最高の調味料

 長い時間をかけて復興したハイディア村には、今雪が降り積もっていた。
 もう冬の季節も終盤を迎えているとはいえ、まだまだ凍えるような寒さが身にしみる時期である。
 そんなある日のこと。ジャスミンは朝から台所にこもっていた。彼女だけでなく、彼女の母親も一緒に台所にいる。
 一体何をやっているのかと、彼女の兄であるガルシアは台所を覗きに行った。
「ジャスミン、一体何をやっているんだ?」
 そう言って中を覗き込むと、ジャスミンが声に気づいたらしく、慌ててガルシアの方へ駆けてきた。ジャスミンはエプロン姿で、何故か頬が赤く染まっている。
「ち、ちょっと兄さん。勝手に入ってこないでちょうだい」
「え、何故だ?」
「い、いいから。大丈夫だから、うん」
 訳の分からない言い訳のようなものをしてから、ジャスミンはガルシアを台所の外に押し出した。絶対に入ってこないでね、と念を押された後、慌てたようにばたんと扉が閉められる。鍵はないから再び入ることも可能だったが、ガルシアはそれ以上台所の中に入ろうとしなかった。
 しかし、おかしなこともあるものだ、とガルシアは首を傾げていた。今日は何かあっただろうかと思考を巡らせ、記憶を探る。家族の誰の誕生日でもない。自分の知り合いの誕生日でもなさそうだ。だとしたら何か記念日でもあるのだろうか、と思い、自分はその類に疎かったのだと気づく。
 これ以上考えても仕方ないか、と思い、ガルシアは自分の部屋に戻っていった。


 ガルシアの足音が遠ざかっていったのを確かめてから、ジャスミンは安堵のため息をついた。母親がそんなジャスミンの様子を見て、くすくすと笑っている。
「そんなに慌てて隠すこともないのに」
「だって、知られたら面白くないじゃない。言いふらされちゃっても困るし」
 ジャスミンが口を尖らせながらそう言うと、そうね、と母親は同意した。
 明日は女性にとって特別な日。そう、バレンタインデーなのだ。女性が好意を抱く男性にチョコレートを贈り、自分の想いを伝えるというイベントである。そのために、ジャスミンは前日からその贈り物のお菓子作りに励んでいるのだった。
 確かに、このバレンタインデーではチョコレートを贈るというのが普通ではあるのだが、敢えてジャスミンは別の物を贈るつもりにしていた。それはクッキーである。母親にそれを相談したところ、気持ちが伝われば何でも構わないのだ、と言われ、決心したのだった。
 そこでクッキー作りにチャレンジしているわけだが、何しろ初めてで感覚が掴めていないので緊張する。小麦粉やバターを計るのにもいちいち緊張して、少し疲れてしまっていた。
「クッキー作りが、こんなに疲れるものだったなんて」
 作業を再開してからジャスミンがぽつんと呟くと、母親はまたくすくすと笑った。
「そんな。ジャスミンは緊張しすぎなのよ。緊張しすぎちゃったら、逆に失敗しちゃうかもしれないわよ」
 失敗、という言葉を聞いて、ジャスミンは母親に咎めるような視線を送った。
「ちょっとそんなこと言わないで、母さん。本当に失敗しちゃったらどうするのよ」
「ふふ、大丈夫よ。それに今回は、緊張しすぎるくらいでちょうどいいわ。初めてだから」
 そう言って唇から笑みをこぼし、母親は遠くを見るような目つきになる。
「ジャスミンもいよいよ、好きな男の子にバレンタインデーの贈り物をするほどの年になったのねえ」
 突然の母親の直球に、ジャスミンは心臓が飛び出るくらいの衝撃を味わう。そして慌てて反論した。
「ち、ちょっと母さん! 別に私は、そんな人なんか――」
「いいのよジャスミン。母さんには分かるんだから」
 余裕を含んだ笑みを見せる母には、絶対に勝つことは出来ない。
「も、もう……」
 ジャスミンはあっという間に赤面し、一瞬クッキー作りの工程が頭から吹っ飛んでしまい焦る。次はどうするんだっけ、と慌てたようにレシピの紙を見直すジャスミンを見て、母親は優しい目をして微笑んでいた。
 やっと生地が出来上がり、それを適当な大きさにしてオーブンに入れる。本命の相手用のは、もちろんハートマークにしてある。ジャスミンはふう、と息をついて、焼き上がるのを台所で待つことにした。
「ねえ母さん」
 洗い物をしている母の背中を見ながら、ジャスミンは声をかけた。母はなあに、と背中を向けたまま返事をする。
「母さんも、私ぐらいの年の時には……その、こういうことをやっていたの?」
 ジャスミンの照れたような声を聞いて、ああ、と母は笑った。
