君を繋ぎとめる口実

 放課後の生徒会室は、今後の生徒会活動について討論をする生徒たちで埋め尽くされ、いつものように激しい言葉が飛び交っていた。その中で、氷上は一人、パソコンに向かってキーボードを叩き続けていた。
 しばらくパソコンの画面に集中していた氷上は、ふと、隣に座っていた海野が動く気配に気付いて手を止めた。彼女は椅子を引いて立ち上がり、スカートを払うと、室内にいる人間に向かって頭を下げた。
「すみません、今日はこれで失礼します。お疲れ様でした」
「あ……」
 氷上の喉から声が出かかって、中途半端なまま止まる。彼女はそれに気づかぬまま、鞄を持って背を向け、生徒会室から去ろうとしていた。氷上は慌てて、思わず声を張り上げていた。
「あ、海野君!」
 予想以上に大きく響いたその声のせいで、海野だけでなく生徒会室にいた全員が振り返り、怪訝そうな顔で氷上を見つめてきた。氷上は咄嗟に言い訳が思いつかず、うろたえた。それでも彼女に去ってほしくなくて、必死に言葉を紡いだ。
「あ、その、すまない。その、君に相談しようと思っていたことがあるんだが。少し、いいだろうか?」
 海野は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに笑顔を見せて、氷上の隣に戻ってきた。
「いいよ。なあに?」
「あ、その、ええと……ああ、そうだ。挨拶運動のことなんだけれど」
 見え透いた口実にどうか気付かないでほしいと願いながら、氷上は彼女をつなぎ止めておこうと必死だった。彼女は気付いているのかいないのか、うんうん、と笑顔で頷いて、氷上の目をじっと見つめてくる。
 こんな彼女の視線ほど、氷上を参らせるものはない。それがどこの誰でもなく自分に向いている時、ほのかな嬉しさを伴いながらも、つうと胸が苦しくなる。今まで味わったこともない感覚で、氷上は戸惑いを覚えるばかりだった。
 その戸惑いを心に持ったまま、氷上は口を動かした。
「そう、君の意見を聞きたいと思っていたんだ。今、実はあまり挨拶運動がうまくいっていないんだが、僕が反省すべき点は一体どこだろうか?」
 咄嗟に出たにしては上手くつなぎとめられていると、氷上は少しだけ思った。海野はううん、と考えるような仕草をして、黙りこんだ。
 彼女が考え込んでいる間、氷上は遠慮なく彼女に視線を向けることができた。小さく首を傾げ、あれこれと考えている様子の彼女の姿が、たまらなく愛おしかった。自分のために、こんなにも一生懸命に考えてくれている。それが氷上にとって、この上ない喜びだった。
 海野は決して、人の話をないがしろにしたりしない。一緒に考えてくれと言えば、とことんまで考えてくれるし、なかなか他人に理解されないようなことでも、よく理解を示してくれる。変な子だとか、変わった考えの持ち主だと言われ続けてきた氷上にとって、彼女の存在は新鮮であり、また心地よいものだった。
「そう、だね。笑顔、じゃないかな」
 予想外の答えに、氷上は驚いて目を見開いた。
「え、笑顔、だって?」
「うん、笑顔。ほら、氷上くん、いつも怖そうな顔で挨拶しているでしょ? もっと笑顔で、みんなに挨拶してみたらどうかなって思うんだけど」
 氷上の頭に衝撃が走った。今まで、皆が挨拶を返さない原因は生徒たちの側にあるとか、自分の声量が足りないせいだとか、そういったことばかり考えていた氷上に、海野は新しい視点を与えてくれた。
 彼女の言葉を自分の中で反芻した後で、確かに、と納得する。誰も仏頂面の相手に、積極的に挨拶を返そうなどと思わない。それは氷上とて同じだ。
 氷上は大きく頷いて、彼女の言葉に同意した。
「確かにその通りだ、海野君。僕に足りないものは、君の言うとおり、笑顔だったのかもしれない」
「うん。今度からは笑顔を意識してみたらいいと思うよ」
 氷上はふう、と大きく息を吐いた。数学でなかなか解けない問題を、何日もかかって解けた時の感覚に匹敵する、大きな快感が氷上の中に込み上げた。氷上は眼鏡を人差指で上げ、海野に向かって笑顔を見せた。
「ありがとう、海野君。君に相談して良かった」
