静寂に満ちた室内で、白く吹き出す荒い息だけが空気を震わせていた。やがて聞こえてきたがたがたという歯の根の合わない音が、今の気温の冷たさを物語っていた。
扉や窓は全て閉め切ったはずなのに、寒さが増しているような気がしてならない。壁にぴったりと背中をつけて床に座り込み、ラーチェルは二の腕をさすり続けていた。こうしていれば少しでもましになるかと思ったのに、必死で作り出した摩擦熱はあっという間に奪われ、ちくちくとした痛みのような寒さに襲われる。
次第に腕が疲れてきて、ラーチェルは手を止めてため息をついた。摩擦熱がなくなったことで、より一層強い寒さが全身を覆い尽くしたが、それに抗う気力さえ、失われていた。
「大丈夫か、ラーチェル」
聞こえてきた声に呼応するように、ラーチェルは顔を上げる。向かいの壁には同行者――エフラムがいて、真っ直ぐにラーチェルを見つめていた。
「こっ、このくらいの寒さ、なんともありませんわ……」
いつものように強がってみるけれど、声に覇気がないのが自分でも分かった。どうでもよくなって、顔の向くまま、ぼんやりと天井を眺める。
学者の忠言を聞いておくべきだったと、ラーチェルは唇を噛んで後悔した。今朝は本当に良い天気だったから、ラーチェルは真っ先にエフラムを誘ってどこかへ出かけようと考えた。季節は冬で、数日前に降り積もった雪もやや残ってはいたが、その寒さを吹き飛ばすくらい太陽の光は暖かかった。
エフラムは数日間執務室の椅子に張り付いたままだった身体を動かし、遠乗りに出かけようと提案した。ラーチェルは即賛成し、どうせならうんと遠くへ行ってみようと、二人はルネス城の窓から見える緑の山脈へと足を運ぶことにしたのである。
だがルネス城にいた学者は、それを聞いて厳しい顔で首を振った。なんでも、昼から天候が崩れるのだという。特に山の天気は変わりやすいから、遠出などしない方が良いと忠告してきたのだ。二人は顔を見合わせたが、天を仰げばこれから天気が崩れるなんて信じられないくらいの透き通った青空が広がっている。大したことはありませんわとラーチェルは一蹴し、心配そうにしているエイリークをよそに、二人は愛馬に乗って出掛けた。
そして、この天気である。ひゅうひゅうという鋭い風の音が、外でひっきりなしに鳴り続けている。
突然の吹雪に襲われた二人は、エフラムの案内で、山脈の麓にあった小屋に避難した。木で作られたこの小屋は、ルネスの兵士が時折訓練で使うものだという。普段は使われていないせいか、中はお世辞にも綺麗だとは言えず、食料や水も最低限の量しか置かれていなかった。
このような埃の積もった床に腰を下ろすのは本意ではないが、文句を言っていられる状況でもなく、ラーチェルは壁に背をつけて膝を折り、腕をさすり続けていたのだった。
天井へ向けていた視線を元に戻しエフラムを見ると、彼は何か思案している様子であった。顎に手を当て、眉を寄せている。ラーチェルは自分の無力さを呪い、大きくため息をついた。自分にはもう、彼のように冷静に考える力など残されていなかったからだ。
何かこの状況を打開する良い案が出れば良いのにと、ラーチェルには珍しく他力本願な考えへと陥った。そして、視線の先にいる男はきっとそういう案を出してくれるのではないかと、妙に期待させる雰囲気を持っていた。
この男はいつもそうだった。彼の口からは、賢明なる軍師や参謀が提案しそうな保守的な意見が出たことなど一度もない。聞いたら誰もが一度は眉根を寄せるような、不確かでやや強引な方法。それなのに、彼の提案はことごとく成功し、人々の信頼を一気に勝ち取っていくのである。
――その不思議な魔力とも言える彼の魅力にとりつかれたからこそ、ラーチェルは今ここにいるのだが。
やがて考え込んでいたエフラムが顔を上げた。ラーチェルは彼の鋭い視線に射貫かれ、一瞬心臓が高鳴った。
