傍らに置かれた弓を手に取り、そうっと弦に手をかける。いつものように引き絞ろうとして、手を引いた途端、肩に激痛が走った。
「……っつ……」
ヒーニアスは顔を歪め、弓を落とした。弓は部屋の床に転がり、からからと虚しい音を立てた。
ヒーニアスはベッドに腰掛けたまま、悔しさと激痛で顔を歪めながらシーツを思い切り握りしめた。衛生兵から治癒の杖の光を得た後でも、ヒーニアスの肩は完治していなかったようだ。
まさに今日のことだった。背後を取られたと気付いた時にはもう遅く、グラド兵の放った槍で肩を貫かれていた。鮮血が飛び散り、今まで体験したことのない痛みに襲われた。滅多に取り乱すことのないはずの自分が、あらん限りの声で叫んでしまいそうなくらいの痛みだった。
衛生兵がすぐに治癒の杖を使用してくれたが、その効果は出血が治まった程度のもので、痛みは残ったままだった。
「こんなことで……」
ぎり、と歯を食いしばる。
プライドの高いヒーニアスのことである。自分が不覚を取ったという事実、そのせいで自分が弓を引き絞れなくなったという事実が、鋭い刃のように容赦なく心を切り裂いた。
更に、もう一つ。怪我をした自分を見つけ、衛生兵を呼んでくれたのがエイリークだったという事実が、ヒーニアスの心をきりきりと痛めつけているのだった。
彼女にはもう何度も助けられている。そのことは自分の中で許せない事実の一つであり、一度は自分が彼女を守ると宣言したことまであった。だがエイリークが扱うのは剣、一方ヒーニアスは弓である。武器の射程の違いは、どうしたって出てくるものだ。自然とエイリークが前に出て剣を振るい、ヒーニアスが弓でとどめを刺すという体制が出来上がって、ヒーニアスは非常に不満を抱いていた。
「不本意だ。君を守りたい気持ちは偽りではないのだが」
エイリークの前でそう洩らしたこともあった。だがエイリークは微笑んで、その気持ちだけで嬉しいと言ってくれた。一度はその言葉に安心を覚えたのだが、後にエフラムの話題になったことで、ヒーニアスの機嫌はあまり良くないものとなってしまった。
ルネス王子エフラム。奴ならこのような不覚を取る真似はしないのだろうな、と思った途端、ヒーニアスの眉間に更に皺が寄った。シーツを握る手に力が入る。
この男にだけは負けたくないという思いがあった。ただ、それはヒーニアスの独りよがりな感情であって、エフラムの側ではまるで意識していないということも、ヒーニアスの思いに更に拍車をかけていた。そしてあの心優しいエイリークが、兄をこの上なく尊敬し、慕っているということも。
ヒーニアスは床に落ちた弓を拾い上げた。再び立てて弦を握り、引き絞ろうとしたところで、手を離した。心の中では処理できない複雑な感情が、沸々と湧き上がってくるのを感じていた。
その時、扉がノックされる音が響いた。ヒーニアスは歪めていた顔を上げ扉を見る。無言でいると、外からよく知る声が聞こえた。
「ヒーニアス王子。入ってもよろしいですか?」
エイリークの声だった。正直なところ、今最も入ってきて欲しくない人物ではあったが、追い返すわけにもいくまい。ヒーニアスは苦々しい顔をしながら、構わない、と扉の向こうに声をかけた。
「失礼します」
エイリークは食事の載ったお盆を持って静かに入ってきた。弓を持ったままベッドに腰掛けているヒーニアスを見て、驚いたように目を見開く。だが、何も詮索してこなかった。
「肩の具合はいかがですか?」
ベッドの脇のテーブルにお盆を置きながら、そう尋ねてくる。
ヒーニアスはあまり思わしくない、と言おうとしたが、喉から声が出てこなかった。そう言えば彼女はどんな反応を見せるだろう。咄嗟に、同情されたらかなわない、と思った。
しかし無言であることから察したのか、エイリークが心配そうな視線を向けてきた。
「……あまりよろしくないのですか?」
ヒーニアスは一瞬エイリークから顔を背けそうになったが、思いとどまって口を開いた。
「そんなことはない。もう既に完治している」
「そうですか。良かった」
エイリークが安心するような表情になったのを、ヒーニアスは見逃さなかった。この心優しい王女に嘘を吐くのは良心が咎めたが、ヒーニアスは小さくついた心の傷を無視することにした。
弓を置き、ところで、とヒーニアスはテーブルに置かれた食事を見ながら話題を変えた。
「何故、この食事を君が持ってきたのだ? 君は王女だろう、何故召使いがやるような仕事を押しつけられた?」
「いえ王子、押しつけられたのではありません。本当はギリアムが持って行くと言っていたのですが、私が行くと申し出たのです」
その言葉の中には、エイリークの明確な意思が感じられた。ヒーニアスは驚いて目を見開いた。
「君が? 何故」
「王子のことが心配でしたから……それに」
「それに?」
「それに、その……」
エイリークにしては珍しく、言葉を濁す。ヒーニアスが先を促しても、エイリークは視線を彷徨わせるばかりで、なかなか言葉を発しようとしなかった。
やがて痺れを切らしたヒーニアスが、やや苛々した口調で、エイリークに問い詰めた。
