連理の剣(本文サンプル)

 薔薇のようになりたかった。
 艶やかな真紅の薔薇のように、人の目を引く存在になりたかった。表舞台に立つことで、自分という存在を皆に見て欲しい。これまで誰にも愛されなかった自分を、愛してくれる存在が欲しい。そう思った。
 マヌエラに導かれ、歌劇団へ入り、それから数年後――ドロテアは 〝薔薇〟になった。舞台の真ん中に立ち、最も明るい場所で、その場にいる全員の注目を集める権利を得た。
 薔薇は確かに華やかで、人々の憧れの存在だった。けれども同時に、嫉妬の的でもあった。歌劇団にいた、自分と同じ歌姫候補だった娘には嫌がらせを受けた。公演で着るドレスを引き裂かれたり、靴に落書きをされたりした。
 だが、そんなことは瑣末なことだった。
 醜い欲望にまみれた手で、身体を穢されることに比べれば――


 ある日の夜公演の帰り、それは起こった。
 かつて自分の住んでいた、アンヴァルの裏通りに足を踏み入れた直後のことだ。
「やめて、ちょうだい……っ!」
 自分よりも遙かに強い力で手首を掴まれ、ドロテアには抵抗の術がなかった。大きな声を出そうとすると、腹に強い衝撃を食らい、それきり意識は途切れた。
 気がつくと寝台に押し倒されていて、ドレスを脱がされ、剥き出しの身体で男と相対していた。男には見覚えがあった。先日からしつこく贈り物を渡し、自分の妻にならないかと下卑た笑いを浮かべて問うてきた、貴族の男だった。
「やはり美しい……生娘か? 私の手で快楽を覚え込ませてやろう」
「やめて、近寄らないで!」
 抵抗しようとしたドロテアの腕が、強い力で寝台に押さえつけられる。もう片方の手が伸びてきて、ドロテアの淡雪のような肌に触れてきた。ドロテアはあまりの恐ろしさに声を出そうとしたが、出てきたのは掠れた悲鳴だけだった。
 その日、ドロテアは純潔を失った。
 翌日から、ドロテアは何事もなかったかのように舞台に立ち続けた。
 皮肉なことに、純潔を失ったドロテアを、以前より艶っぽくなったと表現する人がいた。艶めく真紅の薔薇のようになりたかったはずなのに、少しも嬉しいと思えないばかりか、ドロテアは穢れた自分を次第に毛嫌いするようになった。
 それと同時に、歌劇団に入ったばかりの頃マヌエラに習っていた剣の稽古を、真剣に始めるようになった。
 自分の身は自分で守る、がマヌエラの口癖だった。歌姫は孤独だ。誰からの賞賛も得ているようで、いざとなったら守ってくれるものは何もない。だから自分で身を守れるようになりなさい、と。ドロテアは今更ながらに、その言葉をいやというほど思い知らされたのだ。
 剣を振るう時間だけは唯一無心になれ、自分が価値のない人間だということを考えずに済んだ。
 それからもドロテアは歌劇団で歌姫を続けていたが、二十の年が近づくにつれ、将来のことを考えるようになった。自分は永遠に歌姫を続けていられるわけではない。今の若さが永遠に保たれるわけではない。年を取るにつれ、人々の賞賛も次第に減っていくようになるだろう。そうなった時、自分を救ってくれるものは何もないと気付いたのだ。
 純潔を奪った貴族とは、ずるずると関係が続いていた。ドロテアはもう、一度穢れてしまった身体を差し出すことに、何の抵抗心も沸かなくなっていた。自分の価値のない身体がどうなろうと、全く構わなかった。その貴族は結婚をちらつかせておけば、ドロテアの言うものを何でも買ってくれたし、何でもしてくれた。
 だが、その汚らわしい男も、ドロテア自身のことを見て欲しているわけではない。今この瞬間にしかない若さと美しさを欲しているだけだ。それを悟ったからこそ、この環境を脱する口実が欲しかった。
「……士官学校?」
 ある日の夜、その男から聞いた言葉に、ドロテアは心を奪われた。
「何でも、来年は皇女エーデルガルト様が入学されるとか」
 それを聞いて、ひらめいたことがあった。この男は何も持っていないくせに、地位と名声を何よりも欲している。うまく利用すれば、この環境を脱することができるかもしれない。ドロテアは一縷の望みにかけた。