「ラーチェル。提案なんだが」
「な、何ですの」
ついにきたかと、ラーチェルは思わず唾を呑み込む。だが続いて彼の口から出てきた言葉は、期待したことを後悔させる内容であった。
「俺が君の傍に行っても、構わないだろうか」
はっ、と、思わず間抜けな声が出そうになった。エフラムが自分の傍に来て、一体どうしようというのだろうか。
その時、ラーチェルの頭を良からぬ考えが過ぎった。もしかしたらエフラムは、この状況を利用して、ラーチェルに迫ろうなどと考えているのではなかろうか。今、この場には自分たち以外誰もいない。いわば完全な密室である。いくら叫んだところで助けなど呼べるはずもないし、できるのならとっくにそうしている。
ラーチェルの身体を、違う悪寒が走り抜けた。自分がもしここで近づくことを許可してしまったら、彼はそれをいいことに自分を床の上へ押し倒してしまうのではなかろうか――そう思った瞬間、ラーチェルはあらん限りの声で叫んでいた。
「だっ、駄目ですわ! 絶対に、いけませんわ!」
エフラムの目が驚きに見開かれた。白々しい、とラーチェルはエフラムを睨む。後からなら、言い訳などいくらでもできる。わたくしは分かっていますわよと言わんばかりに、ラーチェルは唇を真一文字に結び、胸元を隠してエフラムを睨み続けた。
やがて怪訝そうな顔をしたままのエフラムが、口を開く。
「いけないのか? 俺はただ、君が寒いだろうと思って――」
「さっ、寒くありませんわ! ぜ、絶対に、わたくしに近づかないでくださいまし!」
小屋の中央に自分とエフラムを遮ってくれる透明な壁があれば良いのにと、ラーチェルは心から願った。もし力ずくで来られたら、ラーチェルはそれに抗える自信がない。不審者に出会った番犬のように、ラーチェルは警戒心をあらわにした。それに気付いたのか、エフラムはやれやれといった様子で首を振った。
「そんなに警戒しなくてもいいだろう。俺は君の敵ではないんだから」
「てっ、敵ですわ! このような状況を利用して、お、乙女の純潔を奪おうなどと考えるなんて、全女性の敵ですわ! 最低ですわ!」
わめくラーチェルに、エフラムはますます怪訝そうな顔をした。だが少しの間の後、エフラムは合点がいったというように小さく笑みを洩らした。ラーチェルはその笑みを、戦闘開始の合図と勘違いし、思わず身構えた。
だが彼はその場から動かず、再び口を開いた。
「俺は何もしない。だから、そう身構えないでもらいたいのだが」
「しっ、信じられるわけがありませんわ! あなた、わたくしに近づいて、あわよくば押し倒そうとしているのでしょう!?」
「だから、それは誤解だ。俺はただ、こういう時は肌を寄せて互いに温め合った方がいいのではないかと――」
弁解のために発せられたエフラムのその言葉は、火に油を注ぐ結果となってしまった。
ラーチェルの興奮は最高潮に達し、彼女はますます警戒心をあらわにした。まだ恋人同士でもないのに、肌を寄せ合うなんてとんでもないことだ。たとえ恋人同士であったとしても、ラーチェルは決してそのようなことを許さなかっただろう。
「いっ、嫌ですわ! 絶対に、絶対に嫌ですわ!」
ラーチェルの甲高い声が、冷たい空気の中できんきんと響く。エフラムは参ったとでもいうように、大きくため息をついた。ため息をつきたいのはこちらの方だと思ったが、ラーチェルは一言も発さず、エフラムをじっと睨み付けていた。
「だが、寒いんだろう?」
「で、ですから、寒くないと何度も――」
「そんな格好でいられたら、見ているこちらも寒くなるんだが」
ラーチェルは自分の身体を眺め回した。今朝あまりにも暖かかったものだから、普段着の絹のドレスに薄い上着を羽織っただけで出てきてしまった。服のありとあらゆる隙間から冷気が入り込み、寒く感じられるのは抗いようのない事実だった。それでも意地になっていたラーチェルは、何とか言い返さねばならないと口を開いた。
