思い出の浜辺で

 夕日が海の向こうへ半分沈んだ頃、氷上と海野はあの灯台の下の浜辺にやって来た。浜辺は全てが濃いオレンジ色に染まり、ざざんと静かに打ち寄せる波の音が響くのみだった。
「懐かしいね、ここ」
「ああ」
 風に煽られるスカートを押さえながら、海野は氷上の前を歩く。氷上はそんな彼女を微笑ましい様子で見つめながら、ゆっくりと歩いた。砂を踏みしめて歩くと、きゅっきゅっと鳴くような音がした。
 この上にある灯台で、二人は思いを伝え合った。卒業式が終わった後の、ちょうどこんな夕方のことだった。あれからもう数ヶ月。二人は同じ大学に進学し、共有する時間も増えた。今日も、空中庭園へデートに行った帰りだった。
 少し先を歩いたところで、海野は振り返って氷上に笑いかけた。それに応えるように、氷上も微笑んだ。
 柔らかな笑顔だった。出会った頃からは考えられないくらい、優しい笑顔。でももしかしたら、彼は本来こんなふうに笑う人だったのかもしれないと、海野は思った。それを不器用さが隠していただけなのかもしれないと。
 海野はそこで立ち止まり、氷上に尋ねた。
「氷上くん、覚えてる? あの時、わたしになんて言ったか」
「あの時って、卒業式の日のこと……かい?」
「うん」
 氷上は立ち止まって、考える仕草をした。眉を寄せて、難しい顔をする。そうしながら、氷上は眼鏡の鼻当ての辺りに指を当てて押し上げた。これは彼が考えている時の癖だ。難しい数学の問題に当たって唸っている時、店の前で何を買うか悩んでいる時、氷上はよくそうするのだ。
 海野が思わずくすくすと笑うと、氷上が戸惑ったように顔を上げた。
「な、何かおかしいかい?」
「ううん。ただ、氷上くんって、考えてるとき、そうやって眼鏡を上げるから」
「あ……」
 氷上は今気付いたかのように目を見開いた。その後で、微かに頬を赤らめながら苦笑する。
「僕のことをよく見ているんだな、君は」
「うん。だって、高校の三年間ずっと、氷上くんのことばかり見てたから」
「う、海野君……」
 氷上は照れたように視線を逸らす。海野はふふっと笑って、口を開いた。
「わたし、氷上くんがなんて言ったか、覚えてるよ。すっごく嬉しかったから。氷上くんも、わたしとおんなじこと思ってたんだなって」
 氷上は驚いたように顔を上げた後、照れたように笑った。
「僕も同じだ。君にオーケーされるとは夢にも思ってなくて……ほら、よく言うだろう? 初恋は実らない、と」
「そっか、氷上くん、初恋だったんだ」
「ああ。君は僕が初めて好きになった人だったんだ」
 氷上はそう言って、海野の方へゆっくりと歩み寄る。そのまま海野の隣に並び、口元に笑みを浮かべた。
「そして、今でも……大好きな人だ」
「わたしも、だよ」
 触れ合った二人の細い指が互いの温もりを手繰るように動き、やがて固く結ばれる。
 彼の口から発せられる言葉に、偽りがあったことはない。彼の言葉はいつも正しくて、それゆえに皆の耳にはうるさく聞こえることもあるだろう。だが、海野はそれを好ましく思った。彼の真っ直ぐな言葉を、瞳を、信じたいと思った。だからここまで、彼と共に歩んできたのだ。
「綺麗ね。夕日」
「ああ、そうだね」
 他愛のない言葉を交わしながら、海野はそっと、氷上の肩へ体重をかける。ややあって、氷上がそれをそっと受け止めてくれる気配がした。
 夕日が眩しい。海の向こうから、真っ赤な光がこちらへ真っ直ぐに向かってくる。海野は繋いでいない方の手でそれを防ぎながら、きらきらと光る水面を見つめていた。波は寄せては返し、寄せては返し、その光の反射の形を不規則に変えていた。
「綺麗……」
 海野の口から、自然と感嘆のため息が洩れる。それを見るのに夢中になっていた海野は、氷上へ体重をかけすぎていることに気付かなかった。
 ややあって、氷上の呻き声が響く。
「……ッ、海野君、ちょっと……」
「えっ?」
 だが、海野が気付いた時にはもう遅かった。
「わあッ!?」
「きゃあっ!!」
 氷上の体はバランスを崩し、砂浜の上へと投げ出された。手を繋いでいた海野も一緒に、砂浜の上へ、否、正確には氷上の身体の上へと倒れこんだ。手が砂の上を滑り、痛みが走った。
 乱れた髪を後ろへ払った後、海野は声を出した。
「ご、ごめん、氷上くん、大丈夫!?」