「私を士官学校に入れてちょうだい。私が上手くエーデルガルト様との縁を結んで、卒業後に貴方と結婚すれば、貴方は帝国内で盤石の地位を得られるはず。そうでしょう?」
 寝台で仰向けになっている男にそう迫ると、男は考え込む仕草をした。眉間に皺を寄せて難しい顔をしているように見えるが、彼がそう深く思案していないことを、ドロテアは即座に見抜いた。もう一押しだ。
「貴方のためならなんだってするわ、〝旦那様〟」
 この環境から逃れられるのなら、欲にまみれた汚い手に口づけすることだって、もう何とも思わない。自分の手だってもう、とっくの昔に汚れきっているのだから。
 直後、彼の表情が僅かに緩むのが分かった。ドロテアの策は成功したのだ。
「……ああ、いいだろう」
「嬉しいわ。〝旦那様〟」
 もう一度殺し文句を放って、ドロテアは心底嬉しそうな表情を貼り付けてみせた。
 舞台上で主人公ヒロインを演じるのと同じように。
 ――かくして、ドロテアはガルグ=マクの士官学校へ入学したのだった。



 ――アンヴァルに戻ると、嫌でも昔のことを思い出す。
 アドラステア皇帝エーデルガルトが斃され、王国軍が勝利の歓声を上げた翌日。
 ドロテアは一人で、アンヴァルの裏通りを訪れていた。
 貴族達が捨てた食料に群がり、泥水を啜って生きていた幼い頃。マヌエラに見出され、ミッテルフランク歌劇団の歌姫となった後、暴漢に襲われ、純潔を失う羽目となったあの日。忌々しい記憶しかないというのに、ドロテアは未だにこの場所に離れがたいものを感じている自分に気付いて泣きそうになった。
 戻りたいとは露程も思わない。ただ、自分にふさわしい場所はやはりここではないかと思ってしまうのだ。それがどうしようもなく恐ろしく、悲しかった。
「おい」
 背後から呼びかける声が聞こえて、ドロテアは顔を上げた。
 振り向くと、そこには一人の青年が立っていた。切れ長の鋭い鳶色の目。深い瑠璃色の髪。腕を組んで、ドロテアを怪訝そうに見つめている。
「フェリクス、くん」
 意外、とは思わなかった。士官学校時代を共に過ごし、戦争が始まってからも何かと近くにいることが多かった相手。
 最初のきっかけは、貴族なのに貴族らしくなく奔放に振る舞う彼に、ドロテアが興味を持ったからだった。紆余曲折を経て、今では軍の誰よりも長い時間、傍にいる相手となっていた。戦場でも、それ以外の時間でも。
「先生が探していた。お前はこれからどうするのか、と」
 今一番触れられたくなかった話題を持ちかけられ、ドロテアはあからさまに落ち込んだ。
「そう……」
 人殺しには、とうとう最後まで慣れることはなかった。ドロテアは心底、戦争の終結を望んでいた。だが戦争が終わるということは、嫌でもこれからのことを考えなければならなくなるということだ。
 帝国出身でありながら王国軍に身を寄せていたドロテアが持つ選択肢は、そう多くはない。王国軍はこの後王都フェルディアへ凱旋するが、ドロテアはそれにはついてゆかず、一人残って荒れたアンヴァルで復興の手伝いをする、というのが最も現実的な選択のように思える。が、その先どうなるかまでは分からず、ドロテアは絶望に近い気持ちを抱いた。
「ここに残りたいのか」
 フェリクスから容赦ない追撃が来る。
 残るのか、と訊かれた方がまだ良かった。残りたいのか、と問われれば、反射的に否と答えたくなる。アンヴァルの裏通りには戻りたくないのだ。戻りたくないのに、自分はいつまでもその場所に縛り付けられているようにすら感じて泣き出したくなる。
「わからないわ」
 ドロテアはできる限り正直に答えた。うっすらと目尻に涙が浮かぶ。
 その答えをどう受け止めたのかはわからない。だが次にフェリクスの口から出てきたのは、予想だにしない言葉だった。
「フラルダリウスへ、来ないか」
 ドロテアの目が大きく見開かれた。
