 俺が嫌いだからか?」
「な、何故、そういう話になりますの!?」
「違うのなら、そこまで騒ぎ立てる必要などないだろう?」
 エフラムの熱い息が、ラーチェルの首にかかる。ラーチェルはややその束縛から逃れるような仕草をしながらも、強くはねのけるようなことはしなかった。
 高ぶる気持ちを抑えようとするように、息を吐き、
「逆、ですわ……」
「逆?」
 ラーチェルはエフラムにもその熱さが伝わってくるくらいに顔を真っ赤にして、呟くように言った。
「す、好きだから、余計に……恥ずかしいのですわ……」
 エフラムの至近距離で発せられたその言葉を、聞き逃すはずもなかった。
 エフラムは急に彼女が愛おしくなって、首許に唇を寄せた。昨夜何度も付けた桜色の印の上からキスをすると、ラーチェルの身体がびくりと震えた。
「ラーチェル……」
「な、なんですの?」
「愛している」
 ラーチェルは首まで赤くなった。それがラーチェルにとっての殺し文句だということは分かっていたが、エフラムは言わずにはいられなかった。何より、それは本心から出た言葉だったからだ。
「わ、わたくしが」
 ラーチェルの声は震え、明らかに動揺していた。
「わたくしがもし今、恥ずかしすぎて死んでしまったら、あなた、責任取ってくださいますの?」
「そんなことで、人間は死んだりしない」
「で、ですから! もののたとえという言葉が分かりませんの!?」
「俺は回りくどいたとえは好きじゃないんだ」
 エフラムはラーチェルを抱きしめる腕の力を強めた。
 ラーチェルの身体はしばらくの間微かに震えていたが、やがて安定したのか、震えが止まった。その様子は、エフラムを完全に受け入れてしまったように見えた。


 ラーチェルは顔を上げ、落ち着いた表情で鏡越しにエフラムの目を見つめた。
「どうやっても、わたくしは勝てませんのね。エフラムには」
「一体、何の話だ?」
 ラーチェルは一旦息を整えると、鏡の向こうを見つめながら言葉を続けた。
「わたくし、昔からおてんばと呼ばれてきましたの。何にも縛られることのない、自由な人間だって。当のわたくしだって、誰かに縛られるつもりなんて全くありませんでしたわ。けれど」
 ラーチェルは手を上げて、エフラムの手と重ね合わせた。
「わたくしを縛ることのできるものを、今、見つけましたの。なんだかお分かりになりまして?」
「何だ?」
「あなたですわ。エフラム」
 エフラムはやや腕の力を弱めた。
「俺は別に、君を縛っているつもりはないんだが」
「ええ、縛るという言い方はよくありませんわね。わたくしは、この場所から動きたくないと思える理由を見つけましたの。それが、あなたでしたのよ」
 やや回りくどい言い方ではあったが、エフラムにもその意味は理解できた。
 エフラムたちと出会うまで、魔物退治の旅と称して各地を回っていたラーチェル。彼女は王女という言葉からイメージされるような、着飾って大人しく微笑んでいるだけの女性ではなかった。その彼女を縛ることなど、誰にも出来ない。エフラムでさえ、そう思っていた。
 だが、彼女は意外なことを告白した。その不可能を成し遂げられるたった一人の人物――それが、エフラムだというのだ。
「わたくし、最初は何度も抗おうとしましたのよ? けれど、抗えば抗うほど、それが無理だと分かって……悔しくてなりませんでしたわ。あなたは涼しい顔をしているのに、わたくしはこんなにも苦しかったんですもの」
 ラーチェルはそう言いながら、身体ごとエフラムの方を向いた。
「けれど、認めてしまえば、なんてことはありませんわ。わたくしは受け入れることにしたんですの。あなたに負けを認めてしまった、わたくしを。あなたなしでは生きられなくなった、わたくしを」
 ラーチェルの瞳は、真っ直ぐにエフラムを見つめていた。その瞳には一点の曇りもなかったし、また悲しんでいる様子も、怒っている様子も見られなかった。
 仰天したままのエフラムに向かって、ラーチェルは嬉しそうに言った。
「でも、わたくしは今、幸せですわ。何も気にせず、あなたの側にいられるんですもの」
 ラーチェルは椅子から立ち上がると、エフラムの唇にそっとキスをした。
 ラーチェルは、微笑んでいた。この上なく幸せそうな表情だとエフラムは思った。結婚式で見せていた笑顔よりも、何倍も幸せそうだった。
 彼女の顔にかかった前髪をそっと手でのけると、その笑顔がもっと輝いて見えた。自分まで幸せな気分になるのを感じ、エフラムは無意識に笑っていた。
「ラーチェル、君はさっき、俺に負けたと言ったが……それは、俺も同じことかもしれない」
「エフラムも、ですの?」
 目を丸くするラーチェルに、エフラムは頷いた。
「以前の俺は、色恋沙汰に興味などなかった。当然、結婚なんてする気にもならなかった。だが君を知ってから、俺は君以外の女性のことを考えられなくなった」
 エフラムは微かに笑った。
「俺をそういう気にさせたのは君だろう? ラーチェル」
「エフラム……」
 エフラムはラーチェルを引き寄せ、彼女の唇に自分のそれを重ねた。
 異性を愛するということ。それを教えてくれたのは、まぎれもなく、目の前にいるラーチェルだ。彼女はエフラムの世界を全く新しいものに変えた。
 自分の気持ちと世界の変化に気付くのには時間がかかったが、気付けたおかげで、そしてそれを受け入れたおかげで、エフラムは今ここにいる。他の誰よりも、ラーチェルに近い場所に。
「ラーチェル、愛している」
「ええ……わたくしも、ですわ」
 微笑む顔が朝日に照らされ、きらきらと輝く。
 幸せな気持ちを噛みしめながら、小鳥が木の実をついばむように、二人は何度も口付けを交わし合った。
(2009.8.18)
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