不器用な盾

 戦場に立つのは、いつだって憂鬱な気分になる。
 何処で顔見知りに会うとも知れない中で、それでも自分が生き残るために剣を振るう。自分の放った刃が肉を切り裂くたびに、ドロテアは吐き気が込み上げるようになっていた。
 躊躇いもなく剣を振りかざす帝国軍の兵士に対し、同じく剣で応戦する。金属の擦れ合う音に妙な安心感を覚えるが、防戦一方では自分の身を守れないことなど、重々承知していた。素早く身を躱し、がら空きの脇腹へ向けて剣を突き立てる。ぐしゃりという音がして、剣先が生暖かい血で染まった。
 兵士がぐっ、と呻いてくずおれるのと同時に、ドロテアもうっ、と手で口を覆った。喉元までせり上がった胃液を、なんとか飲み下そうとする。
 その時、視線の右端に帝国軍の鎧が見えた。こちらに向けて何かを振り下ろそうとしている気配を感じたドロテアは、咄嗟に剣を出すことが出来ず、反射的に身を庇う仕草をした。
 庇いきれない衝撃を覚悟したが、刹那、陰の主は心臓を一突きされて地面に倒れ込んでいた。
 ドロテアは恐る恐る顔を上げた。敵と自分の前に立ちはだかった男は、顔だけドロテアの方を振り返った。
「油断するな。死ぬぞ」
「フェリクス……」
「人を斬る覚悟のない者は足手纏いだ。下がれ」
 彼の振るう剣先のように、鋭い言葉が投げかけられる。
 その言葉だけを聞けば、ドロテアの存在を切り捨てたかのように思えた。だが、ドロテアの心は温かい感情に満ち溢れていた。
 フェリクスの口から出る言葉は常に一貫している。生きろ――彼が仲間に願うのは、それだけだ。
「ええ、本当に……その通りだわ」
 ドロテアが素直に認めると、フェリクスは無意識に出かかった安堵の溜息を誤魔化すように、チッ、と舌打ちをしてみせた。
「向こうでディミトリが傷を負っている。あの猪、皆を庇うためだかなんだか知らんが、前線に出すぎだ。お前は治癒の魔法が使えるのだろう、行ってやれ」
 本当は誰よりも仲間を思っているのに、素直な言葉が紡げない彼を、とてつもなく愛おしいと思う。ドロテアはわざと聞こえるように溜息をついて、咎めるような視線を送った。
他人ひとのことばかり言って、自分のことは顧みないんですね。貴方もこれから前線に出るのでしょう、貴方を癒してくれる人間は? 誰かいるんです?」
 フェリクスは眉間に皺を寄せ、ドロテアを鋭く睨み付けた。
「要らん。あの男は曲がりなりにもこの軍の将だ。どちらを優先すべきかは明白だろう」
「確かに貴方の言うことも一理あるわ。でも、私は一人で前線に向かおうとする人をそのまま放っておくなんてできません。私の治癒魔法はある程度なら遠くへ飛ばせるし、向こうの援護をしながら、このまま貴方に付いていくわ」
 物怖じすることなく、明瞭に返されたドロテアの言葉に、フェリクスはとうとう折れたらしかった。鼻を鳴らして、大きな舌打ちを一つ寄越す。
「……勝手にしろ」
「ええ、勝手にさせてもらいます」
 ドロテアは微笑みを浮かべた。
 一足先に歩き出したフェリクスの背を追う。黄金色に輝くアイギスの盾が眩しい。風に煽られた彼の浅葱色のマントが、ドロテアの視界を覆い隠した。その先にいたはずの帝国軍の姿が見えなくなり、ドロテアは密かに安堵の溜息をついた。
 彼が前線に行こうとする理由は、帝国軍と積極的に相まみえたいからではない。彼はドロテアが、戦場で吐き気を堪え続けていることを知っている。すなわち、先程あのような憎まれ口を叩いていたにもかかわらず、そのディミトリと、全く同じことをしているのだ。
 彼の本質は人を斬る剣ではない。その広い背で人を護る盾だ。ドロテアがなるべく人を斬らずに済むように――そんな彼の不器用な盾に、自分は生かされていると実感する。この不器用な優しさが誰にでも向けられるものでないと知っているから、なおさら、嬉しい。
 ――ありがとう、フェリクス。
 目を閉じて、心の中で礼を述べる。
 人殺しに慣れることはない。それはきっとフェリクスも同じだ。それでも盾は沈黙を貫いて、ドロテアを護り続ける。ならば、自分もその盾に報いるべきだ。それがどのような形であっても。
 見開かれた翡翠の瞳に、確固たる炎が宿る。
 ドロテアは白い光の宿る右手を天へと伸ばした。
(2019.11.5)
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