「そうね。父さんに会ったのも、ちょうどジャスミンくらいの年の頃だったかしらね」
「えっ、じゃあ、その時は父さんにあげたの?」
 今まで聞かされたことのない両親の話に、ジャスミンは興味津々であった。母はくすくすと笑いながら、手を休めずにええ、と答えた。
「だって母さん、その時に父さんにチョコレートを渡したから恋人同士になったのよ。母さんが渡した時なんか、父さんったら照れちゃって、真っ赤で何も言えなくなっていたの。そういうところは、ジャスミンに似ているわね」
「ええっ……ちょっと、もう! からかわないでよ、母さん」
 ジャスミンはそう言いながら真っ赤になっていた。すぐ後に顔が熱いことに気づき、ジャスミンはショックを受ける。やっぱり自分はすぐに赤くなってしまうのだろうか、と思い、がくりと肩を落とした。
 母は手を動かしたまま、さりげなくジャスミンに質問を放ってきた。
「ところでジャスミン。あなたが渡したいと思っている男の子は、誰なの?」
「えっ……」
 突然の予想外の質問に、ジャスミンは何と答えたらいいのか迷った。誰もいない、という答えは既に通じなくなっている。別に言っても構わないのだろうが、ジャスミンの想っている相手は母親がよく知る人物なので、話すことをためらった。
「あら、いいじゃないの。誰にも言ったりしないわよ、ね?」
 他人の好きな人を聞く時の決まり文句を優しく口にした母に、ジャスミンは答えずにはいられなくなってきた。うう、と小さく呻いた後、ジャスミンはぼそりと呟いた。
「ジェラルド……よ」
 まあ、と母は嬉しそうに声を上げた。
「そう。ジャスミンは見る目があるわね」
 意味深な発言をした母に、ジャスミンは慌てて問い返した。
「ど、どういう意味なの? それは」
「そのままの意味よ。ジェラルドはいい男じゃないの。彼になら、ジャスミンのことも安心して任せられるわね」
「か、母さんったら! まだ、恋人同士でもないんだから……」
 顔を赤らめたまま呟くように言い、ジャスミンははぁ、とため息をついた。
 母は洗い物を終えてオーブンを覗き、出来上がっているわよ、と伝えた。ジャスミンはその声で慌てたようにオーブンの方へ飛んでいった。オーブンの中を見ると、クッキーがおいしそうに焼けている。うんうん、と満足したような表情になり、ジャスミンはクッキーを取り出した。
 こんがりと焼けていて、見るからにおいしそうである。母もクッキーを見て、あらあ、と笑った。
「よく出来ているじゃないの。とてもおいしそうだわ」
「うん。良かった」
 ジャスミンはほっと安堵のため息をついた。
 お次はラッピングの作業である。大部分を母親に手伝ってもらいながら、ジャスミンはジェラルド用のクッキーをリボンや包装紙で飾った。なんとか様になったので、やっと一安心できた。
 ふと机を見ると、先程作ったクッキーが目に入った。多めに作ったのでまだ残っていたのである。一つくらい食べてもいいわよね、と呟き、ジャスミンはクッキーを手に取った。手触りは問題なしである。そのまま口にぱくり、と入れた。そして歯でかみ砕き、舌の上で転がす――。
 と、その瞬間、ジャスミンは顔色を変えた。慌てたようにクッキーを飲み込み、後かたづけをしている母親の元にすっ飛んでいく。
「か、母さん、大変!」
「あら、どうしたの? そんなに慌てて」
「ク、クッキーが……塩辛いの」
 ジャスミンは今にも泣きそうな表情である。母はそんなジャスミンをなだめながら、クッキーを手に取り、口に入れた。かみ砕く音がしてすぐに、母の顔も少ししかめられる。
「うーん、砂糖と間違えて塩を入れちゃったのかもしれないわね」
「ええっ、そんな……」
 ジャスミンは肩を落とした。ここまできて失敗に気づくとは。砂糖と塩を間違えるというベタな失敗をしてしまったという点でも、ジャスミンの落ち込みようは激しかった。
 これから新しく作ろうにも、もう材料は残っていない。ついでにジャスミンの気力もこれっぽっちも残っていなかった。へなへなと力なく崩れ落ちるジャスミンに、母は優しくなぐさめの言葉をかける。
「ジャスミン、そんなに落ち込まないで。失敗は誰にだってあるんだから」
「でも……こんなの、最悪よ。もう、明日に間に合わない」
 涙声になるジャスミン。母は彼女の肩を優しく叩く。
「大丈夫。プレゼントなんかなくったって、気持ちが通じればそれでいいのよ」
 母はそう言ってなぐさめてくれたが、ジャスミンはもう乗り気ではなかった。今のジャスミンの心の中に満たされているものは絶望だ、と言い切っても決して過言ではないような気がした。
