足りない言葉

 空が濃い橙色に染まり、涼しい風が吹き始めた夕刻のこと。フレリア王子ヒーニアスは、ルネス城に遊びに行っていたターナが帰ってきたのにばったり出くわした。
「ターナか。帰ってきたのだな」
「あっ、お兄さま。ただいま」
 ターナは頬を染め、随分楽しそうな顔をして、ヒーニアスの方に寄ってきた。
「どうかしたのか?」
「あのねお兄さま、ルネスにラーチェルが来ていたのよ」
 ラーチェルという名前を聞いた途端、ヒーニアスはむ、と眉を動かした。彼女がルネスにいたというのは、ヒーニアスにとって予想外な出来事である。そんなヒーニアスの様子にも気づかず、ターナは笑顔のままで言葉を続けた。
「もう、本当に楽しくって。エイリークとラーチェルと私で、いっぱい楽しいお話をしたのよ。それでね、お兄さま――」
「ターナ。ラーチェルはどうしてルネスにいたのだ?」
 その話の内容までも話し出そうとするターナを遮り、ヒーニアスは険しい顔のまま尋ねた。ターナは話を遮られて不満げに口をとがらせたが、すぐに答えた。
「最近よく来ているんですって。ラーチェルはルネスがすっかり気に入っちゃったらしくて。ロストンの方は放っておいても大丈夫なのって訊いたら、他国に行って見聞を広めることも大事ですわ、って言われちゃった」
 ルネスが気に入ったなどと――プライドの高いヒーニアスにとっては聞き捨てならない言葉である。フレリアの価値は、あの女性の前ではルネスに劣るものだというのだろうか。
 しかしそれ以外にも、ヒーニアスが最も危惧していることがあった。あまり口に出したくはなかったが、ヒーニアスは苦々しげに呟くようにして質問した。
「ラーチェルはあの男……エフラムに会いに行っているのではないのか?」
 ラーチェルは少なからず、あのルネスの兄妹と交流がある。それ自体は構わない。全く構わないのだが、あのエフラムと特に親しい間柄であるというのなら、ヒーニアスとしても黙ってはいられない。特に最近、ラーチェルがフレリアを訪ねてこないという不満も、その思いを増大させていたのだった。
 ターナはヒーニアスの質問にきょとんとしたが、次の瞬間には笑っていた。
「そんな、まさか。エフラムは仕事が忙しくって、ほとんどラーチェルとも喋らないそうよ。それにお兄さま、ラーチェルはお兄さまの恋人なんでしょう?」
 恋人――その言葉が、今のヒーニアスの心にはぐさりと突き刺さってくる。だったらどうしてフレリアに来ないのだ――ヒーニアスは更にそう言おうとしたが、ターナにいくら尋ねたところで無駄なので、黙っていた。
 確かに、ラーチェルはヒーニアスの恋人である。
 大陸全土を揺るがしたあの戦が終わってから、既に親しくなっていた二人はすぐにお互いの国を訪問した。とりわけラーチェルは、ヒーニアスよりもよくフレリアに訪ねてきた。それも予告無しのことの方が多く、ヒーニアスは何度も一報入れてからにするようにと言ったのだが、ラーチェルは「いいじゃありませんの、来たい時に来るのがいいんですもの」と言ってきかなかった。ヒーニアスは呆れたが、確かにそれもいいかもしれないと思い始めていた。
 それからより親交が深まり、ヒーニアスは自分と全く性格の違う彼女を、徐々に恋愛の対象として見ていくようになっていた。それは彼女も一緒だったようで、ヒーニアスが思いを告白すると、彼女もそれに応えてくれた。嬉しいですわ、とも言った。
 その後もしばしばラーチェルはフレリアに来ていたのだが、最近はその訪問もばったりと途絶えていた。彼女はロストン聖教国の聖王女、色々と国で忙しいこともあるのだろうと思いヒーニアスは自分を納得させていたのだが、それなのにルネスに通っていたとは。
 ターナと別れて自分の部屋に戻ってから、ヒーニアスは険しい顔でため息ばかりをついていた。
 ルネスに行く暇があるのなら、少しくらいフレリアに寄っていってもいいではないか――何度もそう思った。どうしてここを訪ねてはくれないのだ、とも。
 そればかりを考えていては気が狂いそうだったので、気分を変えようと思ってヒーニアスは城の中庭に出た。中庭には色とりどりの花が咲いていて、草木は丁寧に手入れがしてあった。
