一仕事終え、帝都アンヴァルにやってきたフェリクスは、真っ先に劇場へ足を運んだ。
他の客に混じって入り口で入場料を支払い、そのまま席へと向かう。今日は週末ということもあってか客が多く、前列や中央の良席はどこも埋まっていたが、探した挙げ句、ようやく真ん中より少し後ろの列の左端の席を確保し、ゆっくりと腰を下ろした。
幕が下りた舞台を見つめ、これから始まる歌劇を想像した。それだけで自分の心が浮き立つのを感じて、フェリクスは思わず苦笑した。
定刻になり、舞台の幕が上がる。主役の歌姫が姿を現すと、客達の意識が一斉にそちらに向けられた。
歌いながら軽やかな足取りで、広い舞台を左右に動き回る歌姫。ワインレッドのドレスから伸びる足、天に向かって伸ばされる白い腕、動きに合わせて揺らぐ栗色の髪。フェリクスは瞬きを忘れ、彼女の姿を追った。
ふと、彼女と目が合った。彼女はさりげなくフェリクスに目配せをすると、その場に立ち止まり、声を張り上げて、最後のフレーズを高らかに歌い上げた。彼女の声の響きは会場全体を包み、フェリクスの心を強く揺さぶった。
客席から拍手がわき起こる。フェリクスも手を叩きながら、自然と頬を緩めていた。戦場にいる時とは全く違う表情だ。他の客がそれを気にする環境にないのは、フェリクスにとってとても好都合だった。
フェリクスが余韻から抜けた時には、既に次の音楽が始まっていた。相手役の男性と踊る歌姫。ソプラノとテノールが交互に響き、なんとも言えぬ心地よい高揚感に包まれる。
舞台上で喜びを表現する彼女の表情は、いつだって一番輝いていた。それを見るのが、フェリクスの今の楽しみでもあり喜びの一つでもあるのだった。
ふと、踊りの合間に再び歌姫と目が合った。真ん中よりも後ろ、左端の席で、舞台とは遠く離れているというのに、彼女の歌が耳元で響くような錯覚に陥る。アンヴァルの伝統菓子をうっかり口にしてしまったときのような、甘ったるい痺れに襲われて、フェリクスは背もたれに身体を預けて溜息を吐いた。
余韻で満たされて軽く脱力するフェリクスを気に掛ける人間は、この劇場には一人もいない。客達も皆、彼女らの歌に聴き入っているからだ。
そう、ただ一人、舞台上の歌姫を除いては――
劇場を出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。
フェリクスは行きつけの酒場へと顔を出した。カウンターにいるマスターへ酒を注文し、グラスを受け取ると、奥まった場所にあるいつもの席に腰を下ろした。
アンヴァルの裏通りにあるこの酒場に集うのは、荒っぽい態度の傭兵たちや、露出の激しい格好をしている娼婦達だ。大概は何杯か酒を飲んだ後、併設されている二階の宿屋へ行き、一夜限りの関係を楽しむ。男は稼いだ金をいくらか渡し、女は後腐れなく去って行く。
酒の入ったグラスを傾けながら、フェリクスはぼんやりと酒場の様子を眺めていた。自分が馴染んでいるかどうかはともかく、この雰囲気にはすっかり慣れてしまったと、妙な感慨にふけりながら。
数年前までは想像もしなかった。特に士官学校に通っていた頃には――もう、だいぶ昔のことのように思える。剣を握って戦う理由も、そもそもの生きる理由も、今とは全く違っていた。
少し思い出すだけで、フェリクスの心は暗くなった。フェリクスはチッ、と舌打ちをすると、グラスの酒を一気に流し込んだ。
その時、突然外から騒がしい声が聞こえてきた。フェリクスは何気なく近くの窓から外の様子に目をやり、直後、思わず立ち上がっていた。テーブルとテーブルの間を素早くすり抜けると、フェリクスは扉を半ば蹴破るようにして外へ出た。
「もう、やめてったら! 離してくれなきゃ、斬りますよ!」
一人の女が男達に囲まれて腕を掴まれている。女の鋭い声に男達は怯む様子もなく、下卑た笑いを浮かべている。
「へえ、威勢の良いこった。やれるもんならやってみな、なぁ? 俺たちゃ、この辺じゃちょっと有名な傭兵なんだぜ?」
男の自信満々な言葉に対し、周りからはおうよ、と同意した声が上がる。