 フェリクスは冗談を好まない。反応を見ようとして、とか、そういったくだらない理由で言ったのでないことだけは分かる。
 だが、あまりに唐突すぎた。その言葉の意味がほぼ一つしかないと頭では分かっていながら、どうしても心の理解が追いついてゆかない。
「……どうして?」
 あらゆる言葉が浮かんで消えて、ようやくその問いがドロテアの口から絞り出された。
 フェリクスは驚いたような困ったような顔をした。額に手を当て、あぁ、と癖のように舌打ちをする。
 しばし沈黙が訪れた。その間、フェリクスは不器用なりに言葉を選んでいるようだった。
「この先、お前のいない生活を想像したら、あまりに退屈で……耐えられん、と思った」
 ようやく出てきたのは、実に彼らしい求婚の言葉だった。
 いつもの自分なら、驚くと同時に素直に嬉しいと思えただろう。だが、ドロテアは未だ戸惑いばかりに支配されて、彼の言葉をそのまま受け止めることができなかった。
 この戦争の間、彼の口から求愛の言葉を聞いた記憶はなかった。なんとなく一緒にいるようになっていたけれど、この関係にどういう名前を付けるべきなのかと問われれば、いつも答えに窮していた。軍の中では暗黙の了解として恋仲ということになっていたが、ドロテアは今この瞬間まで、彼の側にそういう感情があったのかどうか、全く分からないままだったのだ。
 最初はドロテアの方から興味を持ち、彼に付きまとい始めた。初めこそ鬱陶しがられていたが、フェリクスの提案で剣を交えた後、どうやらフェリクスが自分を気に入ってくれたらしい、というのは分かった。けれども、その後も特に二人の間に甘やかな雰囲気が流れたことはない、とドロテアは認識している。訓練の後は茶会をするのが定例となっていたが、フェリクスはほとんど何も話さず、ドロテアの話に相槌を打つだけだった。大聖堂で演奏会を開く際は、なんだかんだ言って毎回欠かさず見に来てはくれたが、感想を聞いても「悪くなかった」と言うだけの、素っ気ないものだった。
 そんなフェリクスだったから、あらゆる過程をすっ飛ばして求婚されたところで、心が追いつかない状態だったのはある。だがそれ以上に気にかかったのは、自分のこれまでの境遇と、彼の生い立ちのことだった。
「フェリクスくんは……国に帰ったら、家を継ぐことになるんですよね」
「ああ、そのつもりだ。父上はもういない。今は叔父上に任せているが、ゆくゆくは俺が、ということになるだろう」
「そうでしょうね」
 ドロテアは目を伏せた。
 あまりにも住む世界が違いすぎることは、初めて声を掛けたときから承知していたはずだった。彼は貴族だ。その上、彼の生家は代々王家と結びつきの強い名家。更にフェリクスはフラルダリウスの大紋章を有している。彼が亡き父ロドリグの跡を継ぐのは、誰から見てもごく自然な流れだった。
 対するドロテアはというと、改めて振り返りたくもない過去の積み重ねで生きている。帝国を離れて以来、その事実から目を逸らし続けていたが、ここに戻ってきてしまった以上、向き合わざるを得なくなってしまった。
「国に帰ったら、いくらでも令嬢との縁談が舞い込むでしょうに」
 灰色の石畳へと視線を落とし、呟くように言う。フェリクスが不機嫌そうに鼻を鳴らすのがわかった。
「ああ、そうだろうな。全く鬱陶しい話だ」
「そうかしら。綺麗な子も、貴方好みの子も……選び放題なんじゃありません?」
「俺の結婚相手は俺が自分で決める。他人の提案には乗らん」
 己の価値観に照らし合わせて、良いと思ったものだけを選び取ってきた、彼らしい発言だった。
「でも、だからって……」
 なおも言い返そうとするドロテアの言葉を遮って、フェリクスは苛立った口調で言った。
「そんなことはどうでもいい。お前の答えを聞いている」
 フェリクスの眉間にもう一つ皺が寄るのを見ていたたまれなくなり、ドロテアは再度石畳へと視線を落とした。
 だが、その直後。
「……俺が、嫌か」
 先程とは全く違う、あまりにも弱々しい声が聞こえたのに驚いて、ドロテアは弾かれたように顔を上げた。
