広い背の彼方に

 夕食を終えた後、ヒースは一人でハイペリオンを待たせていた場所に戻った。
 エリウッド軍の天幕から少し離れた場所にある森の入り口で、相棒は素直にヒースの帰りを待っていた。ヒースの姿を見るやいなや、大きく翼を揺らして低い声で唸る。自分が来るのを心待ちにしてくれていたと悟って、ヒースは笑みを浮かべながらハイペリオンの背を撫でた。
「よし、良い子だ。お前は本当に賢い奴だな」
 その褒め言葉を理解したのか、ハイペリオンはまたしても低い声で唸った。
「ヒースさん」
 その時、背後から鈴のような声が聞こえ、ヒースは驚いて振り返った。そこには、控えめに佇む女性の姿。夜風に吹かれて、白い絹のスカートがふわふわと揺れている。
「プリシラさん……」
 その名を口にすると、プリシラは俯きがちだった顔を上げて微笑みを浮かべた。
 プリシラ。エトルリアの伯爵令嬢であり、本来ならばこうしてヒースに声をかけることもないような、雲の上の存在だ。しかし縁あってエリウッドたちと行動を共にすることとなったために、普通ならば出会わぬはずの二人が、出会うことになってしまったのだった。
 彼女の素性を知った今、ヒースは彼女とこうして言葉を交わすことに躊躇いを感じずにはいられない。彼女は身分など忘れて自分と話してくれと懇願したが、そこはヒースの性分、何も知らなかった頃と同じように接することはできなかった。プリシラもそれを理解してくれたのか、特には何も言わない。けれども、時折寂しそうな表情を見せることがあるのは、ヒースも気付いていた。
「ここにいらしたのですね。探しました」
「ああ……勝手に出て行ってしまってすまない。こいつを待たせていたものだから」
 プリシラはヒースの背後のハイペリオンに視線をやると、微笑みながらゆっくりと近づいてきた。
「ふふ。ヒースさんのことが、本当に好きなのですね」
「そう思ってくれているのは、ありがたいことだ」
 ヒースも穏やかな表情で、プリシラと顔を合わせ笑った。
 ここにいる間なら、こうして身分を忘れ笑っていられる。ヒースは躊躇いを感じながらも、同時に幸せを感じていた。プリシラは控えめでよく気の付く、おしとやかな女性だった。ヒースのような者とも分け隔て無く接してくれるのは、彼女の本来の性格がそうだからなのだろうと、ヒースは考えていたこともあった。それが時にヒースの心を締め付け、時に無上の喜びを与えもするのだろうと――


 そうして笑っていると突然、ハイペリオンが頭を下げ、ヒースとプリシラの間に首をぬっと伸ばしてきた。プリシラは戸惑いの表情を浮かべてヒースを見、ヒースは驚きに目を見開いた。
「ハイペリオン、お前……」
「どうか、なさったのですか?」
 ハイペリオンがこうする時は、いつもヒースが背に乗る時。それを知っていたヒースは、ここで突然ハイペリオンがその行動に出たことに驚いたのだ。しかも、彼は自分とプリシラの間に首を伸ばしている。まるで二人とも乗れ、とでも言うように。
 ハイペリオンは首を伸ばしたまま、目をぐるりとヒースの方へ向けた。早くしろ、と促すかのように。
「プリシラさん。その……君次第だから、君が決めてくれればいいんだが」
「はい、何でしょうか?」
「ハイペリオンはどうやら、俺と……君に、背に乗って欲しいようなんだ」
「まあ」
 プリシラは驚いたように口に手を当てた。その後で、まじまじとハイペリオンを見下ろす。.ハイペリオンは再び瞳を動かし、ヒースから、プリシラへと視線をやったらしかった。
 やがて、プリシラはにこりと微笑んで、ヒースに視線を戻した。
「はい。もしこの子とヒースさんさえ良ければ、是非」
「ほ、本当に?」
「はい。実は、一度乗ってみたかったの。はしたないと思われるかもしれませんけど」
 恥ずかしがるように目を伏せたプリシラに、ヒースは首を横に振る。
「そんなことはない。むしろ、嬉しいよ。こんないかつい竜、女の子は皆怖がると思っていたから」
「でも、ハイペリオンは優しい竜ですもの。私は怖くありません」
 プリシラは優しく首を振って、微笑みを浮かべた。ヒースは安堵し、ハイペリオンの背をゆっくりと撫でた。それを合図と受け取ったのか、ハイペリオンが再び低い声で唸り、プリシラが少しばかり驚いたようにきゃ、と小さく悲鳴を洩らした。
 まずはヒースが、いつものように背に跨る。そうして安定した後、今度はプリシラに向かって手を伸ばした。
「それじゃ、俺の後ろに乗ってくれるかな」
「はい」
 プリシラは少し頬を赤らめて、ヒースの手を取った。彼女の手を取るのはこれが初めてではないが、まるで初めてそうした時のように、ヒースは緊張している自分に気付いた。
 プリシラの華奢な身体を引き上げて、彼女がハイペリオンの背に掴まったことを確認する。すらりとした細い足がヒースと同じように跨った後、行き場所に困って浮いているプリシラの手を、ヒースは自然な動作で手に取った。