フェリクスは忌々しげに舌打ちをすると、彼女の腕を掴んでいる男に近づいた。男がフェリクスに気付いた時には、男の身体は地面に叩きつけられていた。
「ぐあっ!」
男の悲鳴が上がる。傍らの剣を引き抜こうとしていた女は、はっとしてフェリクスを見た。
「なんだてめえは!」
他の男達がフェリクスににじり寄ってくる。フェリクスは煩わしげに睨み付けた。
「うるさい。邪魔だ」
襲いかかってきた男達の動きは実に荒々しいものだった。その行動を読むのは赤子の手をひねるより容易く、彼らはフェリクスの身体に指一本触れることすらできなかった。確実に急所を狙って突きを繰り出すと、男達はばたばたと折り重なるように地面に倒れていった。
「ありがとう……」
女はフェリクスの傍に駆け寄ってきた。ああ、とフェリクスは彼女の手を取る。
「行くぞ」
「ええ」
頷いて、二人は酒場へと戻った。
階段を上り、宿屋のカウンターで代金を支払うと、二人は部屋に入った。
古びたベッドの上に腰を下ろし、フェリクスは改めて女と相対する。女はつばの広い帽子を目深に被ってその中に髪を隠し、よれよれのコートを着ていたが、帽子を脱ぐと、栗色の美しい髪が露わになった。
「ドロテア」
先程まで舞台上で歌い踊っていた、ミッテルフランク歌劇団の歌姫――ドロテア。ドロテアは名前を呼ばれて、心底嬉しそうに微笑んだ。
コートを脱ぎ捨て、赤いドレス姿で、ドロテアはフェリクスに抱きついてきた。フェリクスもそれを受け止めると、挨拶代わりのように口づけを交わす。フェリクスの硬い胸に当たる二つの膨らみが、彼女が自分とは違う生き物だということを改めて感じさせてくれる。
「さっきはありがとう。警戒はしていたつもりだったんだけど……」
「この辺りはああいう手合いばかりが集まる場所だからな、お前はよく知っているだろうが」
「そうね。助けてくれて嬉しかったわ」
長い睫毛の下の翠玉色の瞳が、僅かに陰りを見せる。
かつて、歌姫になる前、彼女はこの辺りで生活していたと聞いた。その時のことを思い出したのだろうか。先程のフェリクスと同じように。
何気なく言った言葉が引き金を引いてしまったのかもしれない。悪いことをしたと、フェリクスはもう一度彼女の唇を奪った。互いに思い出したくない過去がある。そのことにはなるべく触れずに生きていきたかった。彼女も、自分も。
「ん……」
口づけが終わった後、ドレスの後ろの留め金を外すと、布がはらりと落ちた。先程までフェリクスの胸に当たっていた、二つの膨らみが露わになる。フェリクスは正面からまじまじと見つめ、溜息をついた。
「……綺麗だな」
熟れた果実のように艶めいて震える双丘。ドロテアはくすくすと笑いながら、もう、とフェリクスの顔にかかった髪を指先で払う。
「いっつもそればっかりなんだから。そんなに好き? 私の、胸」
「ああ。好きだ」
躊躇いもなく肯定すると、ドロテアは少し驚いたように目を見開いた。からかったつもりだったのだろう。フェリクスも、かつての自分ならばこんなふうに肯定することはなかっただろうと感慨にふける。それをはっきりと言えてしまうほど、自分は酔っているのかもしれないと思い込んだ。一杯しか飲んでいない酒に? いやいやきっと先程の彼女の歌劇に、と心の中で言い訳を続けながら。
それはともかく、事実、彼女の胸の形は美しかった。他の女のものを直に見たことはないが、ドロテアの球体にも似た柔らかな曲線は、何度見ても見とれてしまうほどの美しさだった。喩えるなら、モモスグリの実に似ている。熟れた実を口に含んだときの鼻に抜ける香り、口周りに滴る甘ったるい果汁。彼女の胸に触れるたび、それらを思い出すのだった。
胸に顔を埋め、突起を口に含み転がすと、彼女の喉から嬌声が響いた。
「あぁ……っ」
飴玉のように舌の上で転がしながら、もう片方の胸を揉みしだく。自分のものとは明らかに違う、柔らかな感触に酔いしれた。彼女が身をよじって可愛らしい声を上げるから、尚更愛おしくなる。
「あぁ、あんっ、フェリクス……っ」
