「あまり変わらない、わね……」
ドロテアは一人でアンヴァルの裏通りを訪れていた。
表通りは戦争の終結を喜ぶ人々、犠牲となった者たちを嘆く人々で喧噪に包まれていたが、裏通りは火が消えたようにひっそりとしていた。
カツ、カツ、と、ドロテアの靴が石畳を叩く。と――曲がり角のところで、こっそりとこちらを窺う視線に気がついた。ぼろぼろの服を着て、生え放題の黒髪をそのままにしている少女。ドロテアに対し、警戒とも困惑ともとれるような視線を向けている。
ドロテアは既視感に襲われた。それを振り払うかのように早足で歩み寄り、ドロテアは少女の前で膝を折った。少女は固まったまま動かない。
「ごめんなさい、怖がらないで。何もしないから」
少女はきゅっと身体を強張らせた。彼女の目は困惑と警戒の入り交じったものから、明らかな警戒の色へと変わる。ドロテアは気圧されそうになりながら、なんとか言葉を継いだ。
「お腹が空いているの? なら、これを食べて。あまり美味しくはないかもしれないけれど、お腹の足しには――」
「いらない!」
ドロテアが差し出した乾パンを、少女は勢いよくはたき落として去って行った。落ちた乾パンは石畳の上を転がり、転がった先にいた他の浮浪者に奪われてしまった。
一瞬の出来事だった。ドロテアは息ができなくなるほどの痛みを感じ、思わず胸を押さえた。この場所がどういう場所だったか、自分はすっかり忘れてしまっていたのだと痛感した。
先程の少女のように容姿に気を配ることもできず、生きるのに必死で、泥水を啜る毎日。それがかつてのドロテアの日常だった。当時のミッテルフランク歌劇団の歌姫、マヌエラがここから救い出してくれるまでは。
あの頃の自分はどうだったか、ドロテアは改めて思い返す。自分がもし、今の少女の立場だったら。ここで生きる者たちとは明らかに違う、恵まれた装いの人間が尋ねてきたら、無条件に警戒するだろう。まして施しを受けるなど、何かあるに違いないと思うに決まっている。空腹でなりふり構っていられない時はあるが、ここで生きる者たちにも自尊心はあるのだ。
あの少女が、かつての自分と重なって仕方がなかった。だからこそ、彼女の視線に耐えきれなかった。どうにかしなければ。そう、強く思いすぎてしまった。かつての自分を埋め合わせるかのように。そんなことはできるはずもないと知っていながら。
ドロテアは安易な行動を取った自分を恥じると同時に、もう自分はここにいてはいけない人間になってしまったのだと、改めて痛感した。
「……さようなら」
ドロテアは静かに目を伏せると、踵を返し、裏通りを立ち去った。
「ここにいたのか。探したぞ」
「フェリクス……」
表通りへ出た途端、ドロテアは声を掛けられて驚いた。その相手が、自分と浅からぬ縁の相手であったことも。
フェリクスはやや険しい表情をしていたが、ドロテアを責めるような気配はなかった。
「お前は……これから、どうするんだ」
今まさに考えていたそのことを問われて、ドロテアは思わず目を伏せた。
皇帝エーデルガルトを斃した後、王国の将ディミトリは全軍に向け、明日王都に向けて出発すると告げた。大半の王国軍の者たちは浮き立って祖国凱旋の準備をしており、それはフェリクスとて、例外ではないはずだった。
だが、ドロテアは違った。元々帝国出身な上、王国に向かったところで、自分の身を寄せる場所があるわけでもない。今後の身の振り方を考えなければと思う中で、ふと、この裏通りを訪れたくなったのだ。この場所に戻ったところで、何があるわけでもないと分かっていながら。
「お前、その手はどうした」
フェリクスに指摘されて、ドロテアは初めて、右手の手首が赤くなっていることに気づいた。おそらくは先程、少女に乾パンをはたき落とされた時にできたのだろう。
意識したせいか、一瞬鋭い痛みを感じ、ドロテアは微かに表情を歪めた。庇うように左手を重ねると、フェリクスが珍しく心配そうな表情をしてみせた。
「すぐに手当を。医療班に――」
「いいえ、いいの」
マントを翻しかけたフェリクスを制して、ドロテアはかぶりを振った。フェリクスが何故、と視線で鋭く問うてくる。
「これは、私の安易な行いに対する罰だから」
「どういうことだ」
ますます分からないと言いたげなフェリクスに、ドロテアはぽつりぽつりと話し始めた。
「私、元々はずっとここにいたの。帝都アンヴァルの出身、といえば聞こえはいいけれど。実際にいたのは華やかな表通りじゃなくて、暗い暗い、裏通りだった」
ドロテアが先程歩いてきた裏路地の方へ視線を向けると、フェリクスもつられてそちらを見た。
