初雪

 しいんと静まり返った教室の中、予備校の講師の声だけがやたらと大きく響いていた。来年から受験生ということもあり、この冬期講習に参加している者たちは、例外なく真剣な表情で講師の話を聞いている。無論、氷上格もその中の一人だった。
 氷上はホワイトボードに書かれることを逐一ノートに写していたが、ふと、窓の外に何かがちらついているのに気が付いた。誰にも気付かれないようにそっと視線を外へ移動させた後、氷上は思わず驚いて目を丸くした。
 ――雪、か。
 おそらく今シーズン、初めての雪だろう。そういえば今日の朝、天気予報で雪が降ると言っていたような気がする。テレビのレポーターが初雪だ初雪だと、やたら嬉しそうにはしゃいでいた。
 今まで初雪に対して特別な感情など抱かなかった氷上だったが、今年は違った。氷上は自然と、彼女の顔を思い浮かべていた。先日、学校主催のクリスマスパーティで会った時の、彼女を。
「明後日あたり、初雪が降るんだって。ホワイトクリスマスにならなくて、少し残念だけど」
 パーティドレスに身を包んだ海野は、そう言って微笑んだ。へえ、と相槌を打ちながら、氷上の視線は海野に釘付けだった。
「初雪って、なんかどきどきするよね。早く降らないかなあ、雪」
 海野の目はきらきらと輝いていた。まるで子供のような、純粋で穢れのない目だった。氷上はその瞳の純粋さに、いつも驚かされる。同時に、どうしようもなく惹かれてしまう。
 一人の友人に過ぎなかったはずの彼女を女性として意識した時、氷上の世界は姿を変えた。今まで知ることのなかった思いを、たくさん抱えるはめにもなった。それは氷上に無上の喜びを与えることもあったし、逆に胸を貫かれるような悲しみに耐えねばならないこともあった。
 雪を見ながら、そんなことに思いを馳せていた氷上は、ふと我に返ってホワイトボードに視線を戻した。既に授業は氷上がノートを取っていたところよりも進んでいて、氷上は焦った。
 シャーペンを再び動かしながら、氷上の頭はなおも、彼女のことを考えていた。海野のことを考え出すと、勉強が手につかなくなる。今までこんなことは一度もなかったのにと、氷上はここのところ、ずっと頭を抱えていた。
 ――僕が君のせいで勉強ができないと言ったら、君は何て言うだろうか?
 そんなことを考えて、自分の質問のくだらなさに、氷上は内心苦笑した。頭から彼女のことを振り払い、氷上は講師の声に集中しようとした。


 講習が終わると、既に外は暗くなっており、雪はなおも降り続いていた。
 氷上は早々に予備校を出て、はばたき駅に向かった。駅に向かう氷上の足は、何故かいつもより速くなっていた。
 駅前に着いたとき、氷上の目にライトアップされたクリスマスツリーが飛び込んできた。既にクリスマスは終わっているが、駅前のクリスマスツリーは年末までライトアップされると、確か駅の案内に書いてあった気がする。早く家に帰ろうとしていた氷上だったが、何故かその足は自然と、ツリーの方へ向かっていた。
 ツリーの下には、誰かを待つ人々や、イルミネーションに感激している子供たちの姿があった。氷上は近くまで寄って、そっとモミの木に触った。指先のちくちくとした感覚が、そのまま氷上の心に流れ込んできた。
 また、彼女の顔が頭に浮かび上がった、その時だった。
「あれ? 氷上くん?」
 聞こえてきた声に、氷上は心臓が止まるかというくらい驚いた。声がした方を振り向くと、やはりそこには思った通りの声の主――海野あかりが立っていた。白いマフラーとコートを身に纏い、いつもと変わらぬ微笑みを浮かべている。
「う、海野君、どうしてここに?」
「氷上くんこそ。あ、そっか、予備校の講習があるんだっけ?」
「ああ。今はその帰りだよ」
「大変だね。お疲れ様」
 彼女に労いの言葉をかけられると、氷上の肩の疲れが一気に飛んでいくような気がする。氷上は疲れを吹き飛ばすようにふう、と息を吐いた後、再び海野に尋ねた。
「それより、海野君はどうしてこんなところに?」
「ほら、今日、初雪降ったでしょ? なんだか嬉しくって、駅まで来たの。ここのクリスマスツリー、まだライトアップされてるって聞いたし」