舐めるのをやめて顔を上げると、彼女の上気した顔と出会った。すっかり息が上がっている。感じているのだ、とフェリクスは思った。同時に、自分の下半身に熱が宿るのを感じた。それは彼女も同じようだった。そわそわと落ち着かない様子で、腰を動かしている。
フェリクスはドレスの下から手を入れ、彼女の下着を指の腹でなぞった。その場所は確かに湿っていて、ドロテアはびくんと震えて小さく声を上げた。嫌がる仕草は一切なく、むしろ、蜜の溜まった場所をフェリクスの指に押しつけてくる。フェリクスは下着の中に指を入れて、直接蜜の中へと指を埋めた。
「あぁ……フェリクス……そこ……もっと……」
「ああ……」
望み通りに、襞をかき分けて指の腹をこすりつけてやる。ドロテアの息が上がって、艶っぽい溜息が幾度もフェリクスの耳をくすぐった。
呼応するように、フェリクス自身も硬くなっていくのがわかった。フェリクスの額に汗が伝う。明らかな意志を持ったそれは、ズボンの下で、今か今かと解放を待ち望んでいる。
フェリクスは指を引き抜くと、自身の服を煩わしげに脱ぎ捨てた。その間にドロテアも待ちきれないとでも言うように、ドレスと下着を全て脱いで床に落とした。
生まれたままの姿になった二人は、ベッドの上に身を投げ出し、もつれあった。何度か互いを引き寄せ抱き合った後、自然とドロテアは仰向けに、フェリクスはその上に乗っかる形になった。
「フェリクス……早く、貴方が欲しい……」
潤んだ瞳で見つめられて、我慢できる男などいようものか。
「……ああ、俺もだ」
フェリクスは蜜の溢れた秘所へ自身をあてがうと、一気に中へと挿入した。既に何度も挿れたことのあるその場所は、フェリクスの侵入を容易く許した。
「あぁあ……っ!」
ドロテアはシーツに爪を立てて身をよじった。その都度何度も何度も中が収縮して、フェリクスを締め付ける。
「く、ぅっ……!」
波のように襲い来る射精感。フェリクスは一心不乱に腰を打ち付けた。
彼女と快感を分かち合っていられるこの時間だけは、全てを忘れて集中できた。嫌な過去も思い出さずに済んだ。脳裏にちらついて現実に引き戻されそうになるたび、フェリクスは下半身へ意識を集中させた。人間の性欲というものは単純で、満たされるとそれだけで簡単に幸福感を得られてしまう。
だから、フェリクスはドロテアと繋がるのを止められないでいる。本来は命の連鎖のために紡ぐ行為であるはずなのに、実際はまるで別のものに成り果てていると理解しながら。
「あっ、あぁっ、フェリクスっ……!」
フェリクスが最奥へ腰を打ち付けると同時に、ドロテアは弓なりに身体を反らし、びくんと震えた。
舞台上で舞い踊る、美しい歌姫。彼女がこんなにも乱れる姿を知っているのは、フェリクスただ一人だ。その果てる瞬間の顔が、フェリクスの劣情を煽った。
「ぐ……うっ……!」
びくびくと痙攣する膣の動きにも煽られて、フェリクスは熱の塊を吐き出していた。
この上ない脱力感に襲われる。
ずるずると陰茎を引き抜くと、彼女の秘所からフェリクスの白濁がどろりと滴り落ちた。フェリクスはその、なんともいえぬ淫靡な光景を見るのが好きだった。
彼女が自分のものになったかのような優越感に浸れるのはこの瞬間だけだ。傲慢な思い込みであることは、頭の隅では理解していた。それでも一度感じた優越感を簡単に手放すことはできず、フェリクスは我に返った後で、罪悪感にも似た思いにとらわれるのだった。
まとめていた髪を解いて、枕に頭を預け、暗い天井を見上げる。
彼女とこうして身体を交えるのは何度目だろう、とフェリクスはゆっくりと思い返した。
最初は、偶然アンヴァルで再会したところから始まった。せっかくだから見て行ってというので、彼女の出ている歌劇を鑑賞した。元々歌や踊りを見るのは好きで、戦時中、彼女がガルグ=マク大修道院で開いていた小さな演奏会も、何度か見に行ったことがある。歌劇は実に刺激的かつ魅力的で素晴らしいものだった。それまでどことなく鬱々とした毎日を過ごしていたフェリクスは、久々に気分が晴れるという体験を味わった。