 フェリクスは傷ついた表情をしていた。今までほとんど見たことのない表情だ。少なくともドロテアの前でそんな顔をするのは初めてではないか。いつだって彼は自分を振り回す側だったのだ。
 ドロテアはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、違います」
 フェリクスが安堵するのが、表情の変化で見て取れた。
「ならば、何故だ」
「私は……多分、そう、貴方にふさわしくないから」
「どういう意味だ」
 怪訝そうに尋ねるフェリクスに、ドロテアは隠し通すのもこれまでだと悟る。目を伏せたまま、ぽつりぽつりと自分の生い立ちを話し始めた。
 紋章を宿さなかったことで父に捨てられた後、母が病気で亡くなり孤児になったこと。このアンヴァルの裏通りで、乞食同然の生活をしていたこと。マヌエラに見出されてミッテルフランク歌劇団の歌姫になったはいいが、自分自身を見てくれる人は誰もいなかったこと。自分に貢いでいた貴族を利用して、ガルグ=マクの士官学校に入学したこと。さすがに身体の関係があったことまでは口にするのを憚られ、詳しくは話さなかった。
 全てを話し終わった後、フェリクスはしばらく何も言わなかった。
 彼に受け止めきれる話ではないかもしれない、と覚悟していたはずなのに、俯いただけで涙が溢れてきた。自分の思っている以上に、彼に嫌われたくなかったのだと気付いた。フェリクスと同じくらいかどうかは分からないが、自分も彼を愛していたのだと、強く思い知らされた。
 沈黙を破ったのはフェリクスだった。――言葉ではなく、ドロテアを正面から抱き締めるというやり方で。
「ドロテア」
 フェリクスははっきりと名前を呼んだ。ドロテアの心臓が跳ね上がる。これまで彼に名前で呼ばれたことは滅多になかった。
「お前はこれまで、そうやって自分の生きる道を切り開いてきたのだろう。自らの手で」
 更に強い力で、フェリクスに抱き締められる。
「ますます、お前以外の女は考えられなくなった」
 ドロテアの目に涙が浮かんだ。
「私でいいの。本当に、私で。こんな汚い身体と、汚い手の、私で」
「俺は、お前の生き方が好きだ」
 今のドロテアにとって、これ以上ない殺し文句だった。
 堪えていた全ての感情が決壊し、ドロテアは声を上げて泣いた。フェリクスはその間ずっと、強い力で抱き締めていてくれた。親が子をあやすように、背を幾度も撫でてくれた。普段の彼らしからぬその優しさに、ドロテアの心は大いに揺さぶられた。
 ひとしきり泣いて、ドロテアがようやく落ち着いたところで、フェリクスは指輪を差し出した。
「初めて見た時、お前の瞳の色が浮かんだ」
 ドロテアの瞳の色と同じ、翠玉のあしらわれた銀の指輪。
 左手を差し出すと、フェリクスがゆっくりとそれを嵌めてくれる。翠玉は高く昇った太陽に照らされて、きらきらと光り輝いた。
「こんなに幸せで……本当にいいのかしら」
 ドロテアが心の中の思いをそのまま口にすると、フェリクスは幾分か表情を和らげた。
「良いに決まっているだろう。誰にも後ろめたく思う必要などない」
「そうね。そう、なのよね」
 フェリクスの言葉を一つ一つ噛み締める。
 ドロテアは微笑みを浮かべていた。もう迷いはなかった。フェリクスは自分をありのまま受け入れてくれた。それ以上の幸せが他に存在するだろうか。ここへ来てようやく、ドロテアは真実の愛を手に入れたのだ。
 鳶色の瞳と、翠玉の瞳が惹かれ合う。
 どちらからともなく、二人は口づけを交わした。



 ディミトリ率いる王国軍は、無事王都フェルディアへ凱旋した。ドロテアもフェリクスと共にその輪の中に加わり、ディミトリを助け王国を救った者として、ファーガスの人々に歓迎されることとなった。
 ドロテアはフェリクスに連れられ、フラルダリウスの城へ迎え入れられた。数節後、新国王ディミトリの戴冠式を経て、フェリクスが正式にフラルダリウス公爵位を継ぐと、フラルダリウスの城ではフェリクスとドロテアの結婚式が厳かに執り行われた。共に戦ってきた仲間達の出席もあり、式は滞りなく進行した。