 しかし、気分を変えようと思ってここに来たのに、花を見るたびにどうしてもラーチェルのことを思い出してしまう。そういえば彼女は、この庭を見るのが好きだと言っていた。もちろん、最後にあの台詞を付け加えることも忘れなかったけれども。
「まあ、ロストンの広大な大地に広がる花畑に比べれば、到底及びませんけれど――か」
 思わず彼女の口癖を真似してしまったヒーニアスは、それに気づいてはっとし、ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らした。
 この日は早々に部屋に引き返し、一眠りしようと決めた。


 次の日。
 ヒーニアスはいつも通りの時間に起きて朝食を終え、部屋で身支度を整えていると、一人の兵士が部屋の中に入ってきた。
「失礼します、ヒーニアス様」
「どうした、私に何か用か」
「は、それが、ロストン聖教国のラーチェル様が、ヒーニアス様に会いに来ておられます。こちらまでご案内いたしましょうか?」
「なに? ラーチェルが?」
 何故ここに来ないのかと思い詰めていた矢先の出来事だった。ヒーニアスはとても驚いていた。
 ルネスを離れる際にここに寄ったのだろうかと考えながら、ヒーニアスは早々に身支度を整え、私がそちらへ向かうから案内してくれ、と兵に告げた。兵についていった先は、フレリア城の城門だった。兵を下がらせて、ヒーニアスはラーチェルの方に近づいていった。
「……ラーチェルか、久しぶりだな」
「まあ。お久しぶりですわね、ヒーニアス」
 ヒーニアスの姿を認めると、ラーチェルはぱっと笑顔になった。しかしヒーニアスには、自分の前で平然としていられるラーチェルがとても憎たらしく感じられた。
「とにかく、私の部屋に」
 ヒーニアスは不機嫌になりながら、ラーチェルの前に立って歩きながら言った。ラーチェルはふふ、と笑った。
「本当に久しぶりですわ、あなたの部屋へ行くのは」
 のんきに感想まで述べている。ヒーニアスはますます不機嫌になり、思わず舌打ちをしそうになった。寸前で思いとどまったものの、苦々しい思いは心の中に溜まる一方だった。
 部屋の中にラーチェルを通し、ヒーニアスは扉を閉めた。ラーチェルは真っ先に窓の方へ行き、外を眺め回した。
「素敵ですわ。やっぱり、フレリアは美しいですわね」
 彼女はこの窓から眺める景色が好きだった。きっと久々に見られる機会なので、懐かしくて飛んでいったのだろう。
 しかしヒーニアスは不機嫌な顔のまま、ラーチェルの背中に向かって話しかけた。
「……昨日、ルネスにいたそうだな」
 ぴくり、とラーチェルの肩が動いた気がした。ヒーニアスは構わずに言葉を続ける。
「私には愛想が尽きて、エフラムにでも会いに行っていたのか?」
 ついに、昨日から心につかえていたことを口に出してしまった。一瞬しまったと思ったものの、ヒーニアスはすぐに後悔するものか、と思った。事実を問いただすだけだ、何が悪いというのだろう。
 するとラーチェルはヒーニアスの方を振り返り、静かに言った。
「何か、誤解していらっしゃるようですわね」
「誤解も何も、私は君に尋ねているだけだが。答えてくれないか」
 ラーチェルは少しため息をつき、首を横に振った。
「別に、わたくしはエフラムに会いにルネスへ行っていたのではありませんわ」
「じゃあ、何だというんだ」
「行きたかったから、というのでは、理由になりませんの?」
 あっさりと返してくるラーチェルに、ヒーニアスはますます腹が立って拳を握りしめた。
 ラーチェルが嘘をつくような人間ではないことは、頭で十分理解しているつもりだった。しかし一旦ヒーニアスの心に溜まった苛々が飛び出すと、その流出に全く歯止めがきかなくなってしまった。ラーチェルが淡々とした口調なのも、その流出を促している原因の一つだった。
 ヒーニアスはその苛々を払うように大きく息をつき、その息とともに問いを口に出した。
「なら、私には愛想が尽きたというのか?」
 ラーチェルは信じられない、という顔になった。
「どうしてそうなりますの。わたくしがルネスに行くことと、それとはどう関係があると言うんですの?」
「そんなにルネスに行く暇があるなら、少しはここに来てくれても良いではないか」