歌劇の後、どこかで落ち合おうという話になり、表通りの賑やかな酒場では目立つからと、この裏通りの酒場を指定された。久しぶりに会って話をした彼女は、昔とあまり変わらなかった。それがフェリクスにとっては嬉しかった。
戦争後、傭兵で生計を立てることとなったフェリクスは、これまでと全く違う生活をする羽目になった。フラルダリウスの名を捨て、後ろ盾も何もなくただのフェリクスとして暮らす生活は、確かに気楽ではあった。だが心の支えにできるものが何もなく、気付かないうちに少しずつ精神を蝕まれていたらしい。彼女と会って話すことで、フェリクスは傷んだ精神が僅かながらでも癒されていく感覚を、明確に味わった。
それからというもの、フェリクスは一仕事終わると決まってアンヴァルに向かい、劇場に足を運ぶようになった。彼女もフェリクスが来たときには必ず気付いてくれて、何度か目配せをしてくれた。
観劇後は、フェリクスが先に例の酒場に行って待つ。数刻後、ドロテアがやってくる。酒のグラスを傾けながら少し話をした後、二人は二階の宿屋へ行き、部屋を取る――そうなったきっかけは確か、少し休みましょうと言って、ドロテアが誘ってきたからだったように思う。
最初は全くそんなつもりはなかった。だが二人きりになると、ドロテアは猫のようにフェリクスの身体にすり寄って甘えてきた。かつての自分ならば、煩わしいと言って振り払っていたに違いない。そうできなかったのは、フェリクスの側に新しい情が生まれていたせいなのだろう。憎からず思っている相手にそんなことをされて、その気にならないはずもなく、結局、二人は初めて一夜を共にすることとなった。
思えば彼女も、再び華やかな舞台に戻ることにはなったが、地道な稽古や客と演者の関係、ライバルたちとの争い、そういうものに疲れ切っていたのかもしれない。あの時フェリクスに甘えてきたのは、少しでもそれを癒したかったからではないか。
フェリクスは傍らにいるドロテアへ視線を向けた。彼女はベッドに腰掛けて、窓から外を見つめていた。背中から腰にかけての柔らかな曲線が、月明かりに照らされて浮かび上がっている。
フェリクスがそちらへ少し身体を傾けると、ドロテアが気付いて振り返った。
「どうしたの?」
「いや……」
フェリクスがなんとなく言葉を濁すと、ふふ、と笑って、ドロテアはシーツの上に身体を滑り込ませてきた。
「ねえ、フェリクス……私と結婚して、って言ったら、どうします?」
思いがけない問いに、フェリクスは大きく目を見開いた。
結婚。意識にすら上らせたことのない言葉だった。普通の男女、恋人同士ならば、ある程度は意識してもおかしくないはずなのだろうが、ドロテアとは何故かそういう関係ではないと思い込んでいた。
ドロテアは唇の端に笑みを浮かべて、フェリクスの顔を覗き込んでくる。反応を窺っているのだ。フェリクスは何と言うべきか、しばし返答に窮した。士官学校にいた頃、あるいは戦時中なら、そんなつもりはないと言って即座に一刀両断していただろう。だが、今はそうできないくらい、彼女との繋がりをフェリクス自身が求めている。かといって、自分が確かなものを何一つ持っていない状態で、彼女と結婚する未来も想像できなかった。
答えられずにいると、ドロテアは苦笑いをした。
「ごめんなさい。困らせちゃったかしら。冗談よ、冗談」
ひらひらと手を振る彼女。そう言われた後でも、いつもなら出てくるはずの皮肉の一つも言えなかった。彼女と自分の関係を一体何と呼ぶべきなのか、考え込んでしまったからだ。
その様子を、ドロテアはどう受け取ったのか分からない。心底困っていると思われたのだろうか、取り繕うように言葉を重ねてくる。
「私、貴方に何かしてもらおうって思ってるんじゃないの。ただ、ちょっと聞いてみたくなっただけ、それだけだから……」
「……ああ」
生返事だけをして、フェリクスはうつむいてなおも考え続けていた。
