恋する蕾たち

「ドロテア、こんな感じでどうでしょうか……」
 鏡と向き合いながら、イングリットは少し不安げな手つきで頬紅を入れる。
「そうそう! それで大丈夫よ。グリットちゃん、とっても上手になったわねえ」
 後ろに立つドロテアが笑顔で頷いてくれるのを見て、イングリットは安堵の溜息をついた。
 ここ最近、イングリットは化粧に力を入れるようになった。年頃の女性としては当たり前のことなのだろうが、騎士に華美な装いは不要、と考えていたイングリットにとってはかなり革命的な出来事だった。アネットに基礎を教わりながら見様見真似で始めたが、最近では街への買い出しに行く度に化粧品を見てしまうほど、化粧そのものが楽しくなりつつあった。
 アネットやメルセデスも喜んで色々とアドバイスをくれたが、中でも一番嬉しそうにイングリットに手ほどきをしてくれたのはドロテアだった。彼女はかつて、帝国のミッテルフランク歌劇団で歌姫をしていたことがある。この軍の中では、化粧に関して右に出る者はいないと言えるほどの知識や技術を持っていた。何より、イングリットが可愛くなればなるほど、ドロテアの瞳はまるで恋する乙女のような煌めきを見せるのだった。
「綺麗よ、グリットちゃん。これだけ可愛いんだから、どこに出しても恥ずかしくないわ」
 いつもそうやって褒めてくれるものだから、イングリットも悪い気はしない。そのような成り行きで、ここ最近は自然とドロテアと一緒に過ごす時間が長くなっていた。


 化粧教室が終わった後は、決まってイングリットの部屋でお茶会をすることになっている。
 ドロテアが淹れてくれた紅茶を飲みながら、イングリットは焼き菓子に手を伸ばした。美味しい、と微笑んだ後に、自分を見つめる熱い視線に気付く。ドロテアがうっとりとした表情で、イングリットを見つめていた。
「ど、どうしたのですか、ドロテア」
「なんだか、本当に幸せそうだなって思って……最近のグリットちゃん、本当に可愛い女の子になったわねえ」
 可愛い、と言われるのに慣れないイングリットは、思わずきゅっと身体をすぼめた。紅を入れたばかりの頬が、ほんのり熱を帯びる。とそこへ、照れてるグリットちゃんも可愛い、なんて追撃が来るものだから、イングリットはいよいよ落ち着かなくなって、もじもじしながら飴色の紅茶へと視線を落とした。
「他の男にも何か言われるでしょう? むしろ、気付かない男がいたら、貴方の目はとんだ節穴ねって言ってやりたいくらいだわ」
「あ……ええ、その……」
 ドロテアにそう言われて、イングリットの頭の中に一人の男性の顔が浮かんだ。
 昔から素行が悪くて、軽薄で、どうしようもない幼なじみ。彼の目は常に、自分以外の世の女性達にばかり向けられていると思っていた。だが――先日彼の口からこぼれた言葉を思い出して、イングリットの胸の鼓動がとくん、と跳ねた。
「その顔は何か言われた顔ね? ねえ、何て言われたの?」
 ドロテアに顔を覗き込まれて、イングリットは少し躊躇いながらも答えた。
「……美人、って言われたんです」
「へえ! 少しは見る目のある男がいたのね。で、それは一体誰?」
「……その、シルヴァンに……」
 イングリットが小さな声で言うと、ふうん、とドロテアは意味ありげに微笑んだ。
 シルヴァン。その名前を口にするだけで、こんなにも鼓動が速くなるのはどうしてだろう。いや、わざわざ問わずとも、イングリットの中でもうほとんど答えは出ている。
 幼い頃から傍にいるのが当たり前だった幼なじみ。9年前に婚約者のグレンを喪い、絶望の淵に立たされるイングリットを外に連れ出してくれたのはシルヴァンだった。否、連れ出した、という表現は正しくない。食べ物さえ喉を通らないほど精神的に追い詰められていた中、ふと、あの素行の悪い幼なじみがどうしているか気になって、イングリットは自ら外に出てきたのだ。
 不思議なものだ、とイングリットは思う。幼い頃からあれほど彼の素行のせいで迷惑を被っていたのに、腐れ縁というのは厄介なもので、彼の傍を離れることはできなかった。年を経るにつれ、いつしか彼といることがとても気楽だと感じるようになった。
 それからだ。イングリットが化粧をしようと思うようになったのは。
