「――くん、氷上くん」
優しい声が上から降ってきて、氷上の目がうっすらと開く。
氷上の目の前には微笑みを浮かべた海野が立っていて、氷上をじっと見下ろしていた。氷上は寝ぼけたまま、ふわあ、とあくびをしながら海野の顔を見上げた。
「ふふ、氷上くん、おはよう」
「ああ、おはよう……」
そう言った後で、起きぬけのぼんやりとした頭で考える。おはようという言葉は、この場に適切であったろうか。確かに朝、登校する時に海野と交わしたことは何度もあるが、自分が寝て起きた時に彼女と交わしたことは、一度も――
その瞬間、氷上の目が一気に冴えた。即座に眼鏡を直し、立ち上がっていた。
「うっ、海野君、ここは、学校……かい?」
「そうだよ。氷上くん、また昼寝してたみたいだから、見に来ちゃったの」
「ああ、そうか。また、か……」
氷上は恥ずかしさをごまかすように、もう一度眼鏡の位置を直す。このようなことが、以前にもあった。テスト期間中、氷上は連日のテスト勉強のせいで襲ってきた眠気に耐えられず、誰も来ない校舎の裏庭で眠っていたのだ。この場所は氷上の秘密の、そしてお気に入りの場所だった。誰も来なくて静かだし、一人になるにはちょうどいい。
そうして、誰も来ないだろうと油断して眠っていたら、一人やってきた人物がいた。それが、海野だった。寝ているところを発見されたことにうろたえ、氷上はこの場所を誰にも口外しないようにと、海野に頼んだのだった。
氷上の頭が徐々にはっきりしてきて、今がいつだったのかも思い出した。期末テストが全て終了した日の放課後だった。テストが終わったことに歓喜し、部活動に所属する者たちは部活を再開し、それ以外の者たちはわざわざ学校にとどまることもなく、帰宅していった。今校舎に残っているのは、部活動に所属している者だけ、ということだ。
海野は氷上と同じ、生徒会執行部に所属しているが、今日の集まりはなかったはずだ。それなのにどうして今もここにいるのだろう、氷上がそう疑問に思い尋ねようとした時、海野が先に口を開き、思いがけないことを言った。
「ねえ、氷上くん。わたしも隣、お邪魔してもいいかな?」
「ああ、いい――え?」
承諾しようとして、一瞬彼女の言ったことが分からず、尋ね返す。
「お邪魔するって、それは一体どういう意味だい?」
「だから、隣でわたしも寝てもいいかなって」
予想外の答えが返ってきて、氷上は思わず口をあんぐりと開けた。
「き、君も? どうして?」
「ほんとうはね、氷上くんを探して一緒に帰ろうかなって思ってたんだけど。でも眠っている氷上くんを見ていたら、ここでお昼寝するのも気持ち良さそうだなって……だめかな?」
そう言って頼み込む彼女の表情を見ていると、氷上は断れなくなった。元々この場所は氷上の陣地でもなんでもないのだから、断る理由などない。まして、相手は海野だ。
氷上はまだ驚きを隠せないながらも、頷いていた。
「あ、ああ、いいとも」
「ほんとう? ありがとう!」
彼女はにっこりと笑うと、早速氷上が座っていた場所から少し離れ、木の根元に腰かけた。スカートを払い、足を伸ばす。そうすると、陰の部分と陽の当たる部分が、ちょうど彼女の膝のところで分かれた。
氷上はしばらくぼんやりと彼女がそうするのを見ていたが、やがてゆっくりと腰を下ろし、彼女を見た。彼女はううんと可愛く伸びをして、木にゆったりと背をもたせかけた。
「うーん、やっぱり気持ちいいかも。スカート、ちょっと汚れちゃうかもしれないけど」
「なんなら、何か敷くかい?」
「ううん、いいよ。土の感触、気持ちいいし」
氷上に笑いかけた後、海野は足の先を伸ばした。
氷上はここに彼女が一緒にいることに若干の戸惑いを覚えつつも、悪い気はしなかった。むしろ、心が躍っていた。自分だけの秘密の場所に、一人、彼女がいる。それに今、二人きりなのだ。彼女とは何度かデートを重ねていたが、学校内で二人きりになる機会はそうそうなかった。だから余計に嬉しかった。
彼女が地面に置いた手に、ふと、釘付けになる。自分の手を見つめた後、ためらう。ここに自分の手を重ねてもいいものか。手を跳ねのけられて、彼女に拒絶されやしないだろうか――不安な考えばかりが頭の中を巡る。
だが、氷上は思い切って、その手を彼女の手に重ねた。案の定、彼女が驚いたように、氷上を見つめてきた。
「えっ、氷上くん?」
「あ、ああ、いや……嫌だった、かな」
俯いてそう言うと、ううん、と彼女の声が答えた。
「なんか、あったかくて安心する。氷上くんの手」
「そう、かい?」
うん、と微笑みながら海野が頷いてくれたのを見て、氷上は安堵のため息をつく。
「良かった」
安心した途端、急に自分の手の体温が上がった気がした。かあっと、頬まで熱くなる。彼女に触れているその一点だけが、まるで燃え上がるように熱かった。氷上の口からも、自然と熱い溜息が洩れた。
そのうち、隣から寝息が聞こえてきた。氷上が驚いて海野を見ると、海野は目を閉じて眠っていた。小さい息が、海野の口から洩れ出ている。彼女の寝顔は木陰が揺らいでいて見づらかったが、氷上が思わずどきりとするほど、可愛かった。
氷上は思わず、彼女の手に自分のそれを強く絡めていた。もっと、彼女の温もりを感じられるように、もっと強く、繋がっていられるように。
氷上は高ぶる胸を押さえながら、自身も眠りにつこうと、木にもたれて目を閉じた。
だが手から伝わる海野の体温が気になって、なかなか寝付くことができなかった。