「どういたしまして」
 海野も嬉しそうな笑顔を向けた。その後で生徒会室の時計に目をやり、海野は言った。
「あ、じゃあ、ごめん。もう帰るね。お疲れ様」
 それを聞いて、氷上は焦った。
 まただ。また、彼女が離れていってしまう――それを阻止したくて、氷上はまたしても声を上げていた。
「あ、ええと、待ってくれ、海野君!」
「どうしたの?」
 首を傾げる彼女に、氷上は乾いた唇をぬぐいながら、言葉を紡ぐ。
「その、君が良ければでいいんだが……一緒に、帰らないか」
 その後で、言い訳するように氷上は口を動かす。
「あ、いや、もう暗くなるだろう。一人では危ないと思って」
 この生徒会室が議論の声で埋め尽くされているということが、今は好都合だと思った。彼女にだけ、聞こえればいい。そう、海野にだけ、聞こえていれば。
 一瞬の後、海野は微笑んで、頷いていた。
「うん。じゃあ、そうしようかな」
 氷上の強張っていた肩が、一瞬にしてほぐされた。ふうっと大きな息をついた後、氷上は思わず良かった、と呟いていた。その声が彼女の耳にも届かず、大きな声の中にかき消されたのが、こんなにも救いだと思ったことはなかった。
「じゃあ、少し待っていてくれ。文書を保存したら、すぐに行くから」
「うん。じゃあ、生徒会室の外で待ってるね」
 海野はそう言って、背を向けて外へ歩き出す。
 氷上は急いでマウスを動かし、文書を保存してパソコンを終了させた。保存とシャットダウンにかかる時間が、こんなにも長いと感じられたことはなかった。彼女が待っているというのに。早くしてくれ、と氷上は苛々した。
 やっとパソコンの明かりが消え、氷上は時計を確認した後、鞄を持って立ち上がった。
「もう暗くなってきたし、そろそろお開きにしよう。みんな、今日はお疲れ様」
「はい、お疲れ様です、氷上会長!」
「じゃあ、もう私も帰ろうかな」
 氷上の声に応じて、議論が止み、それぞれが帰宅の準備をし始めた。手際の良い生徒会のメンバーたちは、早々に帰宅準備を終え、氷上に頭を下げて帰り始めた。氷上はそれを最後まで見送ることにした。外で待っている海野も、そのことは理解してくれるはずだ、と思った。
 最後の一人が生徒会室を出た後、氷上は消灯し、生徒会室を出た。そこには海野が待っていて、氷上に変わらぬ笑顔を見せてくれた。
「お疲れ様、氷上くん」
「ああ、待たせてすまなかったね。生徒会長の僕が、皆より先に帰るわけにはいかないと思ったから」
「うん。わたしは大丈夫。じゃ、行こうか」
「ああ」
 氷上は頷き、二人は同時に歩を進め始める。真っ赤な夕日のせいで、二人の影が廊下に長く伸びていた。
「今日も君の荷物、僕の自転車カゴに載せるといいよ」
「いいの? いつも重くない?」
「ああ、平気さ、このくらい。君もその方が楽だろう」
「うん、ありがと、氷上くん」
 こうして彼女に感謝されるのが嬉しくて、いつも氷上は荷物持ちを引き受けてしまう。
 それに決して、荷物持ちも苦痛ではない。自分が直接持つわけではないし、こんなことで彼女が喜んでくれるなら、お安い御用といったところだ。
 自転車を押しながら校門を出て、きっちり被ったヘルメットを手で押し上げながら、氷上は空を仰いだ。
「今日のような日は、星が綺麗に見えそうだ」
 つられるようにして、海野も空を見上げる。
「そうだね。じゃあ、わたしも帰ったら見てみようかな、外」
「ああ。そうだな、今度、またうちに来てくれたら、望遠鏡を覗かせてあげるよ」
 そう言った後でちら、と海野を見ると、彼女はこの上なく嬉しそうな表情を氷上に向けてきた。氷上の心臓が、大きく波打った。
「やった! 嬉しい。この間見た時、すごく綺麗で……わたし、忘れられなかったの」
「そ、そうかい? それは嬉しいな」
 彼女の反応に無上の喜びを感じ、顔を熱くした氷上は、再び真っ赤に染まった空を見つめた。
 この頬の赤みを、夕焼けが隠してくれることを期待しながら。
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