 形式的な儀式においては、一応式の前に侍女達から知識を得て密かに練習していたものの、無事に終えられるか不安だった。そんなドロテアを、意外にもフェリクスが全て先導してくれた。普段は口も悪く奔放に振る舞うことが多いから、無骨な印象を受けやすいが、彼はやはり根っからの貴族なのだ、とドロテアは強く実感した。
 そういえば、ガルグ=マクの食堂で一緒に昼食や夕食を摂るときなど、食事における所作に隙がなく完璧だったことを思い出した。他人にどう思われるかなど全く気にしないと常々話していた彼だが、こういったものは幼い頃から染みついているから、変えようがないのだろう。ドロテアはますます彼を頼もしく、好ましく思った。
 その日の夜、二人は同じ寝室にいた。湯浴みはそれぞれに済ませ、下着の上からガウンを羽織る格好で向かい合っていた。
 アンヴァルでフェリクスから指輪をもらい、フラルダリウスの城へ迎えられた後も、フェリクスの側から手を出してくることはなかった。正真正銘、今日が二人にとっての初夜となる。いつもはどう振る舞おうが他人の目など気にしないといった様子のフェリクスも、さすがに緊張した面持ちでいるようだった。
「私はいつでもいいですよ、フェリクス――いえ、旦那様」
 微笑みを浮かべてそう呼ぶ。いつかの時の演技とは違って、心の底から呼びたいと思って呼ぶ名前は、こんなにも心地よい響きを持つのかと、ドロテアは感動していた。一瞬脳裏によぎった過去の忌まわしい記憶は、即座に追い払った。
 フェリクスは落ち着かない様子でぐしゃぐしゃと頭を掻いた。
「……その呼び方はどうにも慣れん。二人の時はフェリクスでいい」
「そう? だったら、フェリクスで」
 呼び名を確認した後、いつでもどうぞと鷹揚に構えてみたが、フェリクスは険しい顔をするばかりで、なかなか手を出そうとしなかった。
 焦れったく感じ、ドロテアは自分から口づけを求めた。一つ一つは短く、何度もついばむように口付けを交わす。互いの唇が相手の唾液でぐっしょりと濡れた後、ドロテアは彼の手を取り、自身の豊満な胸へと導いた。フェリクスが驚いたようにびくりと肩を震わせる。薄々と感じてはいたが、やはり初めてなのだ、とドロテアは直感的に思った。
「貴方に触れて欲しいの」
 そう告げた後も、フェリクスは戸惑ったようにドロテアの胸に手を置くだけだ。ドロテアはその手を上から包み込み、自分の胸を揉みしだいた。自分の手が誘導していることではあるが、彼の手が自分の胸に触れているというその事実だけで、下腹部が熱を持ち始めた。
 やがてフェリクスは自分の意志でドロテアの胸をやわやわと揉み始めた。明らかに慣れていない所作が新鮮で、未知ゆえに壊れ物を扱うような慎重な手つきに、ドロテアは思わず幸福の溜息をついた。自分の欲望を満たすことが優先で、相手のことなど一切顧みなかったあの男の記憶が蘇る。自分はあの男にとって、本当に性欲処理の道具に過ぎなかったのだと、今更ながらに悟った。
「ねえ……脱がせてくれます?」
 そう言いながら、ドロテアは羽織っていたガウンを半分脱ぎ始めた。もう、布越しの感触では物足りなくなっていた。
 フェリクスは再び戸惑ったように手を止めたが、すぐにドロテアのガウンを剥がし、その中の下着も丁寧に脱がせてくれた。熟れたモモスグリの実のように艶めくドロテアの胸を見つめ、フェリクスは溜息を吐いた。
「……綺麗だな」
 そう言ってくれることが、何よりドロテアの気分を高揚させた。
「嬉しいわ。貴方にそう言ってもらえて」
 ドロテアはうっとりした表情で言った。
 フェリクスの手がドロテアの胸を包み込む。ゆるゆると揉みしだかれ、時折敏感な突起に指が赴くと、ドロテアは快感に思わず身をよじった。フェリクスが驚いたように手を止める。
「あ、ん……フェリクス、止めないで……そこ、好きなの、気持ちいいの……」