この関係が健全かそうでないかと問われれば、間違いなく後者だろう。恋人同士でもないのに、というより彼女と愛を確かめ合ったわけでもないのに身体を重ね、その後は何事もなかったかのように、お互いの生活に戻っていく。この酒場を利用する男と女がやっていることと、そう変わらないように思える。
だが、一つ違うのは、フェリクスにとっては誰でもいいわけではない、ということだ。ドロテアだからこそ、こういう関係を結ぶ気になった。士官学校時代から戦時中を共に過ごした相手だからこそ、自分をさらけ出すことができた。それだけは間違いない。これを愛と呼ぶのかどうかは、フェリクスには判断がつきかねたが。
フェリクスが何気なくドロテアへ視線を戻すと、ドロテアはちょうど、フェリクスの髪に触れたところだった。解いた髪を手で梳いて、感嘆の溜息をつく。
「綺麗ね。髪、ずっとこの長さだけど、邪魔にならないの?」
「もう慣れたからな」
髪を結うのも既に何年も前から習慣化しているから、今更どうこうしようという気にはなれなかった。髪の短い自分は、なんとなく自分ではないような気もする。ドロテアはくすくすと笑って、何度もフェリクスの髪をゆるゆると手で梳いた。
「私、その方が嬉しいかも。貴方の髪、うっとりするくらい綺麗なんですもの」
彼女が自分の髪を褒めてくれるようになったのは、フェリクスが初めて彼女の前で髪を解いた時からだ。寝るときにしか解かないので、他人に見せたことはほとんどなかった。彼女は初めその長さに驚いていたが、やがて興味津々な様子で、フェリクスの髪に触れてきた。
「毎日手入れしてるのよね?」
「ああ、そうだ。一応な」
「やっぱり。そうでなくちゃ、こんなに綺麗にはならないものね」
綺麗、と褒めてくれたのが、フェリクスは妙に心地良かった。その相手がドロテアだというのが、なお良かった。行為が終わった後、彼女はこうやって時々フェリクスの髪に触れてくる。それまで他人に髪に触れられるのは好きではなかったが、ドロテアにだけは許していた。
彼女に髪を梳かれながら、フェリクスはやはりこの温もりは離しがたいものだと再認していた。直接的に繋がり合っている時も、お互いに他愛もなく触れ合う時間も、今となっては必要不可欠なものだ。少なくとも今、生きていく上では。
ドロテアは、一体どう思っているのだろうか。
ドロテアの指の感触を味わいながら、フェリクスはしばし逡巡した。どのように尋ねるべきか悩み、その挙げ句、出てきた言葉は、
「お前は、結婚したいのか」
ドロテアの手が止まり、えっ、と小さな声が漏れた。目をぱちくりさせて、こちらを見つめている。フェリクスはなんとなく気まずくなって、視線を逸らした。
数秒の沈黙の後、
「それは……」
ドロテアが何かを言いかけて、止めた、ような気がした。フェリクスがドロテアを見つめると、彼女はそれを避けるようにして顔を逸らした。
「……だって、貴方は知ってるでしょう。私が何のために士官学校へ行ったか」
「ああ……そうだったな」
今更ながらに思い出していた。彼女はかつて、ある程度の地位とお金を持った男との結婚を希望していた。彼女の事情にある程度踏み込んだ今なら、その理由がわかる。その時の彼女は、自分は何も持っていないと思い込んでいた。だから、未来を保証してくれる何かが欲しかったのだろう。
彼女の今の口ぶりからすると、その時の思いは継続したままということなのだろうか。栗色の髪の間から見える翠玉の瞳は、先程以上に陰っているように見えた。
それきり何も話さなくなってしまったから、彼女の真意も、フェリクスの言葉を受けて何を思ったのかもわからない。ただ一つ確かなのは、今のフェリクスは彼女を幸せにはできないということだ。フラルダリウスの名を捨てたフェリクスは、身分も地位も金もない、ただの一人の男だ。そもそも、相手がドロテアでなかったとしても、この状態で誰かを幸せにすることなど、到底できそうにない。
ドロテアは布団を被って、完全に背を向けてしまった。
「明日、早いから……おやすみなさい」
「ああ……」
気まずい沈黙が流れた。聞くべきではなかったのかもしれないと思ったが、時間は元には戻らない。フェリクスも彼女と背を向け、無理矢理目を閉じた。