「俺の身体に回してくれればいい」
「良いのですか?」
「ああ。そうしないと、君が落ちてしまったら困るから」
 ヒースがそう言って小さく笑うと、やがてプリシラもそろそろと腕をヒースの腹に向かって腕を伸ばした。きゅ、と手が結ばれた後、後ろのプリシラが少しばかり照れたように笑う。
「これで、いいですか?」
「ああ。それじゃ、行くよ」
「はい――きゃっ!」
 ハイペリオンが突如翼を広げて地面を蹴ったので、プリシラは驚いたように悲鳴を洩らした。
 夜の冷たい空気を切って、ハイペリオンは月の浮かぶ大空へと飛び立つ。翼を何度か動かした後、あとは風の流れに沿って滑空する。冷たい空気の中を通り抜けていく感覚に、ヒースは寒さを覚えながらも、背に人肌を感じていられることで、その寒さが軽減されているように思った。
 プリシラの腕が更に長く伸ばされ、彼女はヒースの身体にきゅっと密着してきた。落ちるのが怖いのか、それとも――ヒースの心臓が高鳴る。手綱を取りながら、ヒースは後ろの彼女に声を掛けた。
「プリシラさん、怖くはないか?」
 ややあって、プリシラの鈴の音のような高い声が響く。
「はい、平気です」
「どうだろう、大空を飛んでいる感想は」
「とっても――気持ちいいです」
 プリシラの言葉を聞いて、ヒースは安堵した。彼女が怖がっていたらどうしようかと思っていたのだが、杞憂に終わったようだ。
 天幕がある辺りから少し離れた山まで飛行し、ヒースはハイペリオンの手綱を引いた。ハイペリオンは空中で旋回し、元の場所へと戻ろうとした。
 プリシラの両手が、ますます強く結合しようとしてヒースの腹の上で動く。その度に心を揺らされ、どきりとした。彼女の肌の温かさが背から伝わる。こんなふうに密着したことはなかったから、なおさら緊張を覚えた。
 やがて地上に戻ってくると、ハイペリオンが地に足を着けたのを確認して、ヒースはプリシラの方を振り返った。
「プリシラさん、これで――」
 言いかけたところで、止まる。
「プリシラ、さん……?」
 降下する際の怖さに耐えられなかったのか、プリシラは目をぎゅっと閉じたままヒースの身体を思い切り掴んでいた。身体の震えが伝わってくる。ヒースはそれ以上声をかけるべきか否か迷いつつ、赤面したままプリシラを見つめていた。
 その後で我に返ったらしく、プリシラは目を開けてはっとする。ヒースと視線がぶつかった後、プリシラは慌てたように顔を離した。
「ご、ごめんなさい。下りる時、少し怖かったものですから……」
「い、いや、いいんだ。大丈夫だったか?」
「はい、私は平気です。あの、ヒースさん――」
 プリシラが頬を染めながら顔を上げて、ヒースを見る。
「何だろうか」
「あの……我が儘だということは承知しています。でも、もう少し……」
 彼女の耳の白い羽が、ふわりと揺れる。
「もう少しだけ、一緒に飛んでいただけませんか」
 意外な提案に、ヒースは目を見開いた。彼女はこれで満足して、そのまま帰ってしまうのではないかと思っていたのだ。だがそれがヒースの単なる思い込みであったことが、直後判明する。プリシラは長い睫毛を伏せて、呟くように言った。
「もう少し、ヒースさんとこうしていたいから……」
 消え入るような声で言った後、プリシラは顔を伏せてしまった。
 ヒースは素早く振り返って、ハイペリオンの様子を窺う。ハイペリオンは先程食事を済ませたばかりということもあって、元気は有り余っているようだった。そうして再び、プリシラの方を振り返る。心臓の鼓動が高まっていくのを感じながら。
「ハイペリオンなら、大丈夫だ。それに、俺も」
 躊躇いつつも、正直な気持ちを口にする。
「君がいいと言ってくれるなら、もう少し一緒にいたい」
 プリシラは驚いたように顔を上げた。その後で、微笑みを浮かべながら、目に涙を光らせた。
「嬉しい……ありがとうございます、ヒースさん」
「いいや、こちらこそ」
 言いながら、ヒースは正面を見る。
 自分と彼女は、この戦いが終わるまでの関係。それ以降は自分たちの身分に従って、それぞれの故郷に帰らねばならない。ならばその間、少しばかり彼女といる時間を増やしてもいいのではないか――ヒースはそんなことを考えたのだ。そしておそらく彼女も同じ気持ちなのだろうと、ヒースは思った。彼女は聡い女性だ。自分の立場も、そしてヒースの立場もよく分かっているはずだから。
「それじゃ、行くぞ」
「はい」
 再び、密着。ヒースは片手で手綱を取りながら、もう片方の手で自分の腹に回されたプリシラの手を握る。
 このまま時が止まってしまえばいいのに――いつか彼女が言っていた言葉を、心の中で呟きながら。
(2010.3.31)
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