 ジャスミンはそのままふらふらと歩いて台所を出て、自分の部屋にこもってしまった。


 次の日。そう、バレンタインデーである。
 ジャスミンは昨日のショックから回復したかのように明るく振る舞っていたが、微かに見せる悲しみの色を、家族は全員感じ取っているようだった。昨日のことから完全に立ち直れたわけではなかったのだ。
 何度も何度も、どうってことないじゃない、と思ってみるのだが、あれだけ張り切って作った物があの出来だったという事実に打ち勝つものは、何もなかった。
 小さな緊張の走っていた朝食の後、ガルシアはコーヒーを口にしながら、ジャスミンに話しかけた。
「ジャスミン。今日ジェラルドをここに連れて来ようと思うんだが、構わないな?」
 ジェラルド、という名前を聞いた瞬間、ジャスミンはぴくりと肩を震わせた。少し刺々しさを含んだ声で、ジャスミンは言葉を返した。
「べ、別に私に聞くことじゃないでしょ? 兄さんがそう思うなら、そうすればいいじゃない」
「そうか。なら良かったが」
 ガルシアは何事もなかったかのように納得した様子で頷き、コーヒーを飲み干した。ふ、と息をつき、台所へコーヒーカップを持っていく。
 ジャスミンはジェラルドの名前を聞いたショックに涙が出そうになりながら、二階にある自分の部屋へと戻った。
 自分のベッドの中で、ジャスミンは声を押し殺しながら涙を流した。ジェラルドのことを思うだけで、涙が次から次へと出てくる。
 母は気持ちが伝わればそれでいい、と言った。何かプレゼントがなくても、気持ちがあればそれでいいのだと。だがそれではいけないのだ。ただジャスミンは、彼に気持ちを伝えるきっかけが欲しかったのだ。何もなしで、幼なじみで長い間一緒にいるジェラルドに、気軽に気持ちを告げられるわけがなかった。
 物に頼るなんていけないと思う。何故、好きだと伝えるだけの簡単なことができないのか、情けなくなる。だが今のジャスミンには、何もなしで気軽に気持ちを伝えるほどの勇気はなかった。
 しばらくして、一階から声が聞こえてきた。ジャスミンははっとして耳を澄ます。思った通り、ジェラルドが家にやって来たようだった。ガルシアと何をするつもりかは分からないが、あまり顔を合わせたくないな、と思った。本人の前で気丈に振る舞えるほど、まだ傷は癒えてはいない。
 はぁ、とため息をつき、ジャスミンは再びシーツに身を委ねた。


「――スミン、ジャスミン!」
 自分の名を呼ぶ声で、ジャスミンははっと目を覚ました。起きた場所は自室のベッドの中。朝から寝てしまうなんて、と思いながら、ジャスミンは起きあがり、ドアを開ける。
 そこにはガルシアが立っていて、少し嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「どうしたのよ、兄さん」
「いや……とりあえず、ちょっと下に来てみろ」
「え? な、何よ、ちょっと!」
 ガルシアに手を引っ張られ、ジャスミンは強引に部屋から出された。階段を下り、連れて行かれた場所は台所。そこにはジェラルドがいて、何かを口いっぱいに頬張っているところだった。
「お? ジャスミンじゃないか!」
 むしゃむしゃと口の中にあるものをかみ砕きながら、ジェラルドは嬉しそうにジャスミンに笑みを見せた。ジャスミンはどきりとしながらもジェラルドには曖昧な笑みを見せ、その後兄の顔を睨んだ。
「ちょっと、何の用なの。こんなところに連れてきて」
「ほら、あれだジャスミン。よく見てみろ」
 そう言って、ガルシアが指差したその先には、なんとジャスミンが昨日作ったクッキーが置いてあったのである。
「ち、ちょっと、どういうことなの!」
 慌ててガルシアに詰め寄るが、ガルシアは気にしていない様子で答えた。
「いや、そこに置きっぱなしだったんでな、ちょいと失敬したというわけだ。俺は一口食べてお前が落ち込んでいたわけが分かったが……ジェラルドはおいしいと言って食べていたぞ?」
 そんな、と呟いてジェラルドの方を再び見ると、ジェラルドは相変わらずクッキーに手を伸ばし、次々に口に入れていた。満面の笑顔で、である。ジャスミンは呆気にとられて、ジェラルドを見ながら呟いた。
「どうして? おいしいわけがないじゃない……」
 作った本人の舌で確かめたのだから間違いない。と断言するのも心が痛むが、今はそれよりもジェラルドがそのクッキーを何故おいしそうに食べているか、が問題なのである。