「ここか」
 彼の太い指の腹で押し潰されて、ドロテアの身体がびくんと跳ねる。
「あ、そう……そこ……あぁ、感じちゃう……」
 下に生えた茂みの奥から、蜜が溢れ出してくるのを感じる。フェリクスに触れられていることが、こんなにも幸せで気持ちが良いなんて。フェリクスと同じように、自分も〝初めて〟なのだと思った。本物の性行為とはこういうことなのだ。愛する者同士が触れ合って、幸福を分かち合い更に高めていく。今まで経験してきたものは、全て偽物だったのだ。ドロテアの目にはいつしか涙が浮かんでいた。
「フェリクス……私、もう……」
 胸を包んでいるフェリクスの手を再度取って、ドロテアはそのまま下へと誘導した。下着を脱いで、フェリクスの手に敏感な花びらを押しつける。蜜が溢れてとろとろになっているその部分に触れて、フェリクスの目が大きく見開かれた。
「ドロテア、お前」
「胸、触ってもらえただけなのに、こんなに……」
「感じているのか」
「ええ……こんな、いやらしい私は嫌い?」
 我ながらずるい質問だと思ったが、訊かずにはおれなかった。フェリクスの頬が僅かに紅潮し、息が荒くなり始める。彼の興奮に火を付けてしまったらしい、とドロテアは思った。
「嫌いなわけがなかろう。むしろ――」
 その先を言うか言わないかの間に、フェリクスの指がドロテアの茂みの中で蠢いた。目眩がしそうなくらいの強い快感に、ドロテアは絶えず喘ぐ。
「あん、フェリクス、あぁっ、気持ちいい、気持ちいいの、あぁ……っ」
 彼はまだドロテアの本当に好きな部分を知らない。そこに触れているわけでもない。更に言えばまだ中に挿れているわけでもない、表出した部分に触れているだけなのに、ドロテアは達してしまいそうなほど興奮していた。快感が幾度も背を駆け上がる。フェリクスの無骨な手がドロテアを弄ぶ。
 そうしている間に偶然にも、フェリクスの指先が蜜で滑り、ドロテアの中へつるんと入り込んだ。
「ぁあん!」
 それが引き金となって、ドロテアはあっという間に達してしまった。びくんと背を仰け反らせて一瞬固まったドロテアを見て、フェリクスも一度手を止めた。
 肩で息をしながら、潤んだ目でフェリクスを見つめる。
「ねえ、フェリクス、キスして……」
 ドロテアの求めに応えて、フェリクスは唇を重ねてくれた。幾度も幾度も口づけを交わし、ドロテアはフェリクスの口内へ舌を差し入れた。もう驚かなくなったようで、フェリクスもすぐ舌を絡めてくれた。どれがどちらの唾液かわからなくなるくらい、二人は深い口づけを繰り返した。
「貴方も、脱いで」
「ああ……」
 フェリクスは羽織っていたガウンと下着を床へ脱ぎ捨てた。途端に広がる雄の匂いにくらくらする。普段着を着ている時のフェリクスはディミトリやシルヴァンと比べると痩せているように見えるが、それは単なる錯覚だということが改めて分かる。剣を振るうために鍛えた腕の筋肉、硬い胸板、広い肩幅。自分と彼が根本的に違う生き物であることを、強く感じさせてくれる。
 視線を落としたドロテアは、彼自身が既に硬く反り返っているのに気付いた。先端からは先走りの透明な液体が滴っている。我慢しているのだと思うと急に愛おしくなって、ドロテアは彼の下半身に顔を埋めて先端に口付けた。フェリクスが驚いたように腰を引く。
「ドロテア、っ、お前、何を」
「うふふ……フェリクスくん、可愛い」
 昔の呼び方で呼ぶと、フェリクスが真っ赤になるのがわかった。同時に眉をつり上げて、不愉快そうに鼻を鳴らす。そういう反応こそが可愛いのに。ドロテアはくすくすと笑った。
「私がイっちゃうのを見て、興奮したんです?」
「っ……お前、そういうことをいちいち……」
「ねえ、ちゃんと言ってちょうだい。貴方のこれ、どうしてこんなふうになってるの?」
 意地悪なことをしているという自覚は十分にあった。フェリクスの反応があまりに初心で可愛らしいからいけないのだ。心の隅に生まれた小さな罪悪感は、フェリクスに押しつけて消してしまう。
