その手に握られた2本のグラジオラスの花も、呼応するようにさやさやと揺れた。けれども剣に喩えられるだけあって、その茎は決して揺らぎはしなかった。
ドロテアは階段の上から墓地を見下ろした。そこには先客がいた。イングリットだった。ドロテアは階段を降り、声をかけずにイングリットの隣に並んだ。
イングリットは墓前で静かに黙祷していたが、その気配に気づいて振り返った。
「ドロテア」
ドロテアは黙って墓石に刻まれた名前を読んだ。ロドリグ=アシル=フラルダリウス――王国きっての名家フラルダリウス家の領主にして、ファーガスの盾の異名をとる騎士でもある。前節まではディミトリ率いるこの王国軍に直接加わり、帝国軍を相手に戦っていた。だが、ディミトリが過去手にかけた男の妹が斬りかかってきた際、ディミトリを庇い、命を落とした。
「ロドリグ殿の?」
イングリットの問いに、ドロテアはええ、と頷いた。彼女は少し驚いた表情をした。当然だろう、帝国出身の平民であるドロテアと彼の間に接点など、普通は浮かばないはずだからだ。
だが――ドロテアの脳裏に、うっすらとロドリグの姿が浮かんでくる。
ドロテアは静かに瞼を伏せた。
あれは、前々節のことだったか。ロドリグが王国軍に加わってすぐ、大聖堂では小さな演奏会が開かれた。この荒んだ戦時だからこそ、人々には癒やしが必要だ。そう考えたドロテアが企画したものだった。
ガルグ=マク大修道院で過ごすセイロス教の修道士たち。商人たち。周りの街に住む大人や子どもたち。たくさんの人々が集まって、楽器の得意な者が奏でる演奏や、かつて帝国で歌姫と呼ばれたドロテアの美声に耳を傾けた。
その観衆の中に、ロドリグはいた。演奏会が終わった後で、ドロテアは彼に話しかけられて驚いた。
「素晴らしい歌声であったな」
「ロドリグ、様? ……あ、ありがとうございます」
ドロテアが慌てて頭を下げると、ロドリグは手を横に振った。
「そうかしこまらなくてもいい。君のことは先生から聞いた。帝国出身で、ミッテルフランク歌劇団の歌姫だったということも」
「あ……」
ドロテアは居心地の悪さを感じ、軽くうつむいた。王国と帝国が全面的に争っている今、帝国出身ということには多少なりとも後ろめたさを感じるのだ。他人にどう見られるか、ということも含めてだ。
だがロドリグは、そのことについては何も思っていない様子だった。
「さすが歌姫と称えられるだけあって、素晴らしい歌声だった。聴いていて心が洗われるようだった。このような時世だからこそ、こういった娯楽も必要なのだと、改めて考えさせられたな」
それ以降、ロドリグはドロテアの身分等に言及することはなく、ドロテアの歌声がいかに素晴らしいかということを話し、讃えた。ドロテアは恐縮しきりで、どんな顔をすれば良いかわからなくなるほどだった。だが、決して嫌な思いはしなかった。むしろ、これまで接点もなく、大して感情を抱くこともなかった彼に、明らかな好感を抱いた。
話が一段落したところで、ふと――ドロテアは目の端に彼と同じ群青色の髪が見え、そちらへ視線をやった。すると柱の陰にいたフェリクスと目が合った。フェリクスはチッ、と舌打ちをすると、踵を返して大聖堂を出て行ってしまった。
彼と父親の仲が良くないことは、士官学校にいた頃から噂に聞いて知っていた。おそらく、彼はドロテアとの約束を守り、演奏会を聴きに来てくれた。までは良かったが、先に父親がドロテアに声を掛けたがために、今まで声を掛ける機会を逸してしまったということなのだろう。
小さな罪悪感が芽生えたが、ドロテアはむしろすがすがしい気持ちになった。この親子に対して抱いていた好感の理由を、正しく理解したからだ。
彼らは身なりや地位などで人を判断しない、貴族の中でも稀な人種なのだ。これまでドロテアが出会った貴族たちとはまるで違う。だからこそ興味を抱いたし、好ましくも思ったのだ、と。