 生まれて初めて恋をした相手は、もうこの世にいない。それからというもの、イングリットは女性らしく振る舞うことを忌避するようになった。彼に見せるわけでもないのに、化粧をする意味などないと思っていた。だが、そんな自分が化粧をしたいと思うようになったのは、間違いなく、新しい恋に目覚めてしまったからなのだ。
「恋する女の子は綺麗になるっていう話、やっぱり本当のことなのよね」
 イングリットを見つめながら、ドロテアがくすくすと笑う。イングリットは気恥ずかしくなって、慌てて紅茶を飲んだ。
「大丈夫よ。彼、最近は女の子を口説いたりしてないみたいだし。それどころか、グリットちゃんのこと、いつも気に掛けているようだし。この間の軍議の時だって、ずっと貴方のこと見てたわよ。分かりやすくて、笑っちゃいそうになったもの」
「た、確かに最近そういう話は聞きませんが……そんなに、私のこと……」
 思い返せば、最近彼と目が合うことが増えたような気もする。かち合ってしまった時は気恥ずかしくなって、お互い反射的に視線を逸らしてしまうのだけれど。
 ドロテアは真っ直ぐにイングリットの瞳を見つめて、ウインクした。
「大丈夫よ。彼、もう浮気なんてしないわ。私が保証してあげる」
「そ、そうでしょうか……」
 イングリットの中では未だ確証を得るまでにはいっていなかったが、ドロテアがあまりに自信満々な様子なので、本当にそうかもしれない、という気持ちになった。嬉しいような恥ずかしいような複雑な気持ちになったが、それも一瞬のこと。喜びが勝って、イングリットは自然と頬を緩めていた。
 すると、数秒おいて、ドロテアが小さく溜息をついた。
「いいわねえ、グリットちゃんは大切に思ってくれる相手がいて」
 それに比べて私は、とドロテアが小さな声でこぼすのを、イングリットは聞き逃さなかった。ドロテアの表情は、晴天から一気に曇り空へと変化していた。頬杖をついて、いかにも悩ましげな様子だ。そんな彼女を見たのは初めてで、イングリットは少し戸惑った。
「ドロテア、一体どうしたのですか? そんな顔をするなんて、貴方らしくない、というか」
 ドロテアが顔を上げて、僅かに身を乗り出してくる。
「グリットちゃん、聞いてくれる?」
「え、ええ。私でよければ」
 イングリットが気圧されながらも頷くと、ドロテアは身を引いて椅子に座り直した。
「最近、というより、以前からだったけど……彼の考えてることが全く分からないの」
「彼、というのは……」
 ドロテアの指す相手の見当がつかずに尋ねると、ドロテアは急にぱん、と手を叩いた。
「ああ! そういえば、グリットちゃんって、フェリクスくんとも幼なじみだったかしら?」
「ええ、そうですが……もしかして彼って、フェリクスのことなのですか?」
「そうなのよ」
 思いがけない名前が出てきた上、あっさりと肯定されて、イングリットは目を見開いた。
 彼とドロテアの間に接点などあったろうか、と記憶を辿る。思い返してみれば、先日訓練場で二人が剣の稽古をしていたのをちらと見た記憶はあるが、そこまで深い仲だったとは思わなかった。
 ドロテアは深々と溜息をついた後で、話し始めた。
「この間、大聖堂で演奏会を開いたでしょう? その話をしてたら、確かに見に来てはくれたんだけど……感想を聞いても、悪くなかったとしか言わないし、そのくせ、次はいつだとかなんとか……別に好きでもないなら見に来なくていいって言ったんだけど、そう言ったら、行くか行かないかは俺が決める、なんて言って怒るし」
「はあ」
「訓練場で剣の稽古をした後、いつも私の部屋でお茶をするんだけど。私がどんな話題を出しても『ああ』としか言わないし、自分からは何も言ってくれないし。私といるのがつまらないのかしらと思って、お茶に誘わなかったら、『今日は茶は飲まないのか』なんて聞いてくるし……私、こんなに何を考えてるか分からない人と接するの、生まれて初めてよ」
 言いたいことが溢れて止まらなかったのか、ドロテアはここまで早口で一気に言い切り、ふう、と息を吐いた。
 彼女の愚痴を聞きながら、イングリットは呆れるでもなく怒るでもなく、微笑みを浮かべていた。その表情に気付いたドロテアが、不満げに頬を膨らませる。
「ちょっと、グリットちゃん? 笑わないでちょうだい。私、真剣に悩んでいるのよ」
「ごめんなさい、そんなつもりでは。ただ……」
「ただ、何なの?」