 フェリクスは不本意そうに口をつぐんで、数秒の沈黙を挟んだ後、ドロテアから顔を逸らしながら言った。
「……ああ、そうだ。お前がいやらしい格好をしているから、興奮した」
「ふふ。嬉しい。ちゃんと言ってくれたから、これはご褒美、ですよ」
 そう言って、ドロテアはフェリクスの屹立したものを口に含んだ。ちろちろと先端を舌で舐め回し、大きく口を開いて呑み込み、先端から溢れる液を啜ってやる。
「お前、っ、こんな、こと……っ」
 ドロテアの額に手を当てて逃れようとしているが、快感からは逃れられずに呻いているフェリクスが、この上なく愛おしかった。
 彼に気持ちよくなってもらいたい。ドロテアは彼の好きな場所を懸命に探った。ある程度経験があったおかげで、当たりをつけやすくなっていたのは不幸中の幸いといったところだろうか。フェリクスが敏感に反応する場所を見つけたドロテアは、その場所を執拗に責め立てた。
「んっ、く、うっ……ドロテア、やめ、ろ……」
「ここ、好きなんですよね?」
「っ、……」
 顔を真っ赤にして目を逸らしたのが答え、とドロテアは解釈した。彼の硬いものを口に含み、手で根元から扱き上げ、先端を舌先で責め立てると、フェリクスは腰を浮かせた。
「っ、く、うっ……!」
 どろりとした白濁液が飛び出し、ドロテアの頬にかかる。
 ドロテアはそれを指で掬い、ぺろりと舐めた。まだ彼の体温を残したその粘液は、ドロテアの喉をゆるゆると滑り落ちていき、やがてドロテアの一部となった。
 陰茎がゆっくりと重力に従って落ちていく。フェリクスは放心しているようだった。こんなに気の抜けた表情は初めて見た。ドロテアは愛おしさがこみ上げて、フェリクスの顔を正面から覗き込んだ。
「うふふ。気持ち良かった?」
 一拍おいて、フェリクスはああ、と生返事をした。未だ視線はどこか宙を浮遊したままだ。
 フェリクスの達した姿を見たことで、ドロテアの下半身がまた熱を持ち始めた。放心したままのフェリクスに見えるようにして、ドロテアは軽く腰を浮かせ、蜜壺の中へと指を滑り込ませた。白い指が何度も何度も出入りし、蜜がシーツの上へと溢れ出してくる。
「あん、あんっ、はぁ……っ」
 フェリクスの目の焦点が次第に定まり始め、ドロテアの淫靡な姿を捉えた。彼にいやらしい姿を見られている。ドロテアの興奮が高まっていくのを感じた。
「ねえ、フェリクス……見て。私、貴方が欲しくて、こんなに……」
 フェリクスが栗色の茂みの中の蜜壺を凝視してくる。と同時に、一度は萎えたはずのフェリクス自身が再び屹立し始めた。
 フェリクスは身体を起こし、腰を浮かせるドロテアをシーツの上へ押し倒した。小さな声を上げてシーツの海に放り出されたドロテアを、フェリクスは獲物を狙う獣の如き目で見つめていた。ドロテアはぞくぞくした。
「お前、いい加減にしろ。俺をどうするつもりだ」
「どうするって……狼さんに襲ってください、ってお願いしてるんです」
 くすくすと笑いながらそう言うと、チッ、とフェリクスは舌打ちをした。今にも理性をなくしてしまいそうな彼の、精一杯の抵抗なのだろう。育ちの良さがそうさせるのか、はたまたフェリクス自身がそういう考えなのか、欲望のままに相手を抱くことに抵抗があるのかもしれない。
 ドロテアは挑戦的な瞳でフェリクスを見つめ続ける。フェリクスの欲望を堰き止めている堤防を壊したいと願いながら。
 やがてフェリクスは動き始めた。ドロテアの肩を掴むと、ぐいと顔を近づけて、耳元に唇を寄せる。
「後から後悔しているなどと言っても、もう遅いぞ」
「分かってます。後悔なんてしません。貴方になら何をされてもいいわ。だって貴方のこと、心から愛しているんだもの」
「ドロテア」
 本当にいいんだな。
 そう問いかけるフェリクスの熱っぽい息が、ドロテアの耳朶をしっとりと濡らす。ドロテアはフェリクスの背に手を回した。
「いいわ。私をフェリクスの好きなようにして」
 殺し文句を放つ。