「エイリーク。訊いているのだ、はっきり答えてくれ」
「すみません、王子」
謝った後、エイリークは目を伏せた。
「その……戦場で王子に駆け寄った時、王子が私の手を振り払われたのが気になって……」
ヒーニアスははっとした。自分の中で、そのようなことをしたという意識は全くなかったからだ。だが悲しげに目を伏せるエイリークを見ると、どうやら自分はそういうことをしてしまっていたらしい。
自分の意識にない行動だからといって、完全に否定してしまえないことが辛かった。何故なら自分自身、エイリークに助けられたという事実をまだ心の中で認められなかったからだ。エイリークにそういう行動を取ったとしても、おかしくない心理状態にあったということになる。
「……申し訳なかった。助けに来てくれた君に、そのような態度を取ってしまったとは……さぞかし、私に腹が立っていることだろう」
「いえ、そんなことはありません。ただ、気になっていただけですから……」
「私は、君に守られることが我慢ならないらしい。以前も言ったが、私は君を守りたいと思っている側の人間なのだ。それなのに今回も、君に助けを呼んでもらうことになってしまった」
ヒーニアスは苦々しげに言うと、エイリークは首を横に振った。
「でもそれは、当然のことです。王子は私の……戦場で共に戦う、仲間なのですから」
「仲間……」
その言葉を自分に向かって話す人間を、ヒーニアスは初めて見た。今まで戦場にいる者は、命令する者とされる者だけで成り立つと思っていたヒーニアスにとって、その言葉は新鮮そのものだった。だが、決して悪い気はしなかった。
ヒーニアスは少し穏やかな気持ちになったが、相変わらず仏頂面は崩さぬまま、エイリークに顔を向けた。
「私を助けてくれたこと、改めて礼を言う、エイリーク」
「いいえ、お気になさらず。王子が無事で、本当に良かったです」
エイリークはそう言って微笑んだ。彼女の言葉の中に、偽りの感情は一切含まれていなかった。
「しばらく眠っておられたから、お腹が空いておられるのではありませんか、王子」
エイリークは食事の置かれたお盆を、少しばかりヒーニアスの方に近づけた。エイリークに言われて、ヒーニアスは空腹を自覚する。
「ああ……君の言うとおりだ」
ヒーニアスはそう言って、勧められるままフォークを手に取ろうとし、何気なく右手を持ち上げた。その途端、激痛が腕全体を走り抜けた。顔をしかめそうになったがエイリークに悟られぬようにと、持ち上げていた右手を下ろし、何事もなかったかのように左手でフォークを取った。慣れない手で持ったフォークの先が、小刻みに震えていた。
細かく刻まれた野菜のサラダにフォークを刺そうとし、何度か失敗する。ヒーニアスは若干苛々したが、なんとかレタスにフォークを突き刺し、口に運んだ。
その時ふと、エイリークの視線を感じた。咀嚼し飲み込んでから顔を上げると、エイリークが入ってきた時と同じ、心配そうな目で見つめていた。
「王子、あの……どうか無理はしないでくださいね」
「どういう意味だ?」
「いえ……王子が利き手とは違う手で食べておられるのが、少し気になったものですから」
ヒーニアスは目を大きく見開いた。エイリークはヒーニアスの利き手を知って、その上で見抜いていたというのだろうか。
「本当は、まだ、痛みがあるのでは……」
無意識にかエイリークが伸ばしてきた手と、大丈夫だと言って肩を庇おうとしたヒーニアスの手が、ぶつかる。あっ、と両者同時に声を出して、エイリークは慌てて手を引っ込めた。
「すみません。痛くはありませんでしたか?」
「いや、大丈夫だ。しかし、君は……よく見ているんだな。私の利き手を知っていたのか」
「はい。王子がいつも弓の手入れをしておられるのを、見ていましたから」
本来、自分が弓の手入れをしているのを見られるのはあまり好きではなかった。だが、ヒーニアスは何故か悪い気がしなかった。それよりも、エイリークの観察眼に驚いた。人の利き手など、普段はあまり意識して見ることなどないだろうにと。
自分の持っていたエイリークに対するプライドが、とてもつまらぬものに思えてきた。実際、本当につまらないものだと思った。そう思わせるだけの何かの力が、この王女にはある。
過剰に気にしているのはヒーニアスの側であって、彼女は心からヒーニアスを助けたいと思ってしてくれていることなのだ。その彼女の真心を素直に受け取らなかった自分が、小さな人間に思えてならなかった。
「まだ、少し痛む。痛みが治まるまで、君にサポートしてもらいたい。構わないだろうか」
「はい、王子」
エイリークはいつもの微笑みを浮かべて頷いた。
弱々しい自分を他人に見せてしまったのに、ヒーニアスは何故かすがすがしい気分になっていた。同時に、この王女に対する特別な感情が芽生えるのに気付いた。それは、自分とはあまり関係のないと思っていたはずの感情。人を愛するという、温かな感情。
――いずれ、言わねばならん。あの男と決着を付けるためにも。
ヒーニアスは心の中で、そう決意した。