移りゆくこころ

 トラキアに吹く風は、シレジアと違う香りを運んでくる。強い土の匂いがする。
 リーフ軍に訪れた束の間の休息を狙って、カリンは天幕を離れた。拠点を置いている場所から少し離れた崖のような場所で、カリンはすうと息を吸いながら、その風の匂いを存分に味わった。
 風は好きだった。強い風が吹く度、髪の長い者などは、鬱陶しいとばかりに自分の髪を撫でつけるのに必死だったが、カリンは幸いにもそのことで心を煩わせずに済んだ。
 シレジアにいた時、風は冷たくカリンに当たったけれど、その澄んだ匂いがカリンの肺を巡り、綺麗に浄化してくれた。ここトラキアの風も、シレジアほど綺麗とは言い難いけれど、土の、草の、木々の生命の匂いを運んできた。それを吸い込むのが、たまらなく好きだった。
「うーん、いい気持ち」
 カリンは伸びをする。
 だが、その時、横で同じようにうーんと唸る声がした。カリンは驚いたように飛び上がった。
 そこに見慣れた男がいるのを認めると、カリンは少し口を尖らせた。
「ちょっと、何よ。驚かせないでよね」
 見慣れた男――フェルグスは、何でもないことのようにカリンに目を向けた。
「お前があまりにも気持ちよさそうだったからな、真似してみただけだ」
「だからって、急に横に並ぶことないでしょっ」
「嫌なのか?」
 思いがけない問いに、カリンは一瞬うろたえた。
「別に嫌じゃない、けど……」
 音量を下げて呟く。それが聞こえたのか聞こえていないのか、フェルグスは反応せずに、もう一度伸びをした。
「うーん……はぁ、なんか眠くなってきたな」
「またなの? あんた、本当によく眠るのね。感心するわ」
「そりゃ光栄」
「褒めてないわよ」
 ぴしゃりと言い返すが、フェルグスはそれすらも気に留めていない様子だ。面白くなくなって、カリンはフェルグスの横顔を睨みながらため息をついた。
 この男には、気遣いとか遠慮とか、そういう感情が存在すらしないのだ。カリンはそう決めつけていた。そうとも思わなければ、この男の今までの行動に説明がつかない。
 出会った時は必要以上に兵士を殴るし、その後入れられてしまった牢屋の中で呑気にいびきをかくし――人間には誰しも、その人間の基盤となる一本の柱のようなものがあるはずなのだが、この男にはそれが全く見えない。
 まるで、自由に彷徨う風のようだ。
 そう思った後で、カリンはぶんぶんと首を振った。大好きな風をこの男の喩えに使ってしまうなど、不覚だった。一人でため息をついて、また、不機嫌そうな顔になる。
「お前、一体どうしたんだ。熱でもあるのか」
 突然声をかけられて、カリンはびくりと肩を震わせた。フェルグスが怪訝そうな顔で、こちらを見ていた。今までの自分の奇行を見られていたとするなら、これは恥ずかしいどころの問題ではない。カリンは顔を赤くして、フェルグスから顔を逸らした。
「な、なんでもないわよっ」
「一人で首振ったり、ため息ついたり……訳、分かんねえぞ」
「い、いいの。あんたには関係ないんだから」
 関係なくはないが、嘘をついておく。本当のことを言ったとして、良いことは何もない。
 フェルグスがそれ以上追及しようとしなかったので、カリンはほっと溜息をついた。その代わり、もう一度ううんという伸びの声が聞こえた。
 同時に、ふわっと髪が持ち上がって、風の匂いが運ばれてきた。そのおかげで、カリンの心の中にあったわだかまりが、少し消えていった。
 消えたついでに、カリンはじっと向こうの景色を見つめているフェルグスに話しかけた。
「あんた、一体、何を見てるの?」
 するとフェルグスが、ゆっくりと腕を上げて、向こうを指差した。つられて、カリンもそちらに目を向けた。
「コノートだ」
 それが海に近い場所にあることを、リーフ軍に所属してしばらく経つカリンは知っていた。そして、そこが現在、フリージ家の当主ブルームに治められているということも。
「コノートが、どうかしたの?」
「俺の故郷なんだ」
 カリンは目を大きく見開いた。フェルグスは今まで、自分のことをただの旅の傭兵だとしか説明しなかったのに――
「まあ、俺は傭兵だ。故郷なんて、とっくに捨てちまったんだけどな」
 カリンが何か言おうとする前に、そう言って、フェルグスは笑った。その時のフェルグスの横顔が、何故か寂しそうに見えた。妙に気にかかる表情だった。
 カリンはフェルグスの顔をやや下から覗き込みながら、尋ねた。
「故郷に、ご両親とかいないの?」
 はっ、と、一瞬フェルグスの目が見開かれた。その後で、フェルグスの唇が笑みの形に広がり、フェルグスは首を横に振った。
「いいや。俺に親はいねえよ」
 訊いてはいけないことだったらしい。カリンは急に申し訳ない気持ちになって、俯きながら謝った。
「ご、ごめん。知らなかったから」
「気にすんな」
 カリンが優しい調子で言われた言葉にどきりとした後、フェルグスは笑いを含めながら続ける。
「それに、そんなこと気にするなんて、お前らしくない」
「ど、どういう意味よ!」
 カリンは顔を上げて、フェルグスを睨みつけた。
 すると突然、フェルグスはおかしそうに、大声で笑い始めた。笑い声が、空気を揺らせて辺りに響く。カリンはますます腹が立って、片足で地面を踏みつけた。それでもフェルグスは怯まずに、腹を抱えて、本当におかしそうに笑っている。
「なっ、何よ! 急に笑い出して……失礼じゃないの!」
「はっはっは、悪い悪い。そうだよ、それだ。お前はその調子のままいるのがいい」
「そ、それって……どういう意味なのっ」
 褒めているのか、からかっているのか分からない。少なくともカリンはいい気はしなかった。自分が怒ってばかりいるのが普通だと思われているなら心外だ。怒るのは主にフェルグスの前だけで、他の者たちの前では一応は穏やかにしているつもりなのに。
 やっと笑いの収まったフェルグスは、再び崖の方を見た後、その後カリンに視線を戻した。
「戻るか。そろそろ時間だろう」
「……そうね」
 不機嫌な声で答えた後、カリンはフェルグスから視線を逸らすと、一人でずんずんと歩き出す。
 その後ろから、フェルグスの声が追いかけてきた。
「おい、待ってくれよ」
「なんであたしがあんたを待たなきゃいけないのよ」
「怒ったお前、あんまり可愛くないぞ」
「いいわよ別に、あんたに可愛く思われなくたって!」
 なんて憎たらしい男だと思いながら、一方で不思議な気持ちも生まれていた。コノートの方角を見つめていたフェルグスの視線。カリンを気遣うような優しい言葉――そんなことを考えているうちに、いつの間にか、カリンの顔が赤くなっていた。訳が分からない、とカリンは思った。
 同時に、ますます、この男が憎たらしくなった。
 カリンが怒ったり、不思議な気持ちになったりするのは、全部この男のせいだったから。
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