「あっ、あなたは、わたくしの服装にまで文句を付けるんですの!?」
「そんなことは誰も言っていない。ただ、君が寒そうだと言っているだけだ」
「で、ですから、別に――」
なおも言い返そうとするラーチェルを見て、エフラムは呆れたように首を振る。そして自分の背を覆うマントを取り払った後、ラーチェルの言葉を遮った。
「これを羽織るといい。少しは暖かくなるだろう」
エフラムはマントを高く持ち上げた。ラーチェルは突然のことに驚いて、思わず間抜けな質問をしていた。
「わ、わたくしに、どうしろと言うんですの?」
「俺に近づいて欲しくないなら、君が取りに来ればいい。それとも、放り投げた方がいいか?」
「れっ、レディに対してそんな物の寄越し方、ありませんわ!」
「そう言うだろうと思った。だから、君が取りに来ればいい」
ラーチェルはしばらく躊躇っていたが、これ以上の寒さにはもう耐えられなくなりそうだった。エフラムの羽織っているマントには一度触れたことがあるが、金糸の刺繍で彩られた、肌触りの良い暖かい生地のものだった。それを羽織ることが出来れば、だいぶ寒さを軽減することができるだろう。
ラーチェルはそろそろと立ち上がり、ゆっくりとエフラムの方に向かって歩を進め始めた。一歩歩くたび、床がぎしぎしと軋んだ。かき混ぜられていない部屋中央の真っ新な空気は、身を切るような寒さをもってラーチェルの肌を襲った。
そうしてエフラムからマントを受け取ろうと、手を伸ばしながらもう一歩足を踏み出した時だった。床に広がっていたマントをうっかりと踏んでしまったラーチェルは、あっという間にバランスを崩してしまった。
「きゃあっ!」
そのまま、前のめりに倒れていく。
気付いた時には、頭の中央に暖かい息が当たっていた。思わず顔を上げてしまって、エフラムの顔に出会った時、ラーチェルは空気を引き裂くような叫び声を上げた。
「きゃああああ!」
エフラムがやや迷惑そうに、片方の耳を手で覆う。
「そんなに叫ばなくてもいいだろう。鼓膜が破れる」
「だ、だって、こ、こんな、こんなこと!」
ラーチェルは慌てて身体を起こそうとしたが、意志に反して全く動いてくれなかった。全身を覆う寒さのせいで、体力までも失われてしまったのだろうか――ぴくりとも動こうとしない自分の身体がもどかしくて仕方がなかった。同時に、完全にエフラムに寄りかかる格好になってしまったことに、羞恥を覚えた。
「こうしていた方が、暖かいだろう」
エフラムがそんなのんきなことを口にする。ラーチェルは目の端に涙を溜めて抗議しようとしたが、その気力さえ失われていた。
心の中で様々な感情が入り交じって、背がぞくぞくと震える。
だが確かに、エフラムの肌の温かさが伝わってきた時――あまり認めたくはなかったが――、ラーチェルは安堵を覚えていた。人肌とはこんなに暖かいものかと、感動すら覚えていた。だが決して口に出さず、ラーチェルはあくまでも不本意であるという姿勢を崩さなかった。胸の内に抱えた複雑な感情を込めてエフラムを睨むと、エフラムはそれに応えて微かに笑った。こんな時にも余裕の表情が出来るこの男が恨めしく、また羨ましくも思われた。
「吹雪、止みそうにないな」
ラーチェルの背に、自然とエフラムの手が回される。普段ならすぐに払いのけているところだが、既にその気力も失われていた。エフラムはそのまま、自分の熱を分け与えるようにして、ラーチェルを自分の方へと引き寄せた。ラーチェルの心臓の鼓動がだんだん速くなっていくのを感じた。
身体が動かぬならせめて抵抗の言葉をと、ラーチェルは口を開く。
「わたくしは……」
――わたくしは……その、わたくしは……
その先は何が言いたいのか、自分でも分からなくなってしまった。