 これを言ってはお終いだとは思ったが、この他に言う言葉が見つからなかった。するとラーチェルは目を伏せ、小さくため息をついた。
「それは……、申し訳なく思っていますわ。ですから今日、ここへ――」
「遅すぎる」
 ラーチェルの言葉を、ヒーニアスは一言で切り捨てた。ラーチェルは一瞬はっとして目を見開いた。少しの間、二人はそうして見つめ合った。張りつめた空気が、二人の間を漂う。
 しばらくしてラーチェルは、その張りつめた空気に触れるかのようにふうと息をついた。かと思うと先程より表情を堅くし、少し険しい目でヒーニアスを見つめてきた。
「なかなかここに来られなかったことは、本当に申し訳なく思っていますわ。でも」
 一度言葉を切って、ラーチェルは静かな、しかし強い口調で続けた。
「あなたって、心の狭い方だったんですのね。知りませんでしたわ」
 今度はヒーニアスがはっとする番であった。心の狭い、という言葉が、ぐさりと突き刺さったような気がした。
 自分の周りには、いつも自分に賞賛の言葉のみを与えてくれる人々で満たされていた。その中に浸って満足していただけに、ラーチェルの率直な言葉はヒーニアスの心に真っ直ぐに向かってきた。避けようがなかった。
 なるべく表には出すまいと意識しながら心の中で動揺していると、ラーチェルはヒーニアスに冷たい視線を投げて言った。
「わたくし、もう帰りますわね。邪魔をして悪かったですわ」
 そう言い捨てるなり体を翻し、ラーチェルは部屋を出て行こうとした。ヒーニアスはそんな彼女を引き止めようとして、一歩出て思わず叫んでいた。
「待て、ラーチェル! 私は……」
 ラーチェルはノブに手をかけていたが、ヒーニアスに背中を向けたまま動きを止めた。ヒーニアスは次の言葉がなかなか見つからないのに苛々しながら、なんとか言葉を紡いだ。
「私はただ、君に会いたかっただけだ。君がいない間、私はその、とても……」
 ――寂しかった、と言おうとした。しかし何かが邪魔をして、その言葉が口から出て来なかった。ヒーニアスはなお何かを言おうと口を開けたが、言葉が見つからずに口を閉じた。
 ラーチェルはやっとヒーニアスの方を振り向き、少し目を伏せた。
「ヒーニアス……」
 ヒーニアスは息を飲み込み、口を開いた。
「君が、ルネスにいると聞いた時……心が締め付けられるような思いがした。だが、エフラムに嫉妬していたのでも、君の浮気を疑ったわけでもない。私はただ――」
 その瞬間、ヒーニアスはラーチェルに抱きしめられていた。とくん、とヒーニアスの心臓が跳ね上がる。
 ラーチェルはヒーニアスの髪を撫でながら、呟くように言った。
「寂しかったんですのね?」
 ヒーニアスは何も言えぬまま、こくりと頷いた。ラーチェルは口元に微笑を浮かべた。
「そんな思いをさせていたなんて、これっぽっちも知りませんでしたわ。ごめんなさい。でも」
 再び謝った後、ラーチェルはでも、で言葉を切った。先程と同じ言葉の切り方だ。次の言葉は一体何なのかと、ヒーニアスはやや緊張して言葉を待った。
 しかし次のラーチェルの言葉は、先程と全く違う言葉だった。
「それほどわたくしを必要としてくださっていたなんて、わたくし、とても嬉しいですわ」
 ヒーニアスははっとした。もやもやと溜まっていた気持ちが、さあっと消えていくのを感じていた。
 ――自分はラーチェルを欲していたのだ。心の底から。
 そう思った瞬間、訳の分からなかった気持ちが全て心の中に素直に落ちていくのを感じた。
 ヒーニアスは下げていた腕を上げていき、ラーチェルの背中の服を握りしめた。
「そうだ、私には君が必要なのだ」
「ヒーニアス……」
「ラーチェル、これからずっと、私と離れないと約束してくれないか」
 ヒーニアスがそう言うと、ラーチェルはこくりと頷いた。
「ええ。わたくしも、あなたの傍を離れたくない」
「ラーチェル……」
 二人は今まで離れていた距離を埋めるかのように抱きしめ合った。
「愛している、ラーチェル」
「わたくしもですわ、ヒーニアス」
 そして今まで言い足りなかった言葉を、交わし合う。
 二人は相手の温もりを感じながら、改めて自分には相手が必要なのだと感じるのだった。
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