フェリクスに面と向かって、あなたは父親に似ている、など言おうものなら、一日中不機嫌になるだろう。あるいは彼の気が済むまで剣の訓練に付き合わされるかもしれない。
それでも、ドロテアは思わずにはいられなかった。
彼らは、確かに親子なのだと。
かいつまんでその時の話をすると、イングリットはなるほど、と納得したようだった。
「そういえば、昔はフラルダリウスの屋敷で何度か演奏会が催されていたことがありました。グレンやフェリクスと一緒に聴いた記憶があります」
「グレンって、確か」
「ええ、私の許婚……でした」
イングリットはそう言って目を伏せた。ドロテアもまた、イングリットがここにいた意味を理解した。
「昔はロドリグ殿に、本当によくしていただきました。同じ貴族とはいえ、フラルダリウス家は裕福な名家。対する私のガラテア家は貧しくて、毎日の食事すら困る有様。それでもロドリグ殿は、そんなことは関係なく、私をグレンの婚約者として、実の娘のようにかわいがってくださった。それが、本当に嬉しかったのです。本当に」
イングリットの声が微かに上ずった。程なくして、彼女のまなじりには大粒の涙が浮かんだ。
「この戦争が終わったら、必ずロドリグ殿をフラルダリウスに連れ帰って差し上げたい。そう思っています」
イングリットは涙をぬぐい、強い口調で言った。そうしてもう一度黙祷すると、顔を上げてドロテアに微笑んだ。
「私ばかり独占してしまってすみません。ドロテアも、どうぞロドリグ殿に、その花を供えて差し上げてください」
「ええ、そうするつもり。ありがとう」
ドロテアも微笑み、それに応えた。
ドロテアは膝を折り、持っていた白いグラジオラスのうち一本を墓前に供えた。もう一本は手に持ったまま、再び立ち上がる。
息子であるフェリクスや、子どもの頃から交流のあるイングリットに比べたら、自分とロドリグの繋がりなど、か細い糸のようなものかもしれない。だが今のドロテアには、ロドリグに花を供える明確な理由があった。
ドロテアは口を開き、喉を震わせると、セイロス教の鎮魂歌を歌い始めた。
一つの旋律が終わろうとした時、ドロテアは階段を降りてくる足音に気づいた。ドロテアは歌うのをやめ、振り返った。音の主は足を止め、気まずそうに視線を逸らした。
「フェリクス……」
小さくため息をついて、フェリクスは開き直ったように再び階段を降り、ドロテアの横に並び立った。
「来ていたのか。お前も」
「ええ。いけなかった?」
「いや。……一応、礼を言う」
フェリクスは抑揚のない声で言った。
フェリクスと共に、ドロテアはもう一度墓石に刻まれた名へ視線を落とした。フェリクスは何も言わなかった。そっと盗み見ると、彼の鳶色の瞳には、複雑な感情が渦巻いているようだった。
「フェリクスくん。これを」
ドロテアは持っていたもう一本のグラジオラスを差し出した。彼は手ぶらだったのだ。
フェリクスは軽く身を引いた後、躊躇うようにしていたが、ようやくその花を受け取った。だが、なかなかしゃがんで花を供えようとはしなかった。この数年で、彼を縛るものができあがりすぎてしまったのだと、ドロテアはうすうす理解した。
父の死を悼む気持ちを持っていないわけではない。だがあまりにも唐突すぎたのと、今までの確執と、それらが複雑に絡み合って、今のフェリクスの動きを止めているのだろう。
そんな彼を、痛々しく思った。だからといって、ドロテアには何もできない。これは彼自身が向き合って整理をするべき問題なのだ。
ドロテアはもう一度、先程の鎮魂歌を最初から歌い始めた。
フェリクスの視線が注がれる中、ドロテアは歌った。ロドリグのことを想って。そして、自分を見つめている、フェリクスのことを想って。
ふと、歌の途中で、フェリクスの視線が外れたことに気がついた。ドロテアは最後まで歌い終わってから、彼を見やった。