 大きな溜息を吐いた後、フェリクスはわかったと短く言って、一度身体を離した。
 初めての彼にも分かるように、ドロテアは蜜壺の入り口を指で大きく広げた。フェリクスは自身のいきり立ったものを、その場所へ密着させる。いいか、と視線で問われた。視線だけでもきちんと尋ねてくれるフェリクスに途方もない優しさを感じて、ドロテアは微笑みながらしっかりと頷いた。
 彼の先端が蜜に濡れ、ぬるりと中へ入り込んだ。入り口のところだけでも感じてしまって、ドロテアは恍惚の溜息を吐いた。
 とっくの昔に破瓜を済ませたドロテアの中へ、フェリクスが少しずつ肉襞をかき分けて侵入してくる。愛する彼に初めてを奪われる経験ができないことは少し残念ではあったけれど、最初から何の抵抗もなく彼を受け入れられることに、また違う喜びを感じるのも事実だった。
「あぁ……フェリクス、貴方を感じるわ。すごく、嬉しい」
「ああ……俺もだ」
 フェリクスの頬を伝い落ちた汗が、ドロテアの頬を流れていく。そんな僅かな体液すらも愛おしくて、ドロテアは白い指先でゆるりと拭った。自分の中に取り込むようにして。
 ようやく最奥まで受け入れたところで、フェリクスは安堵の息を吐いた。額の汗がもう一筋伝い落ちる。
「うれしい……貴方とやっと一つになれたのね」
 ドロテアがうっとりとした口調でそう言うと、フェリクスもそれを噛み締めるようにゆっくりと頷いた。
「ねえ、動いて……貴方の思うままでいいから」
 ドロテアがそうねだると、フェリクスはゆっくりと腰を引き始めた。そうして一気に、再び最奥を突く。快感が素早く背を駆け抜けて、ドロテアは弓のように仰け反った。
「あぁっ!」
 最初のその動きはゆっくりだったのに、フェリクスの腰の動きが徐々に速くなり始めた。フェリクスの、鍛錬の時よりも荒い息づかいが鼓膜を震わす。初めてなのに、否、初めてだからこそ、この快感に夢中になっているに違いないと思った。それはドロテアも同じだ。行為自体は初めてではないが、愛する人と身体を重ねる体験をするのは初めてで、こんなにも幸福なものなのかとあまりの感動に震えた。
「あぁっ、あん、フェリクスっ、気持ち良いの、あぁっ!」
 腰を打ち付けながら、フェリクスも応える。
「ドロテア、っ、俺も、お前が、愛おしくてたまらん」
 ドロテアの心臓が高く跳ね上がる。フェリクスがこんなに情熱的に愛を囁いてくれたのは初めてだ。尋常でないこの状況がそうさせたのだろう。うれしい。うれしくてたまらない。溢れ出た幸福の感情を、口からそのまま吐き出した。
「フェリクスっ、私も、私も好きなの、貴方のこと、誰よりも愛しているわ」
 その言葉に応えるように、フェリクスは今までよりも強く最奥を突いた。
「あぁあっ……!」
 ドロテアの視界が白くなる。
 あまりの快感に身体中の力が抜け、ドロテアはシーツの上で放心した。
「くっ、う……っ!」
 フェリクスの苦しそうな声と共に、温かいものがドロテアの中へ放たれる。その熱は下腹部からじんわりと込み上げて、ドロテアの心を更に熱くしてくれた。欲望のままに。けれども確かな愛情を伴ってドロテアを包み込んでくれる熱だ。
 フェリクスは陰茎を引き抜いて、そのままドロテアに覆い被さってきた。フェリクスもまた、放心しているようだった。
 達した直後よりもだんだん我を取り戻してきたドロテアは、彼の頬に口付ける。その場所に、桜色の跡が閃いた。
「フェリクス、私、今、とっても幸せだわ」
 フェリクスの頬に手を当てると、フェリクスはゆっくりとその手を自分の手で絡め取る。フェリクスはまだ肩で息をしながらも、唇の端をほんの少し緩めて、微笑んだ。
「ああ、俺もだ」
「うれしい」
 ドロテアが口づけをねだる。
 フェリクスは指と指を絡めたままドロテアを引き寄せて、赤く艶めく唇に、優しく口づけを落とした。
(2020.1.12発行予定)
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