「いたた……あ、ああ……」
 氷上は仰向けになったまま、どこかへ飛んで行った眼鏡を手探りで探していた。
 海野は思わず、眼鏡を外した氷上の顔に釘付けになっていた。眼鏡を外した彼の姿を、今まで一度も見たことがなかった。氷上の目はかなり悪いらしく、眼鏡なしでは生活できないと言っていたから、なおさらだった。
 眼鏡を外した氷上の精悍な顔立ちは、海野の心臓に直接響くほどの衝撃を与えた。海野は思わずどぎまぎしながら、氷上の顔をじっと見つめていた。氷上は手を動かすのに必死だったが、ふと海野の視線に気づいて目を合わせた。
「な、なんだい?」
 海野はその瞬間、我に返った。
「ご、ごめん。氷上くんの眼鏡外した顔、初めて見たなあって……」
「え、あ、ああ……」
 氷上はその言葉に大いに戸惑ったらしかった。半分ほど体を起こしながら、前よりも慌てた様子で手を動かし、眼鏡を探していた。海野は氷上の側に落ちていた眼鏡を拾い、氷上の手の上に載せた。
「はい、眼鏡」
「ああ、ありがとう」
 氷上はそれを受け取って眼鏡をかけたが、その途端、氷上が怪訝そうな顔をした。
「どうしたんだい? そんな、残念そうな顔をして」
 どうやら、海野の今の思いがそのまま顔に出ていたらしい。海野は動揺しながら、口を開いた。
「あっ! え、ええと……もうちょっと氷上くんの眼鏡外した顔、見ていたかったかも、なんて……」
 海野は氷上の伸ばした膝の上に乗ったまま、そう言った。その後で、自分がまだ、氷上の体の上に座っていたことに気づき、慌てて退こうとした。
「ご、ごめん! 重かったよね? わたし、気付かなくて――」
 そう言って立ち上がろうとした瞬間、氷上に手を掴まれた。それが思いのほか強く、思わず海野の顔が歪んだ。
「えっ、ひ、氷上くん?」
「あ、いや……その、君がいいなら、もう少しこのままでも、僕は構わないと思って……」
 氷上は顔を赤らめて視線を逸らしながら、指の関節部分で眼鏡を上げた。突然の言葉に、海野は戸惑っていたが、やがてそっと氷上の脚の上へ腰を下ろした。氷上は視線を戻し、照れたように笑った。
「それで、ええと、何の話だったかな?」
「あ、うん。氷上くん、もう一回眼鏡外してくれる?」
 海野がおそるおそる頼むと、氷上はああ、と言って眼鏡を外してくれた。
 眼鏡越しではなくて、直接当たる彼の視線がいつもより強く感じられ、海野は思わず顔を赤くしていた。
 よく見れば、彼は整った顔立ちをしている。それを眼鏡が全て隠しているのだとすれば、とても残念なことではないかと海野は思った。だがその後で、いいや、と思い直す。眼鏡のかけていない氷上など、氷上ではないような気がしたからだ。
 そこまで思ったところで、氷上が眼鏡なしで生活できないと言っていたことを、海野は今更ながらに思い出した。きっと今、彼は不自由な思いをしているに違いない、と。
「あっ、ごめん。もういいよ。目、見えないんでしょ?」
 そう言うと、氷上から意外な答えが返ってきた。
「ああ、後ろの風景はね。でも、君の顔ははっきり見える」
「え……」
「気のせいかな、その、眼鏡がない方が、君の顔がよく見えた気がしたんだ」
 氷上の手が、海野の顔へ伸びてゆく。海野の熱い顔に、氷上の砂だらけの手がそっと押し当てられた。氷上の手と擦れて落ちていく砂の感触が、海野にはとても心地良いものに感じられた。
 その手がやや下へ動いた後、氷上は眉を顰めた。
「海野君、顔、熱いな。熱でもあるのかい?」
「ううん。だって、氷上くんの顔が、こんなに近くにあるから……」
「あ、そ、そうか……」
 今更気付いたかのように、氷上も赤面する。それを見て、海野はくすくすと笑った。
「氷上くんも、今、顔真っ赤だよ?」
「はは、そうかもしれない。でも」
 氷上は一旦言葉を切って、思いを噛みしめるような表情をした。
「幸せだよ。僕は、今」
「うん。わたしも……」
 海野はそう言って、顔を氷上の方へ近づけていく。
 氷上の目は大きく見開いたが、その後海野の顔を引き寄せるようにして、手に力を込めた。
 海野の唇を氷上が優しく包んだ時、水面が光を反射させ、きらりと輝いた。
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