 首を傾げるドロテアに、イングリットはふふと笑って言った。
「フェリクスは多分、ドロテアのこと、特別だって思ってる気がします」
 ドロテアが驚いたように数回瞬きをした。信じられない、という表情だ。
 無理もないだろう。確かにあの幼なじみは一見分かりにくい男だ。幼少期を共に過ごしてきたイングリットは、彼の言葉の外にある思い、表情をそれなりに読み取ることができるが、そうでないドロテアにはきっと難しいに違いない。
「確かに、フェリクスは何を考えているか分かりにくいと思います。言葉も表情も素っ気ないし……でも、ドロテアの話を聞く限り、フェリクスは貴方に心を許してると思いますよ」
「そう? 私からすれば、全然そんなふうには見えないんだけど」
 なおも納得できないといった様子のドロテアに、イングリットは自信を持って頷いた。
「ええ。演奏会の感想だって、『悪くない』は、彼にとっての最高の褒め言葉ですから。その上、次はいつだ、とまで言うということは、貴方の歌が本当に気に入ったんだと思います」
「そうなの? 本当に分かりにくいわね……」
 眉を寄せるドロテアに、確かに、とイングリットは笑いながら同調した。
「それに、お茶のことも。あの、剣の腕を鍛えることにしか興味のないフェリクスが、誰かと何回もお茶するなんて、本当にすごいことですよ。本当につまらないなら、誘いも端から断るでしょうし。そうしないってことは、きっと、ドロテアと一緒にいるのは余程居心地がいいんだと思います」
「そう、なのかしら……」
 ドロテアは首を傾げ、未だどう判断したものか掴みかねているようだった。
 それからしばらくして、思い出したようにドロテアは言った。
「ああ、でも……彼、私がミッテルフランク歌劇団の歌姫ってことも忘れてたのよ。そんなふうに思っている相手のこと、こんなに簡単に忘れてしまうものかしら?」
「きっと、フェリクスは貴方のことを肩書きで見ていないんだと思います。身分とか、紋章がどうとか、そういうことを気にする人ではないですから」
 ドロテアが持ち出してきた疑問に、イングリットは窮することなくさらりと答えを返してみせた。ドロテアはしばらくぱちぱちと瞬きした後、小さく溜息をついた。
「……グリットちゃんにはかなわないわ。幼なじみって、すごいのね」
「長い間、一緒にいるだけですから。多分、ドロテアも、これから少しずつ分かってくると思いますよ」
「そうだといいんだけど、ね……」
 先程と変わらず悩ましげな表情のドロテアだったが、イングリットの言葉で少しは納得できたのか、幾分か表情は和らいでいた。
 ドロテアとフェリクス、という組み合わせを意外に感じながらも、イングリットは彼らを微笑ましく思っていた。フェリクスとは同い年だが、兄のグレンと婚約していたこともあってか、彼のことは弟のように思っていた。なかなか自分の心情を素直に曝け出さないあのフェリクスに、こんなにも心を許す相手ができていたとは。彼らの間に流れる感情が男女のそれなのかどうか、そこまでは掴みかねたが、イングリットは心から、二人の行く末を見守りたいという気持ちになっていた。


 それからしばらく、焼き菓子をつまみながら、二人で他愛もない話をした。お互いの話をさらけ出した後ということもあってか、いつも以上に話は弾んだ。
 紅茶と菓子がなくなったところで、ドロテアは晴れ晴れとした表情で、イングリットと相対した。
「今日はありがとう。グリットちゃんの話を聞くつもりが、私の話も聞いてもらっちゃって。でも、おかげでちょっとスッキリしたわ」
「良かった。ドロテアにはいつも化粧を教えてもらっていますから、少しでもお返しになれば」
 イングリットも穏やかに微笑んだ。
 未だ戦は終わらない。剣や槍を振るうたび、かつての学友たちと相対するたび、心は少しずつ暗くなっていく。それでも自分たちには守りたいものがある。大切な人たち、自分の信念、そして戦時であることを意識せずに済む、この穏やかな時間もそうだ。
「また、しましょうね。グリットちゃん」
「ええ、ドロテア。また今度」
 この一時だけでは終わらない。その次があると、心から信じているから。
 二人は互いに目を合わせ、頷いた。
(2019.9.17)
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