ドロテアからは顔を背ける彼。しかし微かに洩れる嗚咽を、ドロテアは聞き逃さなかった。群青色の髪の間から見えるまなじりには、小さな光の粒が浮かんでいた。唇が赤くなるまで歯を立て、決壊しないようにと必死に堪えているようだった。
「フェリクス」
ドロテアは正面から、彼を抱きしめた。
フェリクスが驚いたように息を呑むのが伝わった。反射的に抵抗されたが、それでもドロテアはフェリクスの身体を抱いたまま動かなかった。彼の頭を両手で愛おしむように撫でながら、ドロテアは言った。
「後で、いくらでも怒っていいから。私も、誰も見ないから。だから」
泣いてもいいんですよ。
そう言った途端、フェリクスの喉の奥からぐうっという声が洩れた。
程なくして、ドロテアの胸に雫が落ちた。それは乾く間もなく次々に落ちて、ドロテアの胸を濡らした。
それからしばらくして、ドロテアは自分の頬にも涙が伝っていることに気づいた。哀しみがどっと胸に押し寄せて、ああ、とドロテアは声を出した。
父親との確執。領主を失った家と、後継である彼の立場。全ては彼が自分で向き合うべき問題であり、自分が口を挟むことではないし、そうするつもりもない。
だがそれでも、ドロテアは願わずにはいられなかった。
父を喪った息子の哀しみが、少しでも癒されますように、と。
フェリクスは膝を折り、白いグラジオラスの花を墓前に供えた。
フェリクスの目はまだ少し充血していたが、表情は幾分か清々しいものに変わっていた。ドロテアも同じように膝を折って、花を手向ける彼の手を見つめた。
フェリクスはしばらく墓前に並ぶ花を見つめていたが、やがて口を開いた。
「お前がいてくれて、良かった」
ドロテアは思わず目を瞠った。今までの彼からは、想像もできないような言葉だったからだ。
だが、フェリクスの声は真剣そのものだった。普段から彼が自分をどう思っているのか掴みかねていたドロテアにとっては、その言葉だけで十分だった。
「私も……良かった。貴方に会えて。貴方のお父様に会えて」
ドロテアは微笑みを浮かべた。
「貴方のお父様に話しかけられた時、私、分かったの。貴方のことを好きになった理由が。貴方とお父様は本当に似ているということも」
「どういう意味だ、それは」
フェリクスは眉を寄せたが、その反応は決して不機嫌からくるものではなく、純粋な疑問からくるもののようだった。
「貴方も、貴方のお父様も、私のことをきちんと見て話をしてくれたから」
フェリクスは未だよくわからないといったように眉を顰めていたが、ドロテアはそれ以上何も言わなかった。先程の言葉が全てだからだ。
華やかな表舞台に立つ自分の容姿だけを見て群がってきたり、かと思えば身分が低いことを見咎めて、大して話もしないのに蔑んだりぞんざいに扱ってくる貴族たちをたくさん見てきた。だがフェリクスとロドリグは、今まで出会ったどの貴族とも違っていた。帝国と王国ではその性質も違うだろうとフェリクスは言ったが、きっとそれだけではない。
ドロテアは心の中で願った。二人とも生きて、この戦争を終わらせられるようにと。そして、戦争が終わっても、彼の傍にいられるようにと。
風が吹いて、ドロテアの髪がふわりと舞う。
ドロテアは立ち上がった。つられたように、フェリクスも立ち上がる。風に煽られる髪を押さえながら、ドロテアは蒼穹を見上げた。未来に思いを馳せていると、無言のまま、
彼のぬくもりが、触れた部分を通して伝わってくる。ドロテアは思わず涙が出そうになった。
フェリクスは何も言わない。それでも今のドロテアには、彼が何を思ってそうするのか、はっきりとわかる。
――お前がいてくれて、良かった。
先程の彼の言葉が、頭の中で響く。
ドロテアは目を閉じて、そのぬくもりに身を預けた。
まなじりから溢れた涙が、頬を伝い落ちていくのを感じながら。