 ジャスミンが固まっている間に、ガルシアは俺は部屋に行ってるぞ、とジェラルドに言い残して去っていった。ジェラルドはおう、と答え、再びクッキーに手を伸ばそうとして、固まったままのジャスミンに気づく。
「どうしたんだ、ジャスミン?」
「ジェラルド、それ……本当においしいの?」
 ジャスミンはまだ驚いた顔のまま、そう尋ねた。ジェラルドはそんなこと聞くまでもない、という顔をして、頷いた。
「当たり前だろ? めちゃくちゃおいしいじゃんか、これ」
 ジャスミンはぽかんと口を開けた。まさかそこまで断言されるとは思わなかった。
「ね、ねえジェラルド、まさか熱があるわけじゃないわよね?」
「ん? いや別に。なんだジャスミン、俺が嘘を言ってるとでも思ってるのかよ?」
 少し不機嫌そうになったジェラルドに、ジャスミンは慌てて首を振ってそれを否定する。
 しかし何にせよ、渡す予定だった相手に喜んでもらえたということだ。ジャスミンは気を取り直し、ジェラルドの方に笑顔を見せた。
「ありがと、ジェラルド。私ね、本当はそれ……ジェラルドに渡そうと思っていたの」
 ジャスミンの思わぬ告白に、ジェラルドもさすがに驚いたようだった。
「え、俺に?」
「うん。今日、バレンタインデーでしょ? ほら、女の子が男の子にプレゼントを渡す日」
「えーっと……ああ、確かそんな行事もあったような気がするな。それで俺に?」
 案の定、ジェラルドは首を傾げて考え込んでいたが、ようやく思い出したようで合点のいったという顔をした。ジャスミンは頷いて少し赤面する。
「そうなの。だ、だから、つまり私が言いたいのは……」
 ジャスミンは一気に言ってしまおうとして、やはり一気には言えず言葉に詰まった。たった三文字、彼に自分の想いを伝える言葉を言えば良いだけなのだが、どうも簡単にはいかない。変な動揺と焦りが同時に襲ってきて、ジャスミンは俯いたまま視線を彷徨わせていた。
「ジャスミン、どうしたんだ?」
 ジェラルドに尋ねられ、ジャスミンははっと顔を上げる。ジェラルドは訝る様子をちらりと見せたが、ジャスミンが顔を上げたのを見てすぐに笑顔に戻った。
「ま、とにかくありがとな。俺嬉しいよ」
 お礼の言葉を言われた途端、ジャスミンの心の中にあった変な緊張がすうっと解けていった。そしてジャスミンは大切なことを思いだした。彼の前で、変なふうに緊張する必要など全くないのだということを。そんなことをすれば、彼との仲がより不自然になるだけなのだということを。
 ジャスミンもようやく笑顔に戻り、うん、と頷いた。
「私もジェラルドに喜んでもらえて、嬉しい」
 何とも言えない爽やかな気分に包まれたジャスミンに、もう障害など何もなかった。喉の奥でつっかえていたあの言葉が、簡単に口から出てきた。
「ジェラルド、大好きだからね」
 対するジェラルドは全く動揺した様子も見せず、ははっ、と声を出して笑った。
「俺もだよ。当たり前じゃないか」
 もしかしたら「大好き」というその言葉は、違う意味にとられてしまったのかもしれない。それでもいい、とジャスミンは思った。彼とこうして、自然な状態で笑っていられること。彼と他愛もない話をし、冗談を言い合えること。それが一番いいのだから。
 ジャスミンの気分は、昨日とは打って変わって晴れ晴れとしていた。


「ねえ、ジェラルド、それ本当においしいの? 実はその、砂糖の代わりに塩を間違えて入れちゃったんだけど」
 ジャスミンがそっと心配そうに聞くと、ジェラルドは口の周りについたクッキーの欠片を払い落とし、あはは、と笑った。
「そんなところだろうと思った。どう考えたって甘くないもんな、このクッキー」
 あっさりと断言され、ほんとにもう、とジャスミンはため息をつく。
 しかしここで、もう一つ疑問がわき上がってくる。クッキーの本当の味を分かっていたのなら、何故ジェラルドはこれをおいしいと言って食べたのだろうか、ということである。
 ジャスミンがそれを問うと、そのことか、とジェラルドは再び笑った。
「ほら、昔から言うじゃないか。空腹は最高の調味料だってな。俺、本当にそうなんだよ。腹が減ってたら、なんでも食べるぜ。たとえ塩の入ったクッキーだったとしても、な」


 ――そこまで言い終わった瞬間、ジェラルドの腹にジャスミンの蹴りが飛んできたのは言うまでもない。
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