 そう言って、海野は嬉しそうにツリーのモミの木に触れた。触れた部分の葉がぴんと跳ね、やや積もっていた細かな雪を吹き飛ばした。
「綺麗だよね。クリスマスパーティの時に、これくらい雪が降ったら良かったのに」
「ああ、そうだね」
 答えながら、氷上は心からそう思っていた。クリスマスの当日、彼女とこうして、雪の降るクリスマスツリーの下で過ごせれば良かったのにと。
 氷上は空から降る雪を手の甲で受け止め、溶けていく様を見つめながら、口を開いていた。
「知っているかい? 雪の結晶はね、一つとして同じものはないんだ。みんな違う形をしているんだよ」
「そうなの?」
「ああ。今僕の手の上で溶けた雪と同じ結晶は、もう他にはないんだ」
「そう考えると、なんだかすごくロマンチックだね」
 海野の瞳が、またきらきらと輝き始めた。自分の話で光を帯び始めた彼女の目を見て、氷上はこの上ない喜びを感じていた。自分の中に蓄積された知識が、これほど役に立ったと思ったことはなかった。
 ふと、氷上は、彼女の髪が雪まみれになっていることに気がついた。雪やツリーに夢中になって、振り払うことすらも忘れていたのだろう。氷上の手は、自然とその髪に向かって伸びていた。
「海野君、雪がたくさんついているよ。払ってあげよう」
「あ、うん。ありがとう」
 氷上は素手で、雪を払うために彼女の髪に触れた。さっと雪を払った後、氷上はその髪の柔らかさに驚かされた。自分のものとは当然ながら全く違う。いい匂いがするようにすら、感じる。氷上は一度払った後、思わず手を止めていた。
「氷上くん? どうしたの?」
 海野の声で慌てて我に返り、首を振る。
「い、いや。なんでもないんだ。なんでも」
 その直後、微かに氷上の髪からも雪が舞った。それを見て、海野が突然あっと声を出したので、氷上の心臓が跳ね上がった。
「な、なんだい、海野君?」
「氷上君の頭にも、ついてるよ、雪。払ってあげようか」
「あ、ああ」
 彼女の手が、自分の方へ真っ直ぐに伸びてくる。だが、そっと彼女の手が自分の頭に触れたのを感じた瞬間、彼女の手がひっこめられた。怪訝に思い、氷上は尋ねた。
「ど、どうしたんだい?」
「そういえば、氷上くん、頭に触られるの嫌いだったなって思って。ごめんね、無神経なことしちゃって」
「ああ……」
 そういえば以前、彼女をまだ友人だと思っていた頃、髪に触れようとしてきた彼女を怒ったことがあった。氷上はいつも気を付けて髪をセットしているものだから、それを乱されたくなかったのだ。
 氷上の心に罪悪感がわき、直後、氷上は首を横に振っていた。
「いいよ。そんなこと、気にしなくていい」
「本当に?」
「ああ、本当だよ」
「良かった。それじゃ、失礼します」
 海野はそう言って、氷上の髪に触れた。彼女の手が、すっと氷上の頭の上を滑っていく感触がした。氷上は思わず目を閉じていた。
 彼女をこんなにも近く感じたことはなかった。彼女の息遣いが、触れている手が、氷上に彼女という存在を知らせてくれる。そのあまりの心地よさに、氷上は熱い息を吐いた。
 ――僕は、幸せ者だ……
「はい。これでもう大丈夫だよ」
 彼女の声に、氷上ははっと目を開ける。すると彼女の笑った顔が至近距離にあって、氷上の心臓が高く跳ねた。鼓動と呼吸が乱れ始め、顔が熱くなっていくのを、氷上は自分の意志では止められなかった。
「氷上くん、寒い? 顔、真っ赤だよ」
 彼女の怪訝そうな声に、氷上はうろたえた。
「い、いや、なんでもないんだ。大丈夫だよ」
「本当? なんならそこのカフェで、あったかいもの飲んで帰ろうか」
 海野はそう言って、駅前にできたばかりのおしゃれなカフェを指差した。
 彼女に誘われて、断る理由もない。氷上は迷うことなく頷いていた。
「あ、ああ、もちろんいいとも。さあ、行こうか」
「うん!」
 海野は嬉しそうに頷いて、カフェに向かって歩く。
 その後ろ姿を追いながら、こんなに寒いというのに、氷上の心は火が灯ったように温かかった。
Page Top