「……これは」
ガルグ=マク周辺の街へ買い出しに出かけたフェリクスの目に、あるものが留まった。
道端で露天商が広げていた、色とりどりの宝石をあしらった装飾品の数々。ルビーのイヤリング、サファイアの髪飾り、オパールのブレスレット――中でもフェリクスの目を引いたのは、エメラルドの指輪だった。
控えめながらも奥深さを感じる輝きに、思わず吸い込まれそうになる。彼女の瞳と似ている――フェリクスの脳裏に、ある女性の顔がちらついた。
「いらっしゃい。それが気になるのかい?」
フェリクスが熱心に視線を注ぐのを見て、露天商の男はからからと笑った。
ようやく我に返ったフェリクスは、居心地が悪くなって咄嗟に顔を背けた。そのまま立ち去ろうかとも思ったが、一度気になったその宝石から、どうしても目が逸らせない。
「このご時世に、と思うかもしれないけれど。このご時世だからこそ、なのよ」
いつだったか、自分の部屋で茶を飲みながら、彼女が語っていたことを思い出す。
「誰に見せつけるとかいう話でもなくて。好きなものって、そんな簡単には手放せないものなの。まして、それが自分を美しく見せてくれるものなら、なおさら」
彼女はふふと笑いながら、普段から付けているお気に入りのイヤリングを指先で弄んでいた。
そうか、とフェリクスが軽く流すと、少しくらい興味を持ってくれてもいいじゃない、と頬を膨らませる彼女。そういう反応が心地よく、そして愛おしいと思い始めたのも、つい最近の話だ。そのときの話が、ここで生きてくるとは思いもしなかった。
フェリクスは膝を折り、指輪に手を伸ばした。露天商の男が意味ありげに笑むのにも気づかないふりをしながら、これを、と手短に告げた。
男は値段を言った。この時世に宝石とあって、それなりの値段だ。フラルダリウス家の嫡子とはいえ、一旦家を離れて戦争に加わっている身からすると決して気軽に手を出せる代物ではない。それでも、フェリクスは躊躇わなかった。
「女の子へのプレゼントかい?」
男は興味津々な様子で尋ねてきた。フェリクスは答えずに、黙って値段通りの金額を支払い、早々にその場を立ち去った。
これを渡したら、彼女はどんな顔をするだろうか。
フェリクスはそんなことを考えながら、足早にガルグ=マクへと戻っていった。街の鍛冶屋で切れ味の悪くなった剣を研いでもらうつもりだったことなど、すっかり忘れていた。
大聖堂の外れに、彼女の姿はあった。
遠く、彼女が眺めていたのは、かつて彼女の故郷のあった場所、帝国領だった。
戦争が酷くなり、かつての級友たちですら手にかけざるを得ない状況に追い込まれていくたびに、彼女が少しずつ塞ぎ込んでいくのを、フェリクスはうすうす感じていた。それなのに、フェリクスと茶を飲むときは努めて明るい声を出そうとする彼女が、痛々しく思えて仕方がなかった。
かつての自分ならば、彼女に正論を突きつけて諭していたかもしれないけれど。他人事のようにそんなことを思った。かといって、自分の意に沿わない形で彼女に同情するのも違うから、フェリクスは何もできないでいるのだった。
何者も寄せ付けないような雰囲気を醸し出す彼女の背中を見つめ、フェリクスは一瞬複雑な感情を抱いたが、それを振り切るように歩み寄り、背後に立った。
「おい」
声をかけると、彼女は驚いたように振り返った。
「な、何よ。急に……びっくりするじゃない」
「そんなに驚かなくてもいいだろう」
「驚くわよ。だいたい、あなたの方から声をかけてくるなんて」
ドロテアは胸に手を当てて、小さく深呼吸をした。フェリクスはフン、と鼻を鳴らした。
「それで、何の用です?」
小首を傾げて尋ねる彼女に、一瞬だけ躊躇ったものの、何も後ろめたいことはないと、フェリクスは先程買ったばかりの指輪を勢いよく差し出した。
ドロテアの反応は予想通りのものだった。大きく目を見開いた後、フェリクスの顔と、手のひらの指輪とを何度も何度も交互に見つめた。
「これって……」
「お前、こういうの好きなんだろう」
そう言って、もう一度手を彼女の方へ差し出す。それでもドロテアは軽く身を引いたまま、それに触れようともしなかった。
「これ……一体どうしたの?」
警戒した様子のドロテアにもどかしさを覚え、小さく舌打ちをする。取り繕う理由も思いつかず、フェリクスは思ったままを口に出した。
「お前に似合うと思った」
そう言った途端、ドロテアが息を呑むのがわかった。宝石と似た色の瞳が、微かに揺らぐのも。
しばし沈黙が流れた後、ドロテアは驚いたことに首を横に振った。
「受け取れません。こんな高価な宝石の指輪なんて」
好きなものを贈れば喜ぶだろうと単純に考えていたフェリクスは、思いもよらぬ反応に愕然とした。直後、苛立ちよりも大きな感情に襲われるのに気づいて、フェリクスは更に愕然とした。
「何故だ」
喉元まで突き上げてきたあらゆる感情を無理矢理押し殺しながら、フェリクスは抑揚のない声で尋ねた。
ドロテアはうつむいた。逡巡する様子の彼女を見ながら、答えを待ちきれず、フェリクスは問いを重ねた。
「何故だ。お前は装飾品の類が好きだったんじゃないのか」