「毎日の食事が満足にできないなんて当たり前。時には食料を奪い合って、文字通り泥水を啜って生きてたわ。見た目に気を配る余裕なんて当然なくて、私はぼろぼろの服を着て、髪は伸び放題のままで。マヌエラ先輩がここから連れ出してくれなかったら、今の私はなかった」
笑っちゃうでしょう、とドロテアは笑顔を作ってみせる。
「そんな女が、歌姫気取って、貴族に取り入って、士官学校に行って。周りのみんなと違って、私には何もないのに、一人前の生徒の顔をして。私はずっと、何もない自分が大嫌いだった」
一呼吸置いて、ドロテアは更に続けた。
「自分を受け入れてくれる場所を探したかった。だからここに戻ってきてみたの。でも……もうここに、私の居場所はないわ。毎日の食事があって、仲間のみんながいる……満たされた生活に、慣れすぎてしまったから」
そう言って、最後はうつむいた。
ドロテアが話す間、フェリクスは黙ってドロテアをじっと見つめていた。同情なのかそれ以外の何かなのか、感情の読めないその視線に耐えられず、ドロテアは思わず泣きそうになった。
涙が溢れかけた顔を隠そうと顔を背けた、その時だった。
「ドロテア」
はっきりと名前を呼ばれて、ドロテアの心臓が跳ねた。思わず向き直ると、フェリクスはこれ以上ないくらいの真剣な眼差しで、ドロテアを見つめていた。
「フラルダリウスに、来ないか」
ドロテアの目が大きく見開かれた。
意味を理解するのに、数秒ほどの時間を要した。フラルダリウスは王国領、フェリクスの故郷である。その言葉が意味するのは、もう、一つしかない。
「今、こんな話をしたばかりなのに?」
泣き笑いのような顔で、ドロテアは問う。
フラルダリウス家はファーガス神聖王国一と言っても過言でないほどの名家。代々の領主はファーガスの盾の異名を取り、王家に最も忠実な騎士として讃えられてきた。一般的な騎士道精神を毛嫌いし、父親と距離を置いてきたフェリクスも、国へ帰れば間違いなくフラルダリウス家を継ぐことになるだろう。
由緒正しき名家の嫡子と、何も持たない平民の自分。釣り合いが取れないことなど、馬鹿でも分かる。
だが、フェリクスの瞳は揺らがなかった。
「お前の過去は、確かに悲惨だったのだろう。だが、過去は過去だ。死者が二度と生き返らぬように、過去は二度とやり直せない。だから俺たちは前を向いて歩くしかない。今を生きるということは、そういうことだ」
「今を、生きる……」
ドロテアははっとした。
これまで過去や身分という、自身ではどうしようもない重石を引きずりながら生きてきた自分。それらを捨てるつもりで華やかな世界に身を転じるも、空虚な思いはいつまでも癒されないままだった。
自分がこんな思いをするのは、何も持たないで生まれてきたせいだと思っていた。だからこそ、自分自身が嫌いだった。だがそれは、一種の思考停止だったのかもしれない。ドロテアは胸を衝かれる思いだった。
「それに……お前のいない毎日など、退屈でかなわん」
言ってから、フェリクスはどことなく居心地悪そうな様子で視線を逸らした。
ドロテアは急におかしくなって、思わずくすくすと笑った。何だ、とフェリクスが不機嫌そうに睨み付けてくる。その頬が微かに赤らんでいるのを見て、ドロテアの心は幸福に満たされた。
「本当に、私でいいの?」
ドロテアは冗談っぽく微笑んだ。
「国に帰ったら、きっと、たくさんの令嬢から縁談が舞い込むでしょうに」
「ああ、そうだろうな。だが俺の結婚相手は俺自身が決める。ドロテア、お前以外の女など、俺には考えられない」
ドロテアはあまりの幸福に胸がいっぱいになった。
これ以上の殺し文句なんてないことを、フェリクスは知っているのだろうか。
ドロテアの赤い頬に、一筋の涙が伝う。胸で抱えきれなくなった幸福が、涙となって次々にドロテアの瞳から溢れだした。フェリクスが困ったように、いつもの癖で舌打ちをするのが分かった。
「おい、泣くな……どんな顔をしていいかわからんだろうが」
「ごめんなさい。本当に、嬉しかったの。こんなに嬉しいこと、今までなかったから」
ドロテアが微笑みながら言うと、フェリクスは幾分か安堵の表情を見せた。
ドロテアは涙をぬぐって、フェリクスと正面から向き合った。それで、と答えを促すフェリクスに、ドロテアはもちろん、頷いた。
「はい。喜んで、お受けします」
かくしてその日、王国軍は王都フェルディアに向けて出発した。
引き締まった表情でディミトリの後ろを歩くフェリクスの傍らには、明るい表情で胸を張って歩くドロテアの姿があった。
二人の手は固く握られ、王都フェルディアに戻るまで、決して離れなかったという。