「好きよ。だけど……」
「俺からの贈り物は受け取れん、ということか」
一番訊きたくて、一番訊きたくなかった問いが口からこぼれ落ちた。途端に、突き刺すような胸の痛みが襲ってきた。もし応、と答えられたら、さすがのフェリクスも動揺せずにはいられなくなる。
彼女の答えを待つ間が、永遠にも感じられた頃――ドロテアはようやく、首を横に振った。
「違うわ。そうじゃなくて……そんな高価なもの、おいそれと受け取れないっていうこと。あなたに貸しなんて、作りたくないのよ」
答えが否であったことに安堵するもつかの間、思ってもみないことを言われて、フェリクスは思わず眉をつり上げた。
「貸し、だと? そんなこと、俺が考えて渡すわけがないだろう」
「でも……じゃあ何故、あなたはこれを私に贈ろうと思ったの? 私に何かしてもらおうとか、そういう話じゃないなら、どうして」
ドロテアが少し怒ったように疑問をぶつけてくる。
フェリクスは反射的に、その答えを口にしていた。
「好きな女に物を贈るのが、そんなに変なことなのか」
えっ、と、ドロテアの口から明らかな戸惑いの声が上がった。
言った後で、フェリクスは今更ながらに言葉の意味を理解し、一気に怖気立った。
対するドロテアも動揺した様子で、フェリクスの言葉を途切れ途切れに呟いていた。
「好きな、女に、物を、贈る、って……それって……」
「……っ」
フェリクスは思わず目を逸らした。
こんなことをここで言うつもりなど微塵もなかったのだ。そもそも、自分がそんなことを思っていたなんて、今まで意識すらしていなかった。ただ自分は、彼女が指輪を嬉しそうに受け取ってくれるのを、見たかっただけなのだ。
「フェリクスくん、それ……ほんとう、なの?」
ドロテアが顔を覗き込んでくる。フェリクスは必死に見るまいとしながら、これ以上逃げることはできないと悟った。それでも素直に言うことはできなくて、
「……俺は、冗談の類は、好まん」
と、かろうじてそれだけ言った。
ドロテアがはぁ、と小さくため息をつくのがわかった。フェリクスがおそるおそる視線を戻すと、ドロテアは諭すような口調で言った。
「あのね、フェリクスくん。女の子はね、そういう大事なことは、もっとちゃんと言ってほしいものなのよ」
む、と言葉に詰まるフェリクスに対し、ドロテアは打って変わって今度はくすくすと笑った。
「でも、いいわ。今日はそれで許してあげる。あなたにしては、精一杯だったんだろうって伝わったから」
笑われるのは不本意だが、これ以上自分の思いを正直に告げるなんて、今のフェリクスには到底できそうもなかった。こんなはずではなかったのに。その言葉だけが頭の中をぐるぐると回る。思い通りのいかなさに、深いため息をついた。
「それで……いいの? 私がその指輪、もらっても」
「……ああ、好きにすればいい」
フェリクスは投げやりな口調で指輪を差し出した。
ありがとう、とドロテアは嬉しそうに受け取った。本来はこの笑顔が見たかったはずなのに、今は憂鬱な気分にかき消されて、どんな感情でいればいいのかもわからない。
ドロテアは右手の薬指に指輪をはめた。手を何度も返しながら、心底嬉しそうに眺めている。紅の引かれた唇から、うふふ、と笑い声が洩れるのを聞くと、いつの間にか憂鬱な気分も薄れていく気がした。
やはり似合う。彼女の瞳と同じ色に輝く宝石を見ながら、フェリクスは確信に近い気持ちを抱いた。
「嬉しい。私、こんなに嬉しい贈り物をもらったの、初めてよ」
彼女がうきうきとした口調で話す。
帝国のミッテルフランク歌劇団で、彼女はかなり人気の歌姫だったと聞いた。そこらじゅうの貴族から贈り物を山のようにもらっていたはずだ。当然その中にはこういった装飾品の類もあっただろうから、新鮮味は薄いはずなのだが。
そんなことをぼんやりと考えていると、ドロテアはいつの間にかフェリクスに向き直っていた。
「ありがとう。フェリクスくん……いえ、フェリクス。これは、私の気持ちよ」
そう言うが早いか、ドロテアはフェリクスが反応する間もなく近づいてきて、左の頬にそっと口づけた。
一瞬のことで、フェリクスはその行動を呑み込むのに時間を要した。ようやく呑み込めた直後、彼女の唇の触れた部分が、急に熱を持ち始めた。フェリクスはその部分を指でなぞった。対する彼女はくすくすと笑いながら、ほんのり頬を赤らめている。
「あなたが精一杯、言ってくれたから。これは、私からの精一杯。ね」
ドロテアはそう言うと、くるりと踵を返してその場を立ち去っていった。
「……チッ。なんなんだ……」
残されたフェリクスは、取り繕うように忌々しげにそう言ってみたはいいものの、内心はそれどころではなかった。彼女の頬への口づけと彼女の言葉が、何度も何度も頭の中を巡る。
全てを素直に受け取ればそれで良いことなのだろう。だが免疫のないフェリクスは、一つ一つを細かく噛み砕いて、少しずつ自分の中に落とし込んでいくことしかできない。
――ああ、くそ。
群青色の髪を掻き上げ、フェリクスはもう一度心の中で忌々しげに呟いた。
どうしようもない、